パキン、と耳のすぐ近くで実に軽く乾いた音を立てて、それは私の肩と胸を滑り、膝の上に落ちた。その落下にあわせて目線で追いかければ、そこには飾り板が見事に割れてしまった私の髪飾りが金具と共に鎮座していた。
とりあえず手に持っていたさやえんどうのすじを取って、ザルに入れてから、壊れてしまった髪飾りを手に取る。鼈甲にベゴニアの花が彫り込まれた綺麗なものであったが、今は手の中で無惨な姿に割れてしまっており、それを見る自分の気分がじんわりと沈んでいくのが分かる。きちんと手入れして、金具も時折変えつつ、錆びぬように大切に使っていたのに、いきなりこんな風に壊れてしまうなんて。小さなため息が口から漏れ出る。
金具の破損であれば付け替えればまた使えるものの、飾り自体が真っ二つになってしまっては致し方ない。

今は食堂の一角で買い出しに行っているキリカさんの手伝いをしているところであったので、とりあえずは何かにに包んでおこうと、袂から懐紙を取り出し、髪飾りをその上に置くと、横から「あっ」とたった一言ながら大きな声が耳を突いた。突然のその声に驚いて横を向けば、つい先ほどまで暑い暑いと呻きながら、食堂のテーブルに額をつけてぐったりしていた平腹さんが目を丸くしながら手元をのぞき込んでいた。
ちなみに平腹さんの目の前にいる田噛さんは、暑いと口にするのも既に煩わしいとばかりに、椅子の背もたれに背中を預けて寝てしまっている。あまりに首が痛くなりそうな体制だったため、小さな氷嚢を手ぬぐいで包んで首の下に入れておいた。表情を見る限りなかなか快適なようだ。
平原さんにも同じものを渡したら、多少涼が取れたことに満足したのか突っ伏した体制のまま眠っていたが、いつ起きたのだろう。

「それ!」
「はい?」
「よくつけてたヤツじゃん!壊れたのか!」
「そのようで。」

さっきまでぐったりしていたのが嘘のような元気さに圧倒されながら「寝てる人が居ますからね。」と口元にぴんと立てた人差し指を当てて言外に「お静かに」と伝えれば、むぐ、と平原さんは片手口元を覆う。彼のこういう素直な所は美徳だと思う。年上なのに子供のように腕白で、どうにも手が着けられないところもあるが、基本的に彼は真っ直ぐで明るい人だ。田噛さんや谷裂さんに言わせたら「単純なだけだろ。」と返されるのが目に浮かぶが。

「残念ですが、仕方がないです。こうなっては修理も難しいでしょうし。」
「そっかー…。」

ほんの少し落ち込んだ私の気配を無意識ながら敏感に感じ取ったのか、平原さんまで眉を下げてしまう。それに申し訳なさを感じながら、反面ほんの少し心が穏やかになる。感情の機微を分けあえる人がいることの、なんと有り難いことだろうか。出来るなら、もっと心地のいい感情を分け合いたいものだが。「お気になさらず。」といいながら平腹さんの柔らかい髪を撫でると、くすぐったそうに目を細める平原さんがなにやら小動物のようで、微笑ましく思いながら続けていると、食堂の扉が開いた。

「ただいまー。あーやっぱり食堂は風通しがいいなあ。」
「だからって着崩しすぎだ木舌、だらしない。」
「あれ、遺駒、平腹?……田噛も居るね。」
「今帰った。……何をしている?」

馴染みのある顔が一気に食堂に入ってくる。それぞれ二人ずつで別の任務に出かけていた筈だから、おそらく道中で一緒になったのだろう。木舌さんの大分着崩した様子から肋角さんへの報告はもう終わった後だろうか。
各々の部屋にいるよりは、広く窓も多い食堂にいる方が暑くないと考えるのか、こんな猛暑日は皆よく食堂に集まる。
夏になると時折、靴と上着を脱ぎ捨て、内着で譫言のように暑い暑いと溢す一部獄卒の姿を見かけることもある。
この間などは平腹さんがブーツと上着と内着だけでなくズボンも脱ぎ捨て下着一枚になっていたのにはさすがに驚いた。すぐに「女子も居るんだからね!?」と珍しく声を大にした佐疫さんに連行されていたが。
それに「男の人はどこでも脱げていいですねえ。」とつい羨ましげに呟けば「そういう感想なの?」「そういう問題ではない!」と木舌さんと谷裂さんの両名から指摘され、加えて斬島さんには実は相当暑さに参っているのかと心配された。
それはさておき、少し身体を屈めた平腹さんの頭を撫でている私の光景に異様さを感じたのか、斬島さんが疑問を口にしながらこちらに歩を進める。それにつられるようにほかの三人もこちらに歩いてくるが、私はこの状況をどう説明したものかと思う。とりあえず任務を終えた彼らを労るべき、と考えて挨拶をする。

「お戻りなさいませ。今日の任務に滞りはありませんでしたか?」
「当然だ。」
「ただいま。大丈夫だったよ。……あ、それ。」

平原さんの頭に置かれた手から目線を落とした佐疫さんは、私の膝の上の懐紙に乗せられた髪飾りに気づいたらしい。真ん中から大きく割れてしまっているそれに「壊れちゃったんだね。」と言う。身につけるのは非番の日のみではあるが、長く使っていたのを知っているため私が落ち込んでいると思ったのか、彼の目線が気の毒そうな色を帯びた。周りの方々もなんとなく事情を察したらしい。まあ、壊れた髪飾りと平腹さんの頭を撫でている状況は繋がらないと思うが。
「あー…これは直せないか。残念だね。」
「確かに残念ですが、仕方のないことです。形あるものはいつか壊れてしまうものですから、これが天寿だったのでしょう。私の不注意や不慮の事故で壊れることなく今日までお付き合い頂いたのですから、感謝しませんと。」
「……遺駒らしいね。」

割れた欠片をつまみ上げて眺めていた木舌さんが、私の返事に表情を緩めて欠片を懐紙の上に戻した。その後ろではこちらを横目で見ていた谷裂さんが、しょうがない奴だとばかりに息を吐いたのが分かった。少し気にしてくれたらしい。

「それにしても、随分長いこと見ていた気がするな。」

とりあえず膝上の懐紙と欠片をテーブルの上に移動して、今し方帰ってきたばかりの方々と平腹さんにと、氷入りの麦茶を用意する。そうしているうちに一気に増えた気配に目が覚めたのか田噛さんも目を覚まして起きあがったので、最終的に全員分の麦茶を用意する運びとなった。
黒い漆の盆に麦茶を満たしたコップを乗せて持ってくると、皆それぞれお礼を口にしてコップを受け取った。律儀な方々である。
そうして喉を潤したところで、何の気なしにテーブルの上を眺めていた斬島さんがぽつりとそう口にした。すぐに「何が?」と訪ねたのは隣に座っていた佐疫さんだ。

「いや、この髪飾り…遺駒はこういったものを非番の時にしか身につけて居なかったが、思えばなかなか長くこれを目にしていた気がしてな。」
「そういえば、そうだね。」
「遺駒が身につけてたものっていくつかあるけど、確かに長いね。これいつから持ってたんだっけ?」

長く、という斬島さんに対してそういえばそうだと同調する二人に、よく見ているものだ、と感心する。髪をまとめ上げ、制服と制帽に身を包んでいる平時と違い、私服を身に纏い髪飾りをつける機会は圧倒的に少ないと言うのに。それを言い出したのが斬島さんだというのにも、失礼ながら少し驚いた。男性だからというのもあるが、服飾に関してそこまで興味がないと思っていたのだが、認識を改めなくてはならないようだ。自分も決して詳しい訳ではないので、人のことは言えないが。
そしてふと質問された年月についてを思い起こしてみた。いつからだったか。頭の中で指折り数えてみる。

「ええと、確か三十七年前からだったかと。」
「三十七年!?」

そうだそうだ、確か三十七年。思い出せたことにほっとした瞬間、素っ頓狂な声が複数上がり、思わず飛び上がってしまう。目を瞬かせながら斜め向かいを見やれば、自分の上げた声にはっとしたのだろう木舌さんや佐疫さんが慌てて手をひらひらと揺らしながら謝罪を口にした。平腹さんはただただ「三十七年かーへえー!すげーなあ!」と嘆息して、大きな声は上げなかったもののそれなりに驚いていたらしい斬島さんは薄く口を開いたままだ。

「遺駒は物持ちがいいと思っていたが、これほどまでとはな。」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。無くしもせず壊しもせず四半世紀はゆうに越えてるってなかなかすごいもんだよ。」
「平腹には無理だな。」
「それは、そうだね。」
「なんだよー!」

わいわいと軽口に発展している姿を微笑ましく思いながら、すじとりを再開しようかしようかとざるに手を伸ばした所で、静かな足音が耳に届いた。館の中なのだから当たり前だけれど、聞き覚えのある足音だ。
聞き慣れてしまえばそれぞれ特徴あるその音だけれど、これは。そうして入り口のほうを振り返ると、丁度食堂のドアが開くところだった。

「おや。みんな集まってるね。丁度良かった。西瓜を買ってきたんだ。冷たい内にお食べ。」

おもむろに扉を潜って現れたのは、予想通りこの特務室の副長であり、敬愛する肋角さんの補佐官である災藤さんだった。灰白色の髪を揺らしながらやんわりと笑みを湛えているその両手には艶やかで大きく立派な西瓜が網に入れられて四玉揺れている。
口々に「災藤さん!」「お帰りなさい!」と声が上がり、これも日常的な光景だなあと思いつつ、おみやげの西瓜を受け取ろうと立ち上がる。すると強くない力で肩を押さえられ、見れば谷裂さんがこちらを見下ろしていた。
「俺が運ぶ。お前は切る準備をしてくれ。」
「……はいっ」
気を使ってくれたのだな、という喜色が表情に出ていたかどうかは分からないが、ふん、と鼻を鳴らして谷裂さんはさっさと災藤さんのもとへ行ってしまう。お礼を口にしながら西瓜を受け取った谷裂さんは四玉の重量をものともせずに厨房に歩いていった。

「災藤さん。お時間は大丈夫ですか?災藤さんも西瓜食べて行かれますよね?」
「ああ、もちろん。」

その言葉に頷いて、西瓜と冷えたお茶の用意をしようと早足で厨房へ向かった。
とりあえず二玉切り分けて、あとは桶に氷水を張って入れておく。二皿に分けて乗せると、桶に西瓜を移していた谷裂さんがさっと立ち上がっても持って行く。その背を見ながら再度冷たいお茶を人数分いれなおし、塩の入った小瓶を持って皆の顔をつき合わせているテーブルへ持って行く。
見れば平腹さんは早々に西瓜にかぶりついていて、気が早いなあとつい笑いが溢れてしまう。テーブルの上に広げていたザルなどは手分けして避けてくれたらしい。

「遺駒。はい。」

佐疫さんが手渡してくれたのは髪飾りを乗せている懐紙で、お礼を言って受け取り、そこで大事なことを思い出した。
そうだ、この髪飾りは。

「おや、壊れてしまったのかい。」
似合っていたのに、残念だ。そう常と変わらぬ穏やかな声が聞こえて、悪いことをしたわけでもないのに、後ろめたさに肩を跳ねさせてしまった。
そろりと視線を向ければ、声と同じく変わらぬ表情のままこちらを見返している災藤さんがいる。怒っていない。当たり前だ。災藤さんはこちらの過失なしにむやみに怒ったりはしない。けれど。

「はい…ごめんなさい。せっかく頂いたものなのに。」
「いいや、遺駒が大事に使っていてくれたのを知っているからね。壊れるまで使って貰って、それも大いに満足だろう。」

え、と小さく声が上がったのが聞こえて、それと同時にぽん、と頭に大きな掌が置かれ、やんわりと撫でられる。先ほど平腹さんを頭を撫でていたのとは逆の立場だ。
そう、この髪飾りをくれたのは災藤さんなのである。ある日何かの気まぐれのように唐突に、この飾りで髪を結い上げて貰った。それ以来大事に大事に使って来たのだ。壊れてまったのを贈ってくれた本人に見られたくはなかった。
けれど単純な話だが、宥めるように撫でられたことで申し訳なさで少し萎んでいた心が緩やかに元に戻っていく。

「それ災藤さんに貰ったものだったんだね。」
「はい。」
少し意外そうに言う木舌さんに返事をすると、頭の上に置かれていた掌がするりと髪を撫でて、髪飾りが壊れたことにより横に垂れていたそれを掬いあげた。耳の縁を撫であげられるような感覚に、思わず耳の辺りを押さえてしまう。それにくつりと小さな笑いを漏らし、胸ポケットから何かを取り出すと、掬い上げたままの髪の房を後頭部まで持ち上げる。

「さ、災藤さん?」
「ちょっと右を向いてくれるかい。」
疑問を呈して投げかけた声に返事は返されず、至極マイペースに発せられた言葉に、ほぼ反射で従ってしまう。するとパチン、と硬質な音が耳の側で響き、持ち上げられた髪が再び垂れ下がることはなかった。

「実によいタイミングだったね。」
大きな手が、頬骨のあたりを撫でて離れていく。その手はそのままお盆の上にある、麦茶の入ったコップを掴み自分の口元へ持って行く。
「あの、災藤さん?」
まるで災藤さん、としか鳴けない鳥のようだとは思ったが重ねて何をしたのか、と疑問の声を上げる。それに一層笑みを深めた災藤さんが「あげるよ。」と一言だけ返事をする。
弾かれるように先ほどなにやらいじられていた場所へ手を伸ばせば、そこには所々穴の開いた板のような感触のものがあり、私の髪をまとめ上げていた。ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら上体をこちらに傾けていた災藤さんを見れば、彼は弧を描いた口元はそのままに目を細める。

「また大事にしてくれたら、嬉しいね。」

そう言い残して、ひらりとコートの裾を翻らせながら先ほど潜ったばかりの扉を潜って、災藤さんは行ってしまった。
その場に残された私を含めた獄卒の皆の間には呆気の文字が中空に浮かんだまま、暫くはその場を沈黙が支配していた。
平腹さんを挟んだ向こうから、ひょい、と私の方をのぞき込んだ木舌さんが「やるなあ災藤さん。」と告げる。

「ちょっと青みがかってる燻し銀の…これは薔薇かな?三輪の薔薇の意匠の髪飾りだよ。」
「髪飾り…。」

ちらり、懐紙に包んだ壊れた髪飾りに視線を落とす。よいタイミング、とは、なるほど。
素直に喜べばいいのか、と思いつつも贈り物を手ずからつけて貰うといのはなんだかとても気恥ずかしく、仲間に囲まれた常態であったならなおさらだ。じわりと耳朶が熱を帯びたのを感じながら小さく「大事に、します。」と言う言葉で締めくくるのが精一杯だった。

***

「薔薇、ねえ…。」
「田噛?どうしたの?」
「いや、詳しくねえから確証ねえし。そもそもただ似合うから買ったっていうこともある。」
「…ああ、もしかして、そういうこと?」
「かもな。」
「いやぁ、もしあれに含みがあるっていうなら『その前』にも確実に意図があるってことになるよねえ。」
「もしそうなら、」
「流石、災藤さん。」


紛うことなきベストタイミング


さてベゴニア、白薔薇、三本の花束の意味は?