05別れと暖炉の炎
「.......失礼ですが、貴方は...侯爵家のエミリエ嬢で間違えありませんね?」
客間に通されたエルヴィンはゆっくりと口を開く。二人しかいない部屋にその声はよく響いた。
「えぇ....間違えありませんわ。.....夜会で数回お会いしただけですのに....よく覚えていらっしゃる事」
エミリエは緩慢な動作でエルヴィンに椅子を薦める。
「.......何故貴方がこんな不自由な所に、ただ一人の使用人と二人で.....?」
「..............。」
彼女もエルヴィンの向かいに着席した。サラに先程暖炉の火を起こさせたので、客間は温かだった。
「........貴方も私の父の性格は知っているでしょう.....。
子供を産めない体だと分かった途端に用済みとばかりに私を屋敷と内地から追い出したのよ」
「......そうでしたか。」
暖炉の中で薪が小さく爆ぜる。炎はかたまった血のような色をしていた。
それは茶褐色で、棘のある毒物に似ている。紅蓮、というのは当っていない。もっと凝固して、濃い感じである。
「.......単刀直入にお伺いするけれど.....貴方とあの子はどういう関係なのかしら」
エミリエは細い指を膝の上で組んだ。若い女性とはいえ、そのしこなしには侯爵家令嬢としての威厳が漂っていた。
「...........サラさんとは、良い友人関係にあります。」
「本当に......それだけなのかしら。
先程の貴方の所作を見ていると.....とても額面通りにその言葉を受け取る事はできないわ。」
「..........。」
「.....違うのなら非礼を詫びるわ。正直に答えて頂戴。」
エルヴィンは少しの間沈黙する。気持ちを言葉にしてしまう事に少しの迷いを感じたのだ。
自分は兵士300名の命を背負う調査兵団の団長である。決して恋愛事に現を抜かして良い身では無い。
それに自分はいつ死ぬとも分からない....仮に想いを遂げたとしても....その先、果たして彼女を幸せにできるのだろうか.....
「......私は知識も教養も無い人間ですが、貴方がとても優しい人だという事位は分かりますよ。」
......だが.....、それでも.....
「.......えぇ。そうです。私は...サラさんの事を「やめておきなさい。」
エミリエは鋭い一言でエルヴィンの言葉を遮った。大きな瞳が見るというよりは睨む様にエルヴィンを捕える。
二人はそのまましばし見つめ合う。双方共に、一歩も譲らぬと言った眼差しであった。
「........やめておきなさい。あの子はただの使用人よ....。褒められた出自の者でもない。
とても貴方と釣り合う身分ではないわ.....。」
「随分と....古い考えをお持ちですね。貴方の様な若い人の口からその様な言葉を聞くのは悲しく思います。」
「............以前お会いした時より....少し人間らしい物言いをなさる様になりましたね。
ですが冷静になるべきです....!私と父の不仲は貴方も知る所でしょう。もし私の使用人と貴方がその様な仲になればきっと父も良く思わない。
それは侯爵家から多額の援助を受けている調査兵団としても避けるべき事態では無いかしら...。」
「.......ではこのまま引き下がれと。それはできません。私の為にこんな雪の夜に待っていてくれた彼女を....裏切る事はできない。」
「先程も......言ったでしょう。これは貴方の為でもあるのよ。
あの子は幸いな事に自分の気持ちに気付いていない。......まだ間に合うわ。
お互いの気持ちが強くなれば私たちは、いいえ...サラは....きっと貴方の立場に害を及ぼす....!」
エミリエは少し語気を強くする。彼女がこの様に感情を露にするのは珍しい事だった。
エルヴィンもまた以前夜会で見かけた時とは随分と印象の異なる彼女に驚いていた。
「........それに....もしも、仮に二人が結ばれたとしても....やはりあの子はただの使用人よ。
何かしらの非難に合うのは目に見えているわ。
貴方は.....世間の冷たい視線からあの子を守る事ができるの?」
そして眉根を寄せて目を伏せる。組まれた指は微かに震えていた。
「.......あまりにも障害が多過ぎるわ.....。無理を通そうとすれば必ずどこかに歪みが現れる。
.......やめて、おきなさい。それがお互いの為よ。」
エミリエはもう一度溜め息を吐く。
その白い顔はあまりにも頑なで、非常に美しい女性であるというのにまるで老人の様に疲れ切って見えた。
しばしの間。
相も変わらず炎は鏡のついた大理石の煖炉の中で燃え盛り、雨戸が締め切られた冷えきった窓、縁に金を入れた白い天井、深い翠色の皮の椅子や長椅子、壁に懸かっている滴る森の絵画、彫刻のある黒檀の大きな書棚を赤々と照らしていた。
そして.....目元を手で覆っていたエミリエはやがて掌をゆっくりと膝に戻し、再び真っ直ぐにエルヴィンを睨みつける。
あまりにも無垢な、透き通る様に純粋な敵意にエルヴィンはしばし戸惑う。
それは過酷と熾烈、そして孤独の道を辿って来た人間独特の強さを備えていた。
この令嬢が.....侯爵家でどれだけ辛い立場に置かれて来たのか、それだけで充分理解する事ができる。
..........彼女は心の底からサラの事を思っているのだ。
暗く閉鎖的な内地で....恐らくサラだけが、心の支えだったのだろう。
だから....自分の大事なものを奪おうとする私の事を........
「それに.......貴方の冷淡な仕事ぶりは私の様な家から出ない病人だって知っているわ。
とてもサラを幸せにできる人間だとは思えない。」
エミリエは冷えきった瞳をエルヴィンから逸らさないままゆっくりと口を開く。
エルヴィンは口を閉ざしたままだった。炎の中で、薪がひと際大きな....悲鳴の様な音を立てて爆ぜる。
「.............何も、言わずにここから立ち去って下さい。
サラには私から話をしておきます。」
エミリエの固い言葉が乾いた空気が満ちた部屋に響いた。
少しの沈黙の後、ゆっくりと革張りの椅子からエルヴィンは腰を上げる。
そして静かに客間の入口へと足を向けた。彼の行動を見て、ようやくエミリエは表情を緩める。
どうやら....自分の意見は聞き届けられた様だ。
.....調査兵団の団長と一介の使用人....住む世界があまりに違い過ぎる。
いつかはお互いの想いが行き違い....不幸な思いをする事になる。
鳥は空に、人は大地に生きる事が自然で正しい事である様に、物事には適正というものがある。
サラには....私の母の様な辛い思いはして欲しくない.....。
「...外套は....玄関の右の部屋にかけられています。」
エミリエは溜め息と共に言葉を吐き出す。その声からは疲労の色がありありと伺えた。
「.........私の使用人に良くしてくれて、ありがとうございます。
そのお心遣いは忘れませんわ........。」
その言葉が終わるか終わらないかの内に......客間の扉は静かに閉じられ、部屋にはエミリエただ一人になった。
*
「お....お嬢様。兵隊さ...いえ、団長さんは......」
しばらくして様子を伺いに来たサラは、客間にエミリエの姿しか見当たらない事に戸惑いながら尋ねた。
「......帰ったわ。そして二度と貴方の前には現れない。
.......紅茶はもう結構よ。下げて頂戴。」
エミリエは力無くそれに答える。彼女もエルヴィンも、結局紅茶には手つかずのままだった。
「え........あの......。それは一体どういう.....」
サラは濃緑の瞳に困惑を浮かべてエミリエを見つめる。
「言葉の通りよ......。一介の兵士ならまだしも、団長とは.....とても貴方に釣り合う筈ないわ。」
「そんな.....お友達でいる事もできないのですか....!?」
「......友達、ね。貴方はそうでも向こうは同じ事を思ってはいないわ。」
「お嬢様.....一体何のお話をなさって.......」
「サラ。いくら優しくされようと、あれは男なのよ....!」
「...........っ。」
「いつか必ず.......貴方を傷付ける時が来るわ。......八年前の様に....!!」
エミリエの言葉に、サラの体は小さく震えた。
そして、その瞳を静かに自分の手元に落とす。その指先も微かに震えていた。
「........私は.....貴方の事だけが心配なのよ。分かって頂戴。
サラに辛い思いはもうして欲しくないの......。」
掠れるエミリエの声を聞いて、サラはもう何も言えなくなる。
彼女の気持ちが痛い程分かるからだ。
何故なら、エミリエが自分を思ってくれる様に....自分もまた彼女の事を、心の底から大切に....
「........少し、疲れたわ。寝室に戻るのを....手伝って頂戴.....。」
エミリエがひどく小さな声で呟く。
サラはそれにゆっくりと頷き、肩を貸してその痩せた体を深翠の椅子から起こすのを手伝った。
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