外に出て空気を吸い込むと湿った匂いがした。この匂いはどうも好きになれないが、傘を叩く音は昔から好きだった。今思えば自分はけっこう変り者かもしれない、この天気が好きだなんて。



水溜まりにわざと足をはめてみる。ぱしゃ、となるが水はあんま跳ねなかった。通い慣れたこの道を通るのは約2ヶ月ぶり。歩いていくなんて初めてかもしれない。自転車なら数分で行けるこの距離を十分以上かけて歩く理由は俺にもわからない。天気とか関係なしに、なんとなく歩きたくなっただけの話だ。ぽつぽつと弾く音が心地いい。



久しぶりにきたマンションに入り、入り口で軽く傘を振って水を飛ばす。靴にかかったけれどさっきの水溜まりでもうすでに濡れているので気にしない。いつもはエレベーターであがっていたのに今日は階段。知らず知らずに着いてしまうのを恐れているのかもしれない。そんな自分に腹が立って誤魔化すかのように一段とばして階段をのぼった。




ピーンポーン

ふざけた音が響く。どたどたという足音が聞こえてガチャと鍵を開ける音がした。



「久しぶり、総悟」

「相変わらず散らかってんなァ」

「仕方ないでしょー、引っ越しの支度中なんだから」



玄関に入るとそこら中が段ボールで溢れていた。ドアを閉めてふと視線をやると目が合った。一瞬ぼーっと眺めてみるけど、彼女はちょっと待ってといって奥の部屋に消えていった。いつもなら勝手に上がり込んでたのに玄関で待つことしかできねェ。振り返ったときに思わず髪に触れそうになった左手を握り締めた。



傷つけることしかできなくて俺の勝手で別れておきながらも、変わらず接してくれるあいつが好きだった。今日だってそうだ。引っ越すからって俺が置いてったゲームをどうするかわざわざ電話してくれて。気まずい雰囲気なんてこれっぽっちもない。やはりこの関係が一番いいのだろうと思うけど、なァ。




「はい、これでしょ」

「そうこれこれ、あんたの家にあったなんてなァ。探してたんでさァ」

「あたしも昨日気づいたの。ごめんね、もっと早く見つければよかったね」




眉を下げる表情はあの頃と変わらない。いくら時間が過ぎたって結局俺もこいつも変わらねェんだ。わかってる、わかってるけど。




「いつ、引っ越すんでィ」

「えーと、明後日」

「ふーん、お元気で」

「かるっ!もっと潮らしくなんないのー?」

「胸のなかで生きてるから大丈夫、安心して逝きな」

「逝きません」




俺は目の前にいるやつがたぶん好きだ。でもだからといってなにかしようとは思わない。やっぱりこういうふうに笑いあえるのが一番俺らにはあってる。なにが正しいとかなにが間違ってるとか分かんねェけど、この空間が好きだからそんなこと関係ねーや。

これから先、こいつがどっかで誰かと出会って左手の薬指を自慢しにここに帰ってきたとしても、俺は笑えると思う。

「じゃ、またな」

「またね、総悟」




ドアを開ける。
もうこの景色は二度と見れない。外は先ほどと変わらない空模様で安心した。




雨に流れる
(過去も未来も、ぜんぶ、)



ドアの向こうに見えた彼女の涙を拭う資格は俺にはない





Thanks.千香さま