22紡がれた約束と日の留まる場所
「......随分と、痩せてしまった。」
腕の力を緩めてようやく向かい合う。...髪、体...。それだけではなく、取り巻く空気までも大きく変わってしまっている。
「全部....私の所為だ。」
彼女は良い方向へ踏み出そうとしていたのだ。勇気を出して変わろうとしていた。
けれど....それは成果を生む事無く、より厚い殻に自分を閉じ込めてしまう結果となった。
「....いくら謝っても、償える事では無い....。」
しかし、目を伏せた私に反してサラは真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「いいえ。.....私の方が謝らなくてはいけません。」
深い色をした瞳だ。そしてその中には光がいくつも宿っている。満点の星空の様だった。
「エルヴィンさん....。ごめんなさい。私は貴方を一時信じられなくなりました。
....忘れようとしました。貴方がいつも褒めてくれた髪も切って、無くしてしまいました...。」
冷たい風が雪を吹き上げて吹いた。それは彼女の短くなった髪を揺らして行く。
...それでも尚サラの濃艶の髪は美しかった。茫漠とした白い雪の中、それは確かなものとして結晶している。
「.....構わない。」
かつてと同じ様にそれに触れて、梳く様に撫でてやる。
「また、伸びる。それまで一緒にいれば良いだけだ...。」
それだけ言うと、私たちを結ぶ為に...多くの気を揉んだであろう気の強い女性の前から、白い髪留めをそっと拾い上げる。
きっと彼女は酷く腹を立てているだろう。
もし相見える事ができたのなら...一発、二発...いやそれ以上かもしれない。強く打たれ、罵倒され...中々困った事になっていた筈だ。
「持っていて欲しい....。再びつける時が来るまで。」
サラは髪留めを受け取ると、溜め息を吐いてそれを見つめた。
それからゆっくりと顔を上げて、非常に悲しそうな顔をしながら...「エルヴィンさん....。腕が、」と言う。
私は遠くを見た。粉雪が舞い上がり、先の方が見えない。白い闇に囲まれている気さえしてくる。
「......色々な事があった......。」
ぽつりと呟いた声は雪風の中に消えて行く。それでもサラの耳には届いた様で...彼女もまた私と同じ方向を見つめた。
「.....中々片腕は不便だ。卵さえ上手く割れない。」
私の下手の冗談にサラは優しく微笑んだ。
「私がいくらでも割ってあげますよ....。」
空を舞っていた白い欠片が随分と多く彼女の肩に降り積もっている。
それを払ってやりながら、サラにはあまり黒のコートは似合わないな、と考えた。
「......君の事も満足に抱き締める事ができない。」
「変わりに...私が抱き締めれば良い話です....。」
もっと、綺麗な色のものを買ってやろう。コートだけではない。欲しがるものは何でも与えてやりたいと思った。
「手を繋ぐ事も....」
「....まだ左腕があります。」
真っ赤になった指に白い息を吹きかけている。
仕草ひとつずつが懐かしい。どれも昨日の事の様に覚えていた。
それを確かめる度に、五年という歳月が作り出した距離が次々と埋まって行く。
「....最早兵士を続ける事も適わなくなった。」
「では、新しい事を始めましょう。やろうと思えば何でもできますよ。」
....静かだった。
彼女の声だけがやけに耳に響く。街の灯りさえも白い闇に包まれているのに、何故か暗くは感じなかった。
「そうか....。」
やはり彼女は光だった。
「そうですよ。」
たったひとつの。私だけの。
「ではこれからは君に手を引かれて....同じ早さで歩いてみたい。」
自然と手を繋いでいた。冷たい。けれど、その下に静かに流れる血液を感じる事ができる。
五年の時を経て繋がれた掌を見下ろしてサラは笑った。
やはり....少し陰りができている。しかし、それで良いのだ。影があればこそ光は美しい。
「私は...随分と歩くのが遅いですよ。」
「その方が、沢山の大切な事を見落とさずにすむ。」
「......私なんかで、良いんですか......」
「....君でないと駄目だ。」
......綺麗だ。大袈裟な表現ではなく、こんなに美しい女性を初めて見たと思った。
彼女は笑いながら眉を潜め、それから一筋涙の緒を頬に描く。
「......本当に、」
「一緒にいて欲しい。君が過ごした堪え難い五年間....一生かけて償おう。」
まだ疑うのだろうか。信じられないのだろうか。
いや違う....。どんなに紆余曲折を経ても、サラと私の気持ちはいつも同じだった。
「それなら....ひとつだけ約束をして下さい...。」
サラは顔を上げてこちらを見る。
優しく笑う彼女は、五年前にあの通りで出会った素直で無邪気な....愛する主人の為にあくせく働く少女の様な使用人と確かに同じ人間だった。
「どんな事でも。」
歳月も、姿形も全くもって意味は無い。そんなものは簡単に飛び越える事ができる。
「二度と、この手を離さないで....一人にしないと、約束して下さい....。」
頼まれても.....離すつもりは無い。
「......約束する。」
50年でも100年でも、君が進む道に寄り添おう。
いつかの夜の様に、片腕で...けれど精一杯力強く抱き締める。彼女もまた私の背中に腕を回してくれたので、腕を離した。そして、冷たい頬を優しく撫でる。目が合う。
懐かしくて、愛おしい深い色の瞳がそこにはあった。
サラが笑ってくれたので、私も堪らなく嬉しくなって笑った。
ゆっくりゆっくりと視線を合わせると、微かな吐息を感じる事ができる。
頬を撫でていた掌をゆっくりと後頭部に回した。
そして、無限に続いていた距離は零になる。
今日、この一瞬の為に生きて来た。全ての苦しい事も辛い事も、ひとつ残らず凍った結晶の様に壊れる。
いつの間にか雪が止んでいる。柔らかく周りを囲む静けさの檻と白い闇が晴れて、辺りに淡く色彩が戻るのが分かった。
唇を離せば少し照れた様にサラが笑う。頬が色付いているのは寒さの所為では無い。
弱く差してくる日を眺めながら、自然と言葉が口から零れる。
「......結婚しよう。」
そう言って視線を戻すと、なんとも間抜けに口を半開きにしているサラの姿が目に入った。
「え、や、その.....。」
とんでも無い慌てぶりだ。頬に両手を当てて何かを考え込む様に俯く。
それからもう一度こちらを向いて「.....えっと、けっこんって.....どういう意味でしたっけ.....。」と頭を抱えたくなる様な事を言った。
......混乱が極まったらしい。
「......君は今まで私と何を話してたんだ.....。」
「...えっと、エルヴィンさんが卵をわれないという.....「何故そこだけ覚えてるんだ」
「で、では....そうだ、私は歩くのが非常に遅いという....「そんな事は知っている」
.....溜め息をひとつ吐いた。
それから妙に可笑しくなって笑ってしまった。
「....君はこれから辞書を持ち歩きなさい。」
「重いから嫌ですよ....。」
「それでは結婚の意味を答えてみると良い。」
「それ位知ってますよ....!」
「....と言うと?」
「...........。」
サラは耳まで朱色に染めた顔を冷やす様に冷たい掌を当てている。
そして私の袖を引いて屈む様に促した。
耳元に彼女が唇を寄せる。たった二言三言の短い言葉がそこから伝わる。
「......ああ。」
遂に頭を抱えてしまった。次にじわりと顔が熱を持っていくのが分かる。
「え...?違いましたか?」
サラが非常に恥ずかしそうかつ不安気に尋ねた。
「いや....まあ。正解といえば正解だ。」
はあ、溜め息が口から漏れる。本当にサラはいつだって予想外...いや、予想以上の事をしでかす。
一通り呆れを表現した後、流石に可愛そうになったので頭を撫でてやった。
未だに混乱と恥じらいの狭間にいながらも、困った様な笑顔で見上げてくる。
暖かい。.....そしてどこまでも一途だ。
サラを愛して....愛されて、良かった。....本当に良かった。
「.....行こうか。」
地面に落とした私の傘を畳んでいたサラに声をかける。
サラは穏やかに笑って「はい。」と応えた。
傘を受け取ろうと手を伸ばすと首を降られる。
「私が持ちます。」
そしておもむろに自分の手を差し出して来た。
「エルヴィンさんは...変わりに私と手を繋いで下さい。」
.....少しの間、全くの邪気無く微笑む彼女を惚けた様に見下ろした後、穏やかな笑みが顔に浮かぶのが分かった。
「ああ....。そうしよう。」
その手を取った瞬間、完全に世界が色彩を取り戻すのを感覚した。
サラもまた、同じものを感じる。
そして自分が灰色の世界から鮮やかで広大な世界に踏み出したのが分かった。
―――何て広く、美しい満天下に自分は生まれたのだろう。
私は何処へでも行けたんだ。二人でなら.....何処へでも行ける。
知らなかっただけなのだ。
世界は、無限に続いている。
雪が止み、重たい雲の隙間から光が輝く糸の様に降りて来た。
白と灰で埋められた墓所の影にもそれは差し込む。
エミリエの墓にはいつ間にか淡い日溜まりができていた。
―――未だ、雪が溶けず、内に向かって閉ざされた静寂の世界。
しかし、その中にはほの温かいものがある。
ここにあるのは死の世界ではなく、静かに刻まれる生の鼓動だ。
やがて来る春に向けて、それは微かに密やかに、けれども確かに響き続ける。
「日溜まりの様な人」end
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
貝201402
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