02約束と水仙
「最近上機嫌なのね」
サラがピアノの上の埃を羽ボウキで払っていると、刺繍をしていたエミリエが声をかけてきた。
「はい。とっても素敵な事があったんですよ。」
サラは優しく目を細めながら答える。
「何があったの。そんなに楽しい事なら私にも教えて頂戴よ」
そう言いながら彼女はぷつりと赤い糸を切り、視線を手元からサラへと移した。
「大した事ではないのですが....」
少し照れた様にサラが顔を伏せる。
「大した事あるわよ。貴方分かりやすいもの。毎週水曜日が近付く度に落ち着かなくなって....割る食器の枚数も増えてるわ」
「す、すみません....」
「良いのよ。安物ばかりだし。それに片付けるのは貴方なんだから。
.....サラ。貴方そんなに買い出しが好きだったかしら。」
「いえ....あの、ただ....お話をしているだけなんです。」
サラは羽ボウキを持つ自分の手を見つめながら答える。
「.....話?誰と」
「調査兵団の....兵隊さんです」
「兵士?.....まぁ最近は女性の兵士も増えているみたいだしね」
「いえ....男の方です」
サラの言葉にエミリエは持っていた刺繍針を床に落とした。
「.....男って....貴方が?」
「.....はい。私が落としたハンカチを拾って....それがきっかけで」
「そうなの......。」
「あの兵隊さんは良い方です。とても優しくて....」
サラの頬に淡い朱色が差す。
「好きなのかしら?」
エミリエがそう問えばその朱は更に色濃くなった。
「よく、分からないです....。でも、会うのがいつも楽しみで....会えない週はとても悲しくなります...。」
「ふうん。貴方がねぇ....」
サラが刺繍針を拾ってやると、エミリエは作業を再開する。白い布の上には色とりどりの花が咲いていた。
サラも掃除を再び始めるが、それは何処か手つかずで、小さなミスを繰り返してしまう。
そんな彼女の様子を見て、エミリエは切なげに眉を寄せるのだった....
*
水曜日。予定が空くと一番嬉しい時間帯がある。
午後二時から四時位の、調査兵団の公舎から歩いて10分程の商店が集まる通り。
冬が本格的に深まり、街には雪が降り積もっていた。
冷えた空気は清々しく、吸い込めば肺の中が浄化される様な気持ちがする。
通りの中、彼女が行きそうな場所に目星を付けて歩けば、遠くからでもすぐ分かるあの赤いマフラーが目に飛び込んで来て.....
その瞬間、胸の内は安堵と充足感で満たされるのだ。
......何故か、私たちは待ち合わせの約束はしなかった。
私はいつ彼女の前から姿を消すとも分からない。
だから、それをしてしまうのはあまりにも無責任な気がして....どうしても一線を越えられずにいたのだ。
だが....約束が無くとも、サラは自分の事をいつも待っていてくれる。きっとそうだ。
彼女が自分と一緒にいる時に見せる少し切なげな笑顔から、それが痛い程伝わって来て....嬉しい反面、私もまた酷く切なくなるのだった....。
「綺麗な花ですねぇ」
ふと、聞き覚えのある声に足を止める。
予想した通り、そこにはサラが花束を持った何処ぞの御夫人に声をかけていた。
「水仙ですか?」
つくづく思うが、彼女はいつでも楽しそうにしている。人と話をする時は特に。
最初に会った時に言っていた人の話を聞くのが好き、というのはどうやら本当の事の様だ。
「正解よ。これは水仙の花。」
「やっぱりそうでしたか。冬なのにこんなに綺麗な花が咲くんですね。」
「角の花屋で沢山売っていたわ。お嬢様に買って行って差し上げたら」
「はい!そうします。ありがとうございます!」
礼を述べて大きな買い物袋と共に元気よく走り出す彼女が、石段に足を引っ掛けていつぞやの様に盛大に転びそうになったので駆け寄って支えてやる。
「......君という女性は....本当に目が離せないな....」
「こ、この感覚は....兵隊さんですね.....」
自分の胸の中でサラのくぐもった声がした。私の体にしがみつく彼女が可愛らしくてその頭髪を撫でてやる。
艶やかなブルネットだ。一度下ろした所を見てみたいものだと思う。
ゆっくりとサラが顔を上げた。相変わらず日溜まりの様に優しく笑う。
「お会いできて嬉しいです。三週間ぶりですか?」
「.....いや、二週間ぶりだ。」
「お変わりありませんか?」
「変わっている様に見えるかい?」
「いえ....相変わらず優しそうで、素敵な方だと思います...!」
彼女は照れた様に目を伏せた。
......可愛い。その様子に頬が緩みっぱなしだ。
この数ヶ月間、会う回数こそ少なかったが、私とサラはすっかり懇意な間柄となった。
彼女にどういう感情を抱いているのかと聞かれればまだよく分からなかったが....
それでも、サラに会えれば嬉しいし、仕事の疲れもどこかへ消えてしまう様な気がする。
奇妙な出会いから始まった私たちの関係だが、今は私にとって無くてはならないものだったし、彼女もまた同じ様に思ってくれていると....そう、思っていた。
「今日の買い物はこれで終わりかな?」
そう聞いて大きな買い物袋をその手から取り上げる。
この行為、最初は頑として拒否されたのだが、今では彼女もすっかり諦めて私に任せる様になっていた。
第一この重さだ。彼女の細腕にはきついものがあるだろう....。男性の使用人仲間等はいないのだろうか....。
「買い物はあとひとつあるんです。お花をお嬢様に買って帰りたくて....」
そう言ってサラはそっと目を細めた。
「君の所のお嬢さんは花が好きなのかな?」
「.....そうですね。好き、です。......どうしてですか?」
「いや、君はどんなに荷物が多くても欠かさず花だけは買って行くから....」
歩いている内に角の花屋に着いた。
彼女は寒梅と水仙がしおらしく投げ入れられた古銅のバケツから、成る可く綺麗な水仙を選ぼうとする。
その横顔はいつもの明るい彼女のものとは少し異なり、憂いを含んでいて....見つめていると、奇妙に心がざわつくのを感じた。
「ここはとっても良い国です....。」
ふとサラが口を開いた。
「パンが無くなっても、ミルクが足りなくなっても....花だけは....花だけは、どこの花屋さんの店頭を見ても、いっぱいいっぱい、紅、黄、白、紫の色を競い咲き誇っています。」
水仙を7本買い、その内の6本を束ねてもらって余りの1本をそっと私に差し出して来る。
「この美事さを、お嬢様にも見せてあげたい....。だから私は花を買うんです。」
柔らかく笑う彼女に対して何も言えず、白いそれをそっと受け取る。
夕闇が迫る街で、オレンジの微かな光に輪郭を照らされた水仙からは柔らかな香りがした。
「.......君の、お嬢様は.....どこか患っているのか」
何となく感付いていた。いつも買い物袋に入っている多量の薬、病人食の様な柔らかい食材.....そして、花。
「.....お嬢様は体が弱くて、もう長いこと家の中から出ていません」
いつの間にか、止んでいた雪が降り出していた。
サラの腕の中の束ねられた真っ白な水仙....黄色い花弁だけが不思議とくっきり見える。
「.....窓の外の景色に、こうして買って来る花、新聞....そして私が色々な人から聞いて来たお話。
それ等が、お嬢様にとって外の世界の全てです。」
そう言いながら彼女は花屋を後にする。私もそれに続いた。
外は柔かい雪が街の通りを埋め始めていた。どこかの木の枝から積もったそれ等がどさりと落ちる音がする。
静かだ。私たちはただ隣り合って歩く。そっと手を繋いでやると、彼女の掌は驚く程冷たかった。
もし....機会があったら、手袋を買ってやりたいと思う。出来る事なら....ちゃんと、待ち合わせをして....
「そして....私にとっても、お屋敷とこの商店街への路だけが世界の全てなんです。」
サラは立ち止まって私の事を見上げて来た。寒さからか鼻の先が少し赤い。
「.....だから、貴方が調査兵団の兵隊さんだと聞いて....とても嬉しかったんです。
貴方なら、きっと私に、私たちに広い世界の事を教えてくれるって....そう思いました。」
そう言って彼女はいつもの様にへにゃりと目尻を下げた。
.......絆されたのだろうか。それとも彼女たちの境遇に同情したのだろうか。
きっと....どれも違う。自分の気持ちはもう分かっていた。
それでもまだ.....私はこの想いに名前は付けたくなかった。
名付けてしまった途端、それが現実味を帯びてしまうのが怖かったのだ。
......好きになってはいけない。こんな、約束もできない様な男には、そんな事を思う資格は無い....。
自分にそう言い聞かせ続けてはいる........だが.......
駄目だ。.....私はこんなに我慢が効かない人間だったのだろうか....。
「サラ」
「はい。」
「来週、いつもと同じ時間に....私はここに来るよ。」
「本当ですか?」
この上なく嬉しそうな彼女の顔を見て私も穏やかに笑う。
「あぁ。約束するよ。」
「....嬉しいです。一週間、毎日楽しみにして過ごします....」
「私も....楽しみにしているよ。」
.....約束を、交わしてしまった。
私は今――互いの間に横たわっていた果てしない境界を一歩、越えたのだ.....。
.......不安と高揚。久しく忘れていた心地良い感覚だ。
私は冷たい空気を肺に吸い込んでサラの手を握り直し、再び歩き出した。彼女の手は相変わらず私のものより随分と小さい。
「......兵隊さん。」
「何かな」
「お名前を....そろそろ、教えてくれませんか?」
「それは秘密だ」
「.....そうですか。残念です。」
「その内教えるさ.....。ゆっくり行こう。」
「そうですね。のんびり行きましょう。」
照れた様に少し目を伏せるサラの無垢な笑顔に水仙はよく似合っていた。
その横顔を見つめていると、何とも言えない穏やかな気持ちになる。
もう.....この時の私にとって、彼女と会って話す事はその行為以上の意味を持っていた。
そして二人でいる時間が楽しければ楽しい程、別れは辛いのであって.....
いつまでもいつまでも、彼女の掌を掴んだまま離せずにいるのだった....。
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