07誘いと春の訪れ
「......あの、先生....。お嬢様の具合は.....」
「そうですね.....。緩やかではありますが少しずつ病状が進行しています。
........あまり良い状態ではありませんね.....。」
「..................。」
「気を落とさない様に。この状態を保っているだけでも喜ばしい事ですよ。
成人を迎える前に亡くなってしまうのが普通ですから....」
「はい.....。ありがとうございました。」
「えぇ。それではまた.....」
*
「何浮かない顔しているのよ」
ベッドの中で上半身だけ起こして新聞を読んでいたエミリエがサラに尋ねる。
「ほら。見てご覧なさい。例の無礼な調査兵団の団長が記事に載っているわよ」
「..........え」
彼女の言葉にサラは一式の紅茶の用意をテーブルに置いてエミリエの元に駆け寄る。
その様子をエミリエは苦笑しながら眺めた。
......全く、この子が私以外の事にここまで夢中になるのは初めてかもしれないわね....。
「ほら。ここよ。.....隣に映ってるのは人類最強とかいう胡散臭い通り名を持っているリヴァイ兵士長だわ。
嫌ね。何かしらこの目付きの悪さ。ねえ、サラ.....」
そこまで言って、エミリエは口を噤んだ。
(あぁ........)
今の私の言葉は....きっと彼女に届いていない.......
それほどまでに、新聞の荒い画素の写真に映るエルヴィンの姿を見つめるサラの瞳は真剣だった。
エミリエはひとつ溜め息を吐いて彼女から目を逸らした。
二人の仲を認めて見守ろうとは思っていたが、こうも露骨に気持ちを表現されると少々複雑なものがある。
........全く。まるで親の気分だわ......
「........あげるわ。」
そして小さく呟く。
「え........?」
サラが不思議そうに新聞から顔を上げる。
「あげるわよ。その新聞。切り取るなりなんなりして好きになさいな。」
「えっ、別にそんなつもりじゃ.....」
「あれだけ熱っぽい視線で眺めてもらえば新聞も本望でしょうよ。.....全く。」
「あの、お嬢様......?」
「........サラ。」
エミリエが微笑みながらサラへと手を伸ばす。それに応じる様に近くへ寄ると、優しく頬を撫でられた。
「私は大丈夫よ。心配いらないわ。」
「..............。」
「そんな顔しないの。馬鹿ね、貴方がどんなに落ち込んだって私の病状は変わらないわ。」
「それはそうですが......でも......」
「.......ほら、今日は水曜日でしょう。買い出しへ行ってらっしゃい。少し林檎を多めにお願いするわ」
「はい.......。」
エミリエはサラが頷くのを見届けてから枕元に置いてあった本に手を伸ばし、それに目を落とすともう彼女の方へ視線を向ける事は無かった。
少しだけ逡巡した後、主に向かって小さく頭を下げてサラは退室した。
*
青果店で林檎をぼんやりと手に取って見比べる。
「そうですね.....。緩やかではありますが....少しずつ病状が進行しています。
........あまり良い状態ではありませんね.....。」
(................。)
溜め息を吐いて林檎を籠に入れる。
少しでも美味しそうなものを....と思ったが、自分にはその見分けがさっぱりつかない。皆同じに見える。
「......随分と林檎を沢山買うんだな.....」
「!」
唐突に後ろから話しかけられたので持っていた林檎を取り落としそうになる。
ふと自分が持つ買い物籠に視線をやると林檎が山盛りになっていた。無意識のうちに入れてしまっていたのだろう。
「......エルヴィンさん.....」
何だか気恥ずかしくなって声の主から視線を逸らした。
.......あれから何回か会っているのに、名前を呼ぶのは未だに慣れない。
彼が苦笑する気配がする。それが更にサラの顔に熱を集中させた。
「少しぼんやりしている様だな....。どうかしたのか。」
エルヴィンは彼女の籠から林檎を元に戻す手伝いをしながら優しく尋ねる。
「い、いえ.....何でもないんです。何でも....」
恥ずかしさからその声は非常に小さなものになってしまう。
「そうか.......」
彼はそれきり何も聞かず、柔らかく笑うばかりだった。
必要な林檎の会計を終えて店の外に出ると何処かの若草を薙いで来る風が微かな春の香を送って頬を掠めていった。
足下には雪解けの水たまりがいくつかできており、踏み入れると静かに波紋を広げる。
遂この前まで極寒の冬であったのに、季節はもう春へと向かっているのだ。
良い心持になってサラはしばらくじっとしていたが、やがて隣の人物に手を引かれて歩き出す。
彼の事を見上げると温かなアイスブルーの瞳がこちらを見つめ返して来た。
新聞の写真で彼を見つけた時も思わず見入ってしまったが、やはり本物の方が素敵だ。
そして上品なその所作ひとつひとつに見蕩れる度に....自分とはやはり住む世界が違うのだな、と思い知らされる。
その事は小さな痛みとなってサラの胸を締め付けたが、それ以上に彼の隣に並べるのは大きな喜びで.....
塞ぎがちだった心に、一筋の光を齎してくれる様な......
*
「ふざけるんじゃねえ!!」
「なんだと!!??」
二人がいつもの様に街を歩いていると、突然怒声が辺りに響き渡る。
「.......喧嘩か。」
人だかりの間から殴り合う二人の男の姿が見えた。エルヴィンはサラを守る様に彼女の前に一歩出る。
あまり治安が良くないこの通りでは喧嘩は割と良くある事だ。
人々も慣れているのか野次を飛ばしたりしながらそれを周りから眺めている。
「...............?」
ふと、自分のジャケットが引っ張られるのを感じてエルヴィンは後ろを振り向いた。
「........サラ?」
呼びかけても反応が全く無い。ただ、いつもの豊かな表情が嘘の様にその顔は凍り付いていた。
指先が白くなる程ジャケットを握りしめる掌は震えており、明らかにその様子はおかしい。
勿論、婦女子にとって殴り合いの喧嘩というのは忌むべきものであるのは当然であるが.......
「サラ。」
彼女の肩をそっと抱くと、ようやく我に返った様に弱々しく笑う。
「.......ごめんなさいエルヴィンさん......。ちょっと、男の人の怒鳴り声って怖いんですよね....。」
そうして何でもない様に手をジャケットから離して謝った。だがその顔色は紙の様に白く、明らかに調子が悪そうである。
「................。少し、休もう。」
エルヴィンはサラの肩を抱いたままその場を離れた。
未だ喧嘩は白熱しているらしく、怒鳴り声が後ろから聞こえる度に彼女の薄い肩は微かに震えるのだった。
*
「もう大丈夫ですよ、エルヴィンさん。ごめんなさい。私臆病だから....
お気遣いありがとうございます。」
いつものベンチで並んで座り、ぽつりぽつりと会話を続けるうちにサラの調子はすっかり良くなった。
だがそれでもエルヴィンは心配だった。先程の事に加えてどうも彼女は最近元気が無い。
サラには何の屈託も無い笑顔を浮かべていて欲しいのだ......。
「......悩みがあったら言いなさい。
力にはなれないかもしれないが、打ち明けるだけでも随分と心持ちが変わるものだ。」
そしてなるべく優しく彼女に語りかける。
「あ..................。」
だが、その言葉にサラの口は噤まれてしまう。.....何か言葉を探している様だった。
エルヴィンは静かに彼女の声を待つ。二人の手はいつの間にか重なり合っていた。
「.......お嬢様の具合が....あまり....。」
それだけ言うとその口は再び閉ざされる。そしてしばしの沈黙が訪れた。
枯れ木にかかっていた雪がどさりと落ちる音がどこからか聞こえる。
雀の群が灌木の間をにぎやかにさえずり、嬉々としてとびまわっていた。
「わ、私.....何処かで期待したいたんです....。」
どれ位そうしていただろうか。ようやくサラがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「内地のお屋敷を離れてのんびり暮らせば、お嬢様の体も良くなると.....
でも.....駄目なんです。全然良くならないんです。
今は大丈夫かもしれないけれど....これから先、もっと悪くなってしまったらと考えると....私、怖くて.....」
そこまで言うとサラは目を伏せて俯いた。逆にエルヴィンは空を見上げる。
そしてしばらくしてから「サラ」と彼女の名を呼んだ。
サラがそろりと顔を上げると柔らかく微笑む彼と目が合う。
男性でありながらあまりにも綺麗に笑うので、彼女は思わず固まってしまった。
「サラ。来週の末は空いているかな」
「そうですね.....まだ....分かりません。」
「丁度その日だけ午後に時間の空きができる。良かったら付き合ってもらえないか?」
「......本当ですか?」
サラは嬉しさから思わず彼の掌を両手で取る。
水曜日の数十分しか会う事ができなかったエルヴィンと、もしかしたら半日過ごせるかも知れない......
そう思うだけでサラの胸は信じられない程幸せな気持ちになった。
「あ、でも.....お嬢様に伺ってみないと....具合も気になりますし....」
しかし自分の主の事を思い出して彼女はしょんぼりとした表情になる。
「無理にとは言わないが....。君は少しあの屋敷を離れて休む必要があると思う。」
エルヴィンは自分の掌を掴んでいた彼女の手を更に空いている方の手で覆いながら言った。
相も変わらずその瞳は優しい色をしている。
「最近君は何処か塞いでしまっていて、以前の様にあまり笑わなくなってしまった....。
私は君の笑顔が好きなんだ。......笑っていて欲しい。」
駄目かな?と少し照れた様に笑う彼に対してサラはもう何も言えなくなる。
ただか細い声で、ようやく「お嬢様に.....伺ってみます.....」と呟き、手を握られたままがくりと俯いてしまった。
耳まで赤い彼女の様子をエルヴィンは微笑まそうに眺める。
そして手をそっと解いてサラの深い色の髪を撫でた。彼女の顔の朱色は更に濃くなり、遂には首にまで達する。
首筋を撫でて行く未だ少し冷たい初春の風が、サラにとっては丁度良い熱冷ましになったのでは無いだろうか。
「.......君のお嬢様が少し羨ましいな。」
エルヴィンがぽつりと呟く。
朱色が抜け切らないサラが不思議そうに顔を上げた。やはり熱いのか手でぱたぱたと顔を扇いでいる。
「いや.....何でもない。
.....私ももし介護が必要になったら君に頼む事にしよう。大切にしてくれそうだ。」
「エルヴィンさんまで病人になられたら悲しいですよ....。
いつまでも元気に調査兵団の団長さんを務めて頂きたいです。」
第一私の力ではお嬢様一人のお世話で手一杯ですよ.....。と彼女は困った様に少し眉を下げる。
「もしもの話だ。気にしなくても良い。」
「そうですね....。」
そう言ってサラは笑う。ようやくいつもの様な温かな笑顔が見れた。
彼女が笑っていてくれるなら、今の自分は何でもできる様な気がする。
この笑顔こそが厳しい日々を送る私の心の安らぎであり、支えなのだから......
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