「濃過ぎるわ」
奥様が貌の良い眉をひそめながら仰った。
「淹れ直して来て頂戴。私は濃い紅茶は朝しか飲まないの」
給仕を鈴で呼び出して命を下す。そんな仕草のひとつひとつも艶っぽい。
.....久々に見る彼女の眩しいばかりの美貌に私は思わず気後れしていた。
「.....愛の勝利ね」
ようやく自分好みの紅茶が出て来た事に満足したのか、表情を柔らかくしながら彼女が言う。
「え.....?」
自分もまた紅茶を飲もうとカップを持ち上げていた私の手が止まった。
「...何でも無いわ。」
淡く浮かべたのはあの時と同じ様に...少しの自嘲が入っている。
「顔色が随分良くなったわね....。安心したわ。」
周りの豪奢な室来に圧倒されていた私に言葉がかけられた。
ここは出張用の別宅らしい。本家程では無いが普段とは全くの別世界である。
「はい...。ありがとうございます。」
「調査兵団の人間だとは聞いていたけれど...まさか前団長とはねえ...」
肘掛けに頬杖をつきながら彼女がゆったりとした口調で言う。
「私も...最初は彼がどういう立場の方だか...知らなかったんです。」
「ふうん」
「今思えば...あの時から、私みたいな人間にも優しくして下さって....」
頬に朱が差す感覚がする。それを隠す様に片手をそこにあてた。
「でも....今はそれが悩みの種....」
そうでしょう....?と、全てを見透かす様な視線がこちらに向けられた。
この方は...他は悉く違うのに、瞳の色だけはお嬢様と同じで...ああ、どうあっても隠し事はできないな、と改めて思い知らされるのだ.....
「手紙に...聞いて欲しい事があると綴られていた....その時、すぐに何の事だか分かったわ。」
ほう、と息を吐いて彼女が窓へ視線を向けた。大きな窓ガラス。春が近付く空の様子を切り取っている。
「さあ、言ってご覧なさい。」
奥様は再びこちらをじっと見つめた。微笑っておられる。....楽しんでいる...?いや違う。もしかして...嬉しいのかもしれない。
「.........あの、」
少しの逡巡の後、私は口を開いた。
「私は....エルヴィンさんの、彼の...力になりたいと思っています....」
小さく紡がれた言葉を、正面に座る奥様はちゃんと聞き取ったようだ。首を微かに縦に動かして応えている。
「不自由な身にも関わらず、いつだってお忙しそうで...でも、私との時間をとても大切にして下さいます。」
膝の上に置かれた手がきゅっと握られた。
「それがとても嬉しくて...でも、同時に歯痒くなります。私に、もっと教養や社交性があれば、エルヴィンさんのお手伝いができるのに...って....」
.....言葉が尻すぼみになる。
そう....私はお世辞にもそのふたつを持ち合わせているとは言えない。
何せ...読み書きがやっと出来る様になったのも十代半ばの事なのだ...。
手伝いどころか....私が傍に居る事で、彼に恥ずかしい思いをさせてしまう事もあるかもしれない....。それだけは、どうしても避けたかった。
「......付け焼き刃は所詮付け焼き刃よ。」
彼女の言葉に胸がちくりと痛む。
....分かっている。私も若くは無い...。新しくそれ等を身につけるのはとても難しい事だろう....。
「まずは...自分にできる事をしっかりやりなさい。」
彼女の唇が弧を描いた。不適なその表情の下には水面を連想させる静けさが漂う。.....不思議な方だ。
「彼もね...貴方に、そんな事期待していないと思うのよ....。」
鈴を鳴らして給仕を呼び、紅茶を注ぎ足す様促しながら言葉を続ける。
「でも...それじゃあ貴方の気が済まないのね?」
カップから立ち上る醇な湯気の向こうで彼女はとても綺麗に笑ってみせた。その言葉に小さく頷く。
「....私、いつも誰かにお仕えして生きてきました...。」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女に反して私は膝の上で握られた自分の掌を見つめていた。髪が顔にぱさりとかかる。
「ですから、あの方と暮らし始めた当初も今までと同じ様に過ごして...
けれど、それは嗜められました。自分は使用人を雇ったのではない...と。」
また顔に熱が集まるのが分かる。...何故、あの人の事を考えるだけでこんなにも余裕が無くなってしまうのだろう....
「...あの方は、私と対等でいようとして下さいます...。
私もそれに応えて...彼と同じ場所にいる為の努力をしたいんです....。」
最後の言葉は本当に小さな声だった。...自分には過ぎた事を言っている気がしたのだ。
視線は依然として膝元に向けられているので、向かいに座る奥様の顔を見る事はできない。
....けれど、確かに私の事を捕えている。....お嬢様と同じ色の瞳で。
「ひと月のうち...一週間。もしくは毎週二回」
少しして、淑やかな声が耳に入る。
「......え?」
「....私の家に来なさい。....本当は住み込んで毎日が良いのだけれど...それはどこかの誰かが許さないでしょうから...」
かちゃりと音がした。彼女がカップをソーサーに戻したのだろうか。
「蛹が蝶になる様な簡単な話じゃないわよ。貴方は人一倍粗忽者なのだから。」
そろりと顔を上げると、真っ直ぐにこちらに向けられた瞳とぱちりと目が合った。緩やかに垂れている貌がまた色香を漂わせている。
「でもね..ほんとに無理する必要は無いと思うの。だって貴方より知識や教養があって助けになる女性なんてそれこそ星の数程いるわ。
.....それでも、彼は貴方を選んだのだから。」
頬杖をつく白い手が伸びている袖には上品にレースがあしらわれている。自分の服とは全く違う世界のものの様な...恐らく、彼女が身につけているからここまで優雅に見えるのだろう....
「......そういう事じゃないかしら?」
「え......。」
彼女に見蕩れてぼんやりとしていたらしい。その言葉を理解するまでに随分と時間がかかってしまった。
「だから、今出来る事としてあげられる事をしっかりとしなさい。きっと、貴方にしかできない事だから。」
その言葉を聞いて....目頭に少しの熱が集まる。どういう訳かは分からないけれど。
「ありがとう...ございます...。」
でも、とても感謝したい気持ちだった。目の前の女性に、様々なものに。
「羨ましいわね....」
少しの沈黙の後、ぽつりと彼女の唇から言葉が紡がれた。
「.....何でも無いわよ。」
何でも、と誰に言うでもなく繰り返す。
....寂寞が細流になって、美しい姿の下を流れて行くのを...感じた。
「でも、学んでおいて損な事では無いわ。」
頑張りなさい、と奥様はまたいつもの自信に満ちた笑みを浮かべる。
私もようやく安心して紅茶を飲んだ。....とても良い茶葉だ。
私自身、紅茶を淹れる事はよくあっても自分が飲める事は少なかったから...味わって飲む事にした。
「私も話相手が欲しかったのよ...。丁度良いわ」
少し渋い顔をした後....どうやらまだ紅茶が濃過ぎると感じた様だ....穏やかな表情で彼女が言う。
「私なんかで..良いんですか?」
恐縮しながら尋ねた。
「.....ええ。構わないわ。」
奥様は上品に笑う。大輪の薔薇の様に艶やかで、山百合の様に淑やかな笑顔だ。
「.....ゲートルート」
「はい......?」
「私の名前よ。....知っているでしょう?」
「ゲートルート、様....?」
「......惜しいわ」
「ゲートルート...さん」
「....良いわね。及第点よ。」
....やはり私は...彼女が嫌いでは無かった。むしろ...
エルヴィンさんの瞳に感じたものと同じ寂しさを彼女に見つけた時、その気持ちは確かなものになったのだ...
――――
「....あら、もうこんな時間。」
大きな柱時計をふと見た彼女が驚いた様な声を上げる。窓の外はもう夜の気配に満ち満ちていた。
「申し訳在りません...。こんなに遅くまで...」
「私は良いのよ。....けれど貴方は家で待っている人がいるんだから...」
「そうですね...。ああ、でも夕飯までは時間がありますから...。」
コートを使用人の方から受け取りながら応える。
「でも...あまり心配をかけない方が良いわ。」
「大丈夫ですよ、私と違っていつでも落ち着いている方です。
帰りが少し遅い位では何とも思われませんよ」
「....ふうん。でもね...あながちそうとも言い切れないのよ。」
何故か含んだ様な声色でゲートルートさんが仰る。
「え....?」
不思議に思って顔をそちらに向けると、実に楽しそうに笑う姿が。
「これもまた愛の成せる業ね。」
「え......??」
何かの戯曲の引用だろうか。どちらにしろさっぱり分からない。
...ああ、こういう会話にもついて行ける様にもっと勉強しなくては....!
「さあ帰りなさい。...貴方の家に。」
そう言って笑った彼女の表情はやはりとても美しく....寂しそうで、少し優しかった。
◎