....帰りは、少し遅くなってしまった。
遂々お喋りに花が咲いて、時間を忘れてしまっていた様だ。
奥様は相変わらず美しかった。.....そして、何処か寂しそうであった。
『私と貴方は、同じでは無いけれど少し似ているわ』
帰り際に小さく囁かれたこの言葉の意味を考える事はしない。いくら思考しても答えは見つからない気がしたから。
けれど...心の奥にことりと置いて、今夜の様な星が静かに光る夜に思い出そう.....そう、思った。
(..........?)
家に近付いた時、違和感を覚える。窓から灯りが漏れていないのだ。
と、言う事はエルヴィンさんはまだお戻りでは無いのだろうか。
(いつもこれ位には帰って来て一緒にご飯を食べてくれるのに...)
きっとお忙しいのだ。少しだけしょんぼりしながら鍵を取り出して解錠する。
「ただいま帰りました....」
誰もいないけれど遂々言ってしまう。....家に帰るという行為がとても嬉しいから、その儀式として...
(.....やっぱり帰っていないかあ....)
返事は無い。まあ...当然と言えば当然なのだが....。
再び施錠する度に扉の方へ向き直る。....暗いからよく見えないな....。
目を細めながら鍵穴を探してやっとの思いで差し込んだ。
「....やったぁあぁあ!?」
小さく喜びの声を上げるがそれは途中から恐怖の叫びに変わる。
......な、何かが私の肩に手をっ....家には誰もいない筈...!空き巣?強盗!?....それとも、幽霊!!?
「ごっ、ごめんなさいっ、お願いですから安らかに眠って下さい、ごめんなさいっ!!」
へたりとそこに座り込みながら一心に祈りを唱える。
....私は決して死者に恨まれる様な事は何も....いやっ、もしかして今朝食べた卵の...将来鶏になる筈だった子たちが...ああ、どうしましょ「私だ」
「......はい?」
恐る恐る顔を上げて後ろを振り返る。
そこには.....非っ常ぉぉおに呆れた顔をしたエルヴィンさんが立っていた。
「お前は....いくつになるんだ。」
「えっと、今年で「そういう事を言ってるんじゃない」
体を起こすのを手伝ってもらいながら質問に答えるが、それはぴしゃりと遮られた。
はあ、と溜め息を吐いた彼はそのまま私の手を引いて歩を進める。
いつもより少し歩く速度が早い。....どうしたのだろう。....と、いうか....
「.....何故灯りを点けなかったんですか?私はてっきり家に誰もいないと思っていましたよ」
お陰で心臓がひっくり返る思いをしましたよ....もう。
「.....気分では無かっただけだ....。」
口調も固い。....怒っている....?それとも、焦っているのか....でも、何に?
「そうですか...」
それしか相槌が打てなかった。いつもと何処か違う彼が不思議で仕様が無い。
「あの....エルヴィンさん、私....コートを着たままなので....」
思い出した様にそう言えばようやく彼の歩みは止まり、ゆっくりとこちらを向く。
私を見つめる瞳が寂しげな光を宿していた事が暗がりの中でもよく分かった。
少し背伸びをして頬に触れると、その上から自分のものより随分と大きな掌が重ねられる。
「どうしました....?」
彼は何も答えない。
...それで良いと思えた。どんなに近くにいても、話せない事は必ずあるから....
「....大丈夫ですよ、傍に居ます。」
でも...汲み取る努力だけはさせて欲しいのだ...。
しばらく私たちは冷たい廊下でそうやって過ごした。....無言のままで。
「.....帰りが遅かった。」
微かな声が頭上から降ってくる。私は何も言わずにそれを聞く。
「心配した....。」
.....小さく謝罪を述べた。けれど今彼が欲しているのは言葉では無いのだろう....。
気が済むまで...不安が胸の内に沈み込むまで傍に居よう。それが私の応えになる筈だから...。
再び沈黙が辺りに立ちこめた。ゆっくりと抱き寄せられたので、目を瞑って胸に顔を埋める。
彼の安堵が、私にも伝わって来て...とても優しい気持ちになった。
朝、彼に囁いた言葉をそのまま呟けば、腕の力は強くなる。
それから髪を撫でられ、同じものを与えてもらえた。
身体を離してもう一度見つめ合った時...まだ、寂しい光は宿っていた。けれどそれは先程よりも透き通っている。
...手を繋ぐ。今度は並んで歩いた。私に歩幅を合わせてもらえる事への気後れと喜びを胸に抱いて。
――――そしてようやく家に明かりが灯る。
明るい家から青い夜空を見上げる度に、ここは素敵な家だと思う。
鏡の様になった夜の窓に彼の姿が映り込んだりすれば、それは尚更だ。
また夕食後、エルヴィンさんとソファに腰掛けて談笑するのもとても好きの事のひとつ。
彼はいつも私を自分の左側に座らせて、話している間に肩、首筋、頬...そして勿論、髪...色々な所に触れる。くすぐったいけれどそれが嬉しい。
好きな人にしてもらう事は、何でも..嬉しいのだ。
「?どうしました」
ふと、彼の動きが止まる。....今日、会っていた人物についての話をしていた時だ。
「.......女性だったのか。」
溜め息とともに言葉が紡がれる。奥様の事だ。
「はい....。」
それが何か...?と首を傾げて返す。
「.....そんな事は聞いていない。」
片手で頭を抱えて眉間を押す様にしている。....頭が痛いのかな?
「それは...言ってませんでしたから」
頭を冷やすものを持ってきましょうか、と尋ねれば良いからここにいなさい、とそのままの姿勢で言われた。
「何故言わない...」
「....聞かれませんでしたから」
もう一度溜め息を吐かれる。そして顔を上げた。.....うん、今度のお悩みの基はいまいち汲み取る事が出来ない。
「我々は...もう少し話し合いの場を設けた方が良さそうだな」
「今でも結構お喋りしている方ですよ?」
「一緒にいる時間を増やそう。....それで、解決する。」
「それは...勿論私はとても嬉しいのですが、お仕事の差し支えになるのでは...」
「何、簡単な話だ。」
「?そうなんですか」
「寝室を一緒にしよう」
今朝同様...いや、それ以上に爽やかな笑顔で言われる。
思わず私は彼から遠ざかる様に体をずらす...が、それは腕を掴んで阻まれた。
「.....ひと月。」
そして逆に引き寄せられてその胸に収まってしまう。...片腕しかないのにこの力の強さ....流石としか言いようが無い。
「ひと月だ。....俺も中々に堪え性があったのだと驚いたよ。」
.....暖かい。彼の鼓動が深く...けれど少し早く刻まれているのが分かった。
「でも私...恥ずかしいですよ....」
目を伏せて呟く。しっかりとそれは聞き届けられた様で、優しく髪を撫でられた。
「だって....朝起きたら至近距離にエルヴィンさんの顔があるなんて...考えただけでっもう....!」
......しかし、次に発した言葉がどうも悪かったらしい。
彼は脱力してへなりとこちらに寄りかかって来た。.....流石に、重たい。
「それ以外に憂慮する事がお前には無いのか....」
呟く様に言うと、更に体重をかけてくるので...それに耐え切れなかった私ごと、ずるずるとソファに沈んで行く。
「....第一お前は毎朝俺の顔を穴が空く程眺めているじゃないか...今更何を言ってるんだ」
耳元で囁かれた言葉に熱が一斉に顔に集中する。
「なっ....何でそんな事知ってるんですか!あれは...確かにエルヴィンさんがお休みの時...って、あぁ!起きてたんですかあ!!」
「あれだけ触られれば普通起きる」
「そんなに触ってません!!」
....もう....穴があったら入りたかった。
「と、言うより俺はあの時刻より数時間前にはいつも起きている。」
「........?じゃ、じゃあ何で起こす様に言ったんですか?」
「お前が何か面白い事をしてくれるんじゃないかと思って」
「....何て悪趣味なっ!悪戯にしては手が込み過ぎて...ああ、もう!酷いです!!」
....全部知られていたのだ....。私にとってどれだけあの時間が幸せだったのかも、毎朝囁いていたこの想いも....
いじける様に彼に背を向ける...いや、それ以上に顔を見れなかったのだ。
一杯一杯な私に反してエルヴィンさんは楽しそうで...それが何だか悔しかったけれど、後ろからしっかりと抱き締められて名前を呼ばれると、そんな事はどうでも良くなってしまう。
「.....こちらを向いてくれ」
その言葉に従って身体を動かした。....当然非常に近い距離に顔が来るのだが...私はその事をよく考えてなかった。
「.......っ」
驚いて身体を退こうとすると「落ちるぞ」と笑いながら抱き寄せられる。
......顔の距離がほぼ無くなった。
彼は...何をするでもなく私を見つめ続ける。
あまりにも優しい瞳をしていたので、私もまた目を逸らせなかった。
ふいに...泣きたくなった。
私が知らない5年間...この方はどれだけ辛い日々を過ごしたのだろうか。
そして共に戦う事ができない私とは、それを分かち合う事はできない。
でも、今...この瞬間は傍にいる。誰よりも近くにいる。
戦う事ができないなら、せめて名前を呼び続けよう。帰ってくる場所を見失わない様に。
一番欲しいと思った言葉を迷わず差し出したい。求めるものは何でも与えたい。
今が愛おしい。....貴方といる時間が全部愛おしい。この世で一番、貴方の事が.....
「......サラ」
そのままの姿勢で名前を囁かれたので、吐息が頬をかすめる。
「やはりお前は....本当に綺麗だ。」
「エルヴィンさんも.....」
くすりと笑う。やっぱりエルヴィンさんも笑った。
.....この笑顔の様に外がもう少し暖かくなったら、二人で何処かに出掛けたい。
仕事でお忙しいだろうか。.....でも、相談だけ...してみよう。
「....今日は、このまま寝てしまおうか。」
「流石に狭いですよ。」
こんな格好で寝たら肩が凝ってしまいますよ、と彼が着ていたきっちりとしたシャツの袖を引く。
「.....離れたく無い。」
腕が後頭部に回った。エルヴィンさんはいつもこれをする癖がある。
ひとつキスが落とされたので、照れながら微笑んだ。私の名前がまた愛しそうに呼ばれる。
貴方に何度も呼んでもらえる、この名はとても幸せものだ。
「では一緒に寝ましょう。」
少し驚いた顔をした後、強く抱き締められた。また...名を呼ばれる。
サラ。...それは私。名前を呼ばれる度、生まれて来た喜びを何回でも思い出す事が出来る。
「そうだな....。それが良い。」
もう一度唇を重ねられた。深いものだった。微かに声が漏れてしまう。
「....お前に会えて、良かった。」
離れる時...小さく掠れた声が確かに私の耳に届いた。収まった筈なのにまた熱が目頭に集まる。
エルヴィンさんがゆっくりと身体を起こす。それから私の手を取って、同じ様にもとの姿勢に戻した。
「行こうか....」
それだけ言うと立ち上がる。手を握られていた私もつられて立つ。
掌から優しい温度が伝わるだけで、何も怖くは無くなった。
もう、世界に怖いものは無いとまで思えた。
辛かった事や悲しかった事も、今ではこの幸せを一層深める為の大切なものとなっている。
あの日々があったからこそ、貴方への想いはより強く、貴方もまた同じ様に....
振り返って微笑まれた。鷲掴まれた様に胸が痛むけれど、やっぱり私も笑い返す。
....やっと分かった。この笑顔を守る為に、今の私は存在しているのだろう。
他でもない、貴方の一番近くで...。
四角く切り取られた窓の外、ハッカ色の星が涙の欠片の様に透明に光っていた。
それは私の瞳に、瞬いた貴方の瞳に映り込む。
泣きたい時程それは流れてくれない。けれど幸せだとこんなにも容易くに流されてしまう。
掠れた声で名前を呼ばれた。それに何度も応える。
私も名前を呼ぼう。
世界でたった一人、最初で最後に愛した人の.....優しい名前を。
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