「……………ひどいところね。」
サラの後ろをついて歩きながら、少女はうんざりとした口調で言う。
入り組んでいる上にお世辞にも足場が良いとは言えないので……その白い掌を、引いてやった。
「そう…かな」
曖昧に呟けば、応えて少女は呆れたようにする。
「ええ、暗い上にひどく臭いわ。そう思わない?」
「………ううん。もう慣れているから、私はよく分からない。」
そこ、気をつけてね。と言いながら溝水の溜まり場を視線で示す。汚くやせ細った鼠が数匹脇を駈けていった。
………少女はその様子を眉をひそめて眺めた後、高価そうな服の長い裾をペチコートごとたくしあげて腿の辺りで縛る。
中々……思い切りが良い令嬢だなあとサラは思った。
濁った闇の中では彼女の如何にも華奢で脆弱な脚は光るようにして、目立つ。
「それにしても……大変なことだったね。家が裕福なのも考えものかな」
「良いのよ、生まれてくる場所は選べないんだもの。それに人さらいに会うことだって中々面白い経験だわ。」
「……………。」
サラは、振り返ってじっと美しい少女のことを眺めた。
長く艶やかな髪に意志の強そうな瞳の色。しかし指先はしっとりとして柔らかく、上品な育ちを彷彿とさせた。
「なによ」
視線に気が付いた彼女はサラに尋ねる。
一見高飛車と思える態度にも、どこか淑やかさが漂っていた。それは威厳とも言えるのかもしれない。
「………あ、なんだか。お姫様みたいな人だなあ……って。」
「は?」
少女が首を傾げる。サラは気にしないでと首をゆるゆると振った。
………いつか一度だけ見た。触ったことは無いけれど。
ガラスのショーケースの向こうからこちらを硝子玉の瞳でじっと眺める少女の貌を、ぼんやり思い出したのだ。
「………変な子ね」
再び歩き出したサラの後ろに従って、彼女は言った。
細い指に微かに力がこもる。こんな汚い掌でも気にせず握ってくれるとは…とサラは不思議な気持ちになった。
「変……かな。」
「そうよ、変。」
「………ずっとこうだから、変なのかどうなのかよく分からないな」
「何も分からないのね。私も大概世間知らずだけれど、貴方はそれに輪をかけて視野が狭いわ」
「………………。うん、きっとそうだね。」
少女はサラの答えを聞いてどこか不満そうにした。
足を一歩踏み出し、隣に並んでくる。
………少し嫌だった。
誰も見ていないと分かっても、自分のみすぼらしい成りと彼女の瑞々しいほどの清らかさの違いがあまりにもあからさまだと思って。
「…………………ここを真っ直ぐに行けば地上だから。ここから出たら、もう大丈夫。」
やがて訪れた場所で、サラは少女へと言った。
改めて見るその姿はやはり洗練されていて、純粋な美しさで満ちている。
………自分とは違うんだなあとしみじみ感じた。辺りは相変わらず暗いのに、へんに眩しく思えて目を細める。
「………………。」
頷いて、少女はサラからゆっくりと掌を離した。
もう二度と会う事も無いのだろう。それを考えると、ほんの少し名残惜しいような気が。
「貴方は?」
唐突に彼女はサラへと聞いた。思わず「え?」と間抜けな声を上げる。
「貴方はどうなの。来ないの?」
「うん……?行かないよ。なんで」
「……………。地上だって良いものじゃないけれどここよりは幾分マシよ。一緒に来なさいよ。」
「えっ、いや……でも。私はここでの生活がとても、長くて……もう」
「それとも何、貴方こんなところで一生涯過ごすつもり?
それが好きならば止めはしないけれど、とんでも無く悪趣味ね。」
「…………………。」
サラは何と返事をして良いか分からず、ただ眼前の美麗な子女を眺めた。
しかしその眼光は最初からずっと鋭い。見た目はとても愛らしいのに…それだけは女らしからぬ意志の強さを示していた。
少女は、サラの薄汚い掌を再び握ると確固たる足取りで歩き出す。
なされるがまま…逆らう事が出来ずそれに従った。
「来なさいよ。」
彼女はもう一度繰り返す。
その艶やかな金色の髪が沙椰と揺れた。………風。きっと地上が近いのだろう。
やがて、光と……空が。初めて見る訳では無いのに、呆然と見入ってしまった。
空の空、空の空、いっさいは空の光景なのだと素直思う。
「貴方の想像以上に……世界は広いことを知るべきよ。」
繋がった手の先で呟く彼女のことを、サラは眺めた。
青い空の下でその表情はいよいよ綺麗な微笑みを描いている。
柔らかい風が繊細な金色の髪を舞い上げた。隙間から覗く空の青が輝く。
感動による涙というものを、サラはその時初めて体験した。
*
「あひゃああああ!!??」
けたたましい叫び声が屋敷の中に響いた。
エミリエは不快そうに眉をひそめた後、「うるさいわよ」と零す。
「ごっ、ごめんなさい……いや、でも。後ろから急に首なんか触って握ってくるお嬢様だって悪いですよお!?」
「貴方いちいち大袈裟なのよ。良いじゃない別に、減るものじゃないし」
「お嬢様は手が冷たいんですよ…。ひやっとしちゃいます、幽霊かと。」
「まあ、半分幽霊になりかけみたいなものだけど?」
「………。そういうことは………」
サラの表情が陰ったのを見て、エミリエは瞬きを数回する。
それから、「……悪かったわ」と小さく謝った。
「ちょっと、気になったのよ。貴方最近痩せたんじゃないの」
それから馴染んだ使用人の掌を取って、軽く袖を捲る。
……貧弱そうな手首がそこから覗いたのが恥ずかしくて、サラは思わず目を逸らした。
「そんなことないですよ……」
弱々しく言って、彼女はやんわりと腕を引く。
しかしエミリエは離さなかった。仕方はなしに引き続いてそのままの姿勢でいる。
「そんなことあるわよ。その貧しい身体をこれ以上細くしてどうするの。」
「そ、そんなに貧しいですかあ……?」
「ええ、極貧ね。」
きっぱりと吐き出された言葉にサラは思わず項垂れた。
「そこまで仰らなくても……」というぼやきには、「本当のこと言ってなにが悪いの」というすげない応えが返ってくる。
「第一ね……。多少肉付きが良い方が男性だって喜ぶものなのよ。」
「…………。そう、ですか。」
サラの頭の中にはとある男性の姿がぼんやりと浮かぶ。打ち消すように、気を取り直した。
だが……一抹の不安が体内を過って行く。
自身の胸に空いている方の手をそっと寄せてみた。
……呆気ない手応えと、薄い肉の下に骨の気配。一般的に言われる美しい身体とは程遠いのを改めて思い知る。
「…………そうなんでしょうね。やっぱり……。」
弱々しく言葉を零した。
………そうして急に、また次の水曜日に彼に会うのが恥ずかしく思えた。
(あれ、でも。そういえば私……あの人にお付き合いしている方がいらっしゃるかどうか、知らない。)
それを自覚した途端、恥ずかしさは自己嫌悪へと変わっていく。
無意識の内に何かを想ってしまっていた自身を叱った。なんで今までそれに思い当たらず…あんな軽率に、と。
(あの人は、すごく素敵な方………。)
彼が大変に美しい男性だということは、そういった物事に疎いサラでも充分に分かっていた。
上品で穏やかな物腰を、好きになる女性はきっと沢山いるだろう。その中には綺麗な人も多くいるに違いない。
………対して、自分。
胸に置いた掌を少し移動させるが…相変わらず所在無さげな感触しかしない。
(別に、そんな。好きなんて……いえ。勿論好きだけれど。そういうことじゃなくて……)
サラはひとつ深呼吸した。気持ちが混乱しかかっている。
まず落ち着こうと思ったのだ。その試みは僅かながらではあるが、成功した。
(そんなこと……。恐れ多過ぎますね)
淡く笑った彼女の顔を、エミリエはじっと眺めていた。
…………恐らく胸の内は見抜いていたのだろう。あからさまにうんざりとした表情をされる。
「そうやってグズグズするくらいなら聞いてみたら良いじゃない。男のことは男に聞くのが一番よ」
「へえ?誰になんのことをですか」
「貴方ってほんと阿呆ね。」
「あっ……!?」
「例の男に決まってるじゃないの、水曜日の調査兵。貴方が気になってるのは彼の考えでしょう。」
エミリエの薄い水色の瞳がサラの暗緑を真っ直ぐに捕える。
…………全て分かられているのだろうか、と思い当たった彼女はじわじわと顔に熱が集中していくのを感じた。
情けないその表情を見られないように俯くが…無駄な行為なのだろう。
「………そ、そんなこと、聞けませんよ…。第一私、彼の名前も知りません。
そんなんじゃ……私たち、ありませんよ。」
「へえ、じゃあどんなんじゃあるの?」
「………………。お嬢様って、少し意地悪です。」
「今更でしょ。自分の残念な身体を悲しむ暇があったら何かしら行動するか努力しなさいよ。」
「お嬢様だって人の身体のこと言えないと思いますよ……」
「言うじゃない?いつからそんな悪いこと言うようになったのかしら」
「あわわ、ごめんなさい」
握られた掌がぎりぎりと不穏な擬音がしそうな勢いで握られたのを感じて、サラは赤かった顔色をさっと青くした。
「………私はね、良いのよ。」
そうして、エミリエは得意そうに肩を竦める。
白い襟元から覗く浮き上がった鎖骨がそれに合わせて上下した。……なんだか痛々しくて儚い光景である。
「だって病気なんだもの。
もし健康だったら、貴方なんてまるで目じゃない身体してるのよ。」
なんでもないように言葉にされた事実に、サラの胸の内は重たくなる。
しかしエミリエは楽しそうに笑っていた。
「でもね…サラは違うでしょう?健康で立派な、恵まれた一人の人間。」
エミリエは両の掌で、サラの手首をそっと包んだ。
………簡単に指が回る。やはり、以前よりも幾分やつれているのだろう。
「だからね、私と一緒に貴方まで痩せ細る必要はまるで無いのよ。」
外に全く出ない為に、エミリエの節まで目立つ指は日に焼けず真っ白だった。
そこに熱く水滴が落ちてくる。………また。本当に仕様が無い泣き虫だと、彼女は呆れ半分愛しさ半分に感じ入った。
「…………ねえ。ご飯、ちゃんと食べなさいよ。食べて、色々なものを満たして大きくなりなさい。」
エミリエは一度掌を離して、白いハンカチで優しく気弱な使用人の頬を濡らしていく涙を拭う。
それが一層サラを悲しくさせるらしく、涙は留まる気配を知らないようだった。
「私もサラも、沢山のものを奪われたけれど……貴方の気持ち次第で新しいものを見つけることは出来るのよ。
したい事をして、なりたいようになれば良いの。」
「そんなこと………!お嬢様だってそうじゃないですか、今からだって沢山楽しいことを一緒にしましょうよ。
私のしたい事もなりたい事も、全部貴方が……お嬢様がっ」
言葉につまってしまったサラをエミリエはそっと抱いた。
もう何年、こうやってお互いを慰め合ったのだろう。心から安らぐ大事な存在。愛しい存在。
不自由で意味も無いようなこの生も……こうしている間だけは確かに理由があるのだと思えるのだ。
(だから、私は少し嫉妬しているの。)
(私の好きなこの子に愛されているであろうその男に。)
エミリエはそんな気持ちを胸の奥底に沈めた。
綺麗に結われたサラの髪を撫でる。滑やかな指障りがした。
「ねえサラ。幸せにならなくちゃ駄目よ。」
言い聞かせるように囁く。サラはエミリエをしっかり抱き返して、首筋に顔を埋めていた。
………そのままで、ぴくりとも動かない。
「幸せになりなさいね。」
エミリエは穏やかに繰り返した。心からの願いをこめながら。
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