03待ち合わせと夜の雪
「もういいわ。下げて頂戴」
様子を伺いに来たサラにエミリエはそう言うと、再びベッドに身を預けた。
「......もう少し食べないと治るものも治りませんよ。せめてスープだけでも....」
その様子を見てサラはそっと目を伏せる。
努めて表に出さない様にしているが、彼女は日増しに食欲を失うエミリエの事が心配でたまらなかった。
「............。そうね。それじゃあスープだけ置いておいて頂戴。」
「温め直しましょうか?」
「大丈夫よ。温くて丁度良いわ。」
「ではまた.....終わる頃にお伺いますね。」
「サラ」
「.......はい」
「迷惑かけるわね......」
「そんな事考えなくて良いんですよ、お嬢様。今は体を治す事だけに専念なさって下さい.....。」
「............その通りね。」
「では....また後ほど。失礼いたします。」
配膳盆を持ち上げ、小さく会釈してサラはエミリエの部屋を後にした。
半分程残った食事を運びながら歩く廊下は、冬の寒さが身に沁みてくる様だった。
窓の外は......月、そして雪。
木でできた窓の桟にもびっしりと雪が霜を下ろし、その輪郭が月光によって黄色く染め上げられていた。
流し場に一人立ち、食器を水につける。
何故かサラも食欲を感じられなかった。
息を......吐く。ぴちょん、と水音が何処からか......
結局サラとエルヴィンが約束の日.....つまり今日、出会う事は無かった。
(きっと、忙しいのだろう.....。調査兵団はとても多忙なところだと、前にお嬢様が言っていた.....)
重い荷物を抱えたまま.....通りを端から端まで探しても、あの日溜まりの様に優しい髪の色をした兵士に出会う事は無く....
(何故.....こんなにもお会いしたいのだろう......。)
サラは.....どうしても諦め切れないでいた。
また来週.....若しくは再来週.....待てば会えるかもしれない。
それでも約束を交わした今日という日......そこで会う事に意味を感じるのだ。
(.........それに......あんなに寂しそうな目をした人が、果たせない約束をするものだろうか......。)
水を張った盥に波紋が広がる。
サラは冷たい水に手を浸し、洗い物を始めた。
*
「.......当たり前か......」
エルヴィンは白い息と共に小さく一人ごちた。
通りの商店は皆門戸を閉ざし、オレンジ色の街灯だけが辺りを照らしている。
当然だが人の気配は無い。まともな人間ならもう眠りに就いている時刻だ。
......待っていてくれる筈がない。
そうと分かっているのに......ここに訪れてまった自分の諦めの悪さに苦笑してしまった。
ふらふらと疲れた体を引きずり、ベンチに降り積もった雪を軽く手で払ってそこに腰を下ろす。時刻は既に日付を越えていた。
.......やはり、約束等するべきでは無かった。
団長という役職がどれだけ多忙を極めるかは、自分が一番よく分かっている筈だったのに.....。
溜め息を吐いて、足下を見つめた。ブーツの爪先が雪と砂利に塗れて薄汚れている。
深々と雪は降り、静まり返る街並の中、まるで世界中に一人だけになってしまった様な.....そんな気持ちがして仕様が無かった。
ふ、と街灯のオレンジが遮られた。顔を上げると、光のみならず冷たく舞い上がる雪までも自身に届かなくなっている。
........頭上には.....傘が、後ろから差し出されていた。女性が使うものにしては少し大きい。温かな薄紅色だ。
振り返ると傘の持ち主と目が合う。それはいつもの様に温かく笑い返してくれて......
.........なんだ。
サラはやはり、私の事を待っていてくれたんじゃないか......
「今晩は兵隊さん」
彼女はそう言って私の肩から軽く雪を払ってくれる。
「素敵な夜ですね。」
そしてベンチを回り込んで隣にそっと腰掛けてきた。
「ご一緒しても、よろしいですか。」
細められた目があまりにも優しくて、衝動的に抱き締めてしまそうになる。
それを懸命に押さえて私も同じ様に笑う。ひどく弱々しい笑みだったと思うが、彼女に届いただろうか.....。
しばらくの間、二人の間には静けさだけが広がっていた。
雪が....道や街路樹、家々の微かな灯かりさえも全て包み込んでいく。
昼の喧噪の中残された足跡が段々と消えてしまうのを眺めながら、ただ私達は手を繋いでベンチに腰掛けていた。
.....それがとても温かかった事は、今でも....強く、覚えている。
「.......何故、こんな時間まで.....?」
そう問えばサラはほうと息を吐いてこちらを向く。
「何ででしょうね.....。一度は帰ったのですが....
夜、お嬢様がお休みになられてから一人で仕事をしていると、どうしても兵隊さんの事を考えてしまって.....
......それで、来てしまいました。」
「......すまない。私は約束を破ってしまった。.....兵士にあるまじき失態だ。」
「....破ってなんかいませんよ。
だって今、こうして来て下さったじゃないですか......。それだけで充分ですよ。」
サラは穏やかに微笑む。それだけで、公舎からここまで駆けつけた価値があったと確かに思えた。
「.....君は、いつも幸せそうだな。」
もう一度自分の爪先に視線を落としながら言う。
「そうですねえ。幸せですよ。」
迷いの無い答えが帰って来た。
「......こんな世の中でも、君は幸せだと....思えるのか。」
羨ましいな.....と呟きながら空を扇ぐ。彼女の傘によって視界の半分は薄紅色に覆われていた。
「......確かにこの世界には辛い事が沢山あります。今ある平穏だって仮初めのものです....。
.....でも、良いんです。この閉鎖的な空間の中でも、小さな幸せひとつひとつが私にとってとても大切なものですから.....。」
「......そうか。」
「そう思えるのは、貴方たち兵隊さんのお陰なんですよ。
いつも、私たちが暮らす街を守って下さって.....本当にありがとうございます。」
「......君が思っている程、兵士とは褒められた人種じゃないさ......。
私だって......」
そこでゆっくりと口を噤む。
言ってしまう所だった。
胸の内に澱の様に溜まった弱音の数々を、この.....何も知らない娘に....全てを吐露してしまいたくて、どうしようもなかった。
「そんな....自分たちを、御自分を....貶めないで下さい。
......私は知識も教養も無い人間ですが、貴方がとても優しい人だという事位は分かりますよ。」
サラは私の事をひたと見つめる。髪と同じで深い色だ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂っていた。
「そうでなくては.....こんな雪の降る寒い夜に、約束を果たしに来てくれませんよ.....」
私は無意識に彼女へ手を伸ばし、寒さからほんのり赤くなった頬に触れ、それから頭をそっと撫でた。
「......出来る事なら私も、君の目を通して世界を見てみたいものだ.....。」
サラは撫でられて気持ち良いのか少し目を細めてへにゃりと笑う。それにつられる様に私も破顔した。
この時に、もう私は.....自分の気持ちに気付いていたのだろう.....。
いつ死ぬとも分からぬ身に、出過ぎた感情だと分かってはいたが.....
それでも想いというのはままならないもので、彼女を傷付けると分かっていても手を伸ばし.....
「サラ」
「......はい。」
「次は必ず約束を守る。だから....どうか許してくれないか....。」
「そんな....。私が好きで待っていただけですから....。
私こそ、諦めが悪くて......何だか、ごめんなさい。」
.......何故。
何故笑っていられるのだろう。何故こんなにも嬉しそうにしてくれるのだろう。
胸が一杯で、サラの顔を見る事が出来なかった。
だから変わりに繋いでいた手を痛い程握ってやる。
「......今日は送ろう。君の勤め先は博物館の方向で良かったかな」
「え.......そんな、大丈夫ですよ。兵隊さんこそお疲れでしょう。私に構わずお帰り下さい。」
「こんな遅くに女性を一人歩かせたとあっては兵士の名に恥じる。
......送らせてくれないだろうか。」
「........ありがとう、ございます。」
そう言ってサラは嬉しそうに、けれどどこか切なそうに私の手を握り返すのだった....。
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