……………………サラは、あまりのショックに持っていた……先程までリヴァイが使用していたコップを手から滑り落としてしまった。
エルヴィンはもう慣れているのだろうか、「おっと」と小さく声を上げてそれを寸での所で受け止める。
そしてぴたりと合うお互いの視線。…………しばらくの沈黙の後、エルヴィンはにっこりと微笑んだ。
「なんでここにいるんですかああああ!!??」
「それは俺の台詞だ。」
「ひい!」
表情は笑っているが瞳は全く笑っていない。これは困った事になったとサラは頭を抱えた。
「…………兵士たちが、噂話をしているのを聞いてね。」
エルヴィンは微笑を崩さずにキャッチしたコップをテーブルの上に置く。サラはひたすらに逃げ出したい気持ちを我慢していた。
「ドジでマヌケで亭主の言いつけを守れない見た目も中身も女学生にしか見えない女がここで働いていると……」
「本当にそんな噂してたんですかあ!?」
サラは涙目になりながら訴える。
エルヴィンが溜め息を吐いて彼女の方へと向き直ると、彼女の細い肩は小さく震えた。
「…………外で働く事を許可した覚えは無い」
ゆっくりと言葉を紡ぎ、そこに片掌を乗せるとサラの瞳の中には少しの恐怖が浮かび上がる。
「ごめんなさい………」
小さな声の謝罪に……ふと、我に返った。…………いけない。怖がらせるつもりは無かったんだ。
エルヴィンは息をひとつ吐き、肩から手を離す。そのまま、彼女の左掌をそっと握った。
「………………せめて、指輪をしなさい。」
エルヴィンの静かな言葉に、サラは微かに首を傾げる。
「飲食店ですし………流石に指輪は「しなさい」
「えっとでも衛生上あまり「しなさい」
「も、勿論肌身離さず持っては「しなさい」「偶には最後まで喋らせて下さいよお!」
サラは思わず声を上げるが、エルヴィンはサラの左掌を離す気配は無い。
そしてひとつ溜め息を吐き、「これだから嫌だったんだ…」と微かな声で呟く。
だが……サラが何を思ってここにいるかが分かるからこそ、あまり強く言う事ができないのだ。
「…………それでは、指輪をきちんとはめる事を条件にここで働く事を許可しよう。」
家の事だけを………自分との暮らしの仕事だけをしていて欲しいというのがエルヴィンの真の音である。だが、それでは彼女の存在は女中と同じになってしまう。
自分は…………女中では無く、妻としてサラを迎えたのだ。よって………この本音は、ただの我が儘になってしまうのだろうな………
「本当ですか?」
サラが嬉しそうな笑顔をこちらに向ける。………この微笑みが、日中ここを訪れた多くの兵士に注がれたかと思うと胸の内が鉛の様に重くなった。
「嬉しいです…!私、もっと大勢の方と話して……色々な事を知って、勉強したかったんです。」
そんなエルヴィンの憂鬱には気付かず、サラは掌を両手で握り返して喜んだ。
「それで……エルヴィンさんの隣にいるのに、相応しい女性になるんです。その時はもう、女学生だなんて言わせませんよっ」
そう言ってこちらを見上げてくる彼女はやはり学生の様な無邪気さである。それに絆されて………エルヴィンの胸の支えも、少し解けた。
次に…………自分は、愛されているのだな……と幸せな実感が湧き上がる。
エルヴィンもまた、彼女の白い掌を握り返した。
少し冷える初夏の夜、それは小さな生き物の様に暖かく、優しい気持ちにさせてくれる。
サラもまた同じ事を思ったのか、穏やかに笑ってずっとこちらを見上げていてくれた。
……………彼女に言ったら怒るかも知れないが、本当に可愛らしいと思う。
「…………今日は、もう帰れるのか」
そう尋ねればサラはこくりと首を縦に振った。
「一緒に、帰ろう」
この一言だけで、彼女の瞳はみるみる幸せそうな色に染まっていく。
溜まらなくなって抱き締めようとするが、「い、家に帰ってからにしましょう、家に。」と言って躱されてしまった。残念で仕方が無い。
「それでは、このコップだけ洗ってきますのでちょっと待っていて下さいね。」
それだけ言ってサラは足取り軽く厨房の方へと歩いていく。真っ白いエプロンの裾が薄青い闇の中光っているかの様に翻っていた。
…………一人になった室内で、エルヴィンは竜と騎士、そして背景の青空を眺める。
次に年代物のピアノの事を見つめた。…………古いながらも丁寧に磨かれて黒光りしているそれには、淡く笑っている自分の顔が映る。
「お前はもう…充分過ぎる程、俺の隣に相応しい人間だよ…」
そう呟いては、目を閉じる。世界が完全に暗闇に閉ざされる瞬間、瞼の裏に窓から差し込む白鳥座の強い光が映り込んだ。
まるで彼女と過ごす、初めての夏の始まりを告げる様に。
*
「お、おい聞いたか、サラちゃんの話!!」
「何だよ、またサラちゃんか。お前ほんっとーに好きな。」
昼食時、リヴァイはまたしても聞くとはなしに隣のテーブルの話題を耳に入れてしまう。そして内容が内容なだけに口に含んだ水を吹き出しそうになった。
「サラちゃんが……指輪、つけてたんだよ、指輪!!」
「指輪…?それ位するだろう、女の子なんんだから。」
「ちげーって!!はめてあった指が問題なんだよ、なんと左手の、薬指!!!」
男性兵士は頭を抱えて机に突っ伏す。
それを眺めていたもう片方の兵士は少し考え込む様に天井を眺めた後、彼に視線を戻す。
「…………サラちゃんまだ学生なんだろ。結婚はできねえよ。」
リヴァイは今度こそ水を盛大に吹き出した。もう女学生って事で話が通ってるぞ、それで良いのかサラ。
「それはそうだけどさあっ、やっぱ彼氏とか…出来たのかな、遂最近まではしてなかったのに!」
「いやー……あのとぼけた子の事だからなあ……大した事は考えずに左手の薬指にはめただけかもしれねえぞ。」
「そ、そうか………。確かにその可能性はあるな!あの子アホだから!!」
リヴァイは今度は器官にパンがつまり激しく咽せた。どんだけ馬鹿にされてんだお前。
男性兵士は「そっかあ、そうだよなあ、」とすっかり機嫌を回復して昼食を再開する。
それを横目に見つめながら、リヴァイはエルヴィンの気苦労を察しては同情するのであった……。
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