21微かな絆と雪解けの刻
.......どれ位、そうしていただろうか。
ふと、サラの体に降り積もり続ける雪が、何かに遮られた。
真っ白な地面には、青い影が差している。....久しぶりに色彩を見た様な気がした。
「.....あまり、体を冷やさない方が良い。」
静かな声だ。穏やかな湖面を想わせる。
「君のお嬢様が居なくなってしまったと聞いて...ここにはよく来る様になった。」
どれだけ永い間暗闇を泳ぐ様にこの声音を求めていたか。はあ、と白い息が口から漏れる。
「あれだけ大切にしていた人だ。君は必ずここへ訪れるだろうと....」
.....これは夢なのだろうか。もう、期待しない方が良いのかもしれない。
「五年前の雪の日は....君が私に傘を翳してくれたね。....よく覚えているよ。」
夢なら、どうか早く覚めて欲しい。幸せな夢程残酷なものは無い。
「あの時も....今も....いつも私は君との約束を破ってしまう。」
サラは応えなかった。未だにぼんやりと滲んで行く砂利が混ざった雪を眺めている。
「.....五年間、本当に済まなかった。」
死んだ様に動かないサラを見下ろす。黒いマフラーとは対照的に白さを通り越して透けて無くなりそうな項が覗いていた。
「色々な事があった。私も....自由に動ける身では無かった。」
.....所詮これは言い訳にしか聞こえないだろうか。
随分と彼女は辛い思いをしたらしい。その証に、サラの周りの世界だけ色を欠いてしまった様な虚脱感が漂っている。
「.....理由を、話させてくれないか。君が、まだ私を想っていてくれるなら....」
サラは何も答えない。指先ひとつ動かさない。髪がばさりと顔に掛かっていて表情も伺えない。
「......もう、いいです。」
それから微かに微かに声を漏らした。よく通る....しかし何の感情も籠っていない声だ。
「聞きませんから.....。」
五年前の明るく無邪気な彼女と同じ口から発せられたものとは思えない程空虚な響きが聞こえる。
......彼女の答えに、胸が支えた。
そうだ....いつだって私はサラに甘えてしまう。彼女は私と同じ気持ちでいると勝手に思い込んでしまう....
.....髪。長く艶やかな髪が、ばさりと切られて短くなって、御簾の様に彼女の表情を隠している。私が、愛した美しい髪を。
それと同じ様に彼女の心の中で私の存在は失われてしまったのか。おぞまし過ぎる考えが足下から這い上がって来た。
目を見張り、微かに震える指先で傘の柄を握り直す。
.....サラがゆらりと立ち上がった。こちらからは後ろ姿しか見えないため、表情は伺えない。
ただ、ひどく不安定だ。体の軸が無くなってしまっている様な....
「.......理由なんて、どうでも良いんです....」
また、よく通る声が雪の中に沈んで行く。
サラが振り返った。時が止まった様な静けさの中、けれど確実に私の方を向く。
顔色が悪い。色が失せて真っ白になった頬の下に青い血管が透けて見える。
.....随分と面持ちが変わった。けれど、その瞳だけは変わらず....目を逸らしたくなる程美しい光が宿されている。
「生きていてくれれば....何も、いりません。」
渇いた大地に水が沁みる様だった。たった一滴の雫で、清水の声が体のうちに響き渡るのがサラには分かった。
「それだけで、私には....充分過ぎます.....!」
そしてそれは瞳から溢れ出す。凍てついた頬を溶かす様な熱い涙だった。
これは五年分の涙だ。暗く、渇いて、音も無く色も無かった私の世界に、光が、淑やかな雨が、優しい声と、何度も夢見た貴方の金色が。
涙は止まらない。ただただ頬を濡らして行く。毎晩の様に話したい事を考えては溜め息を吐いていたのに、今は何も言う事ができない。
.....いつもそうだ。肝心な時に大事な言葉は出なくなってしまう。
エルヴィンの手の中から傘がするりと落ち、水気の多い汚れた墓所の地面に落ちて行く。
彼もまた何も言葉にする事ができなかった。震える指先を伸ばし、冷えきった彼女の頬に触れる。
それは熱い涙で濡らされた傍からまた冷たくなっていく。
サラはひとつ息を呑んで目を伏せた。
それから切なそうに眉を寄せて、指先だけが赤くなった、これもまた氷の様に凍てついた手でそっとそれに触れ、自分の頬に愛しそうに沿える。
......待っていてくれたのだ。
五年間、時を止めて、永遠とも続く様な暗闇に耐え、彼女は私を待っていてくれた。
体は戦慄いていた。頬からゆっくりと手を離し、片腕で彼女の体を抱き締める。
......なんと、懐かしいのだろう。ずっと焦がれ続けたものが、今、自分の腕の中にいる。
姿は変わってしまった。しかし、確かに彼女がサラだと分かる。
気付くと自分も泣いていた。
辛い思いをさせてしまった悔い、出会えた喜び、自分に対する憤り、彼女と過ごした優しい記憶、様々なものが胸を過り、混ざり合って訳が分からない感情になって瞳から溢れ出す。
やがてそれは嗚咽となり、ただひたすらに「済まない」と謝罪を繰り返しては抱き締める力を強くした。
この年になってこんなにも沢山の涙を流す事になるとは思わなかった。それでも留まる事を知ってはくれない。
......ただ、ひとつ言える事は幸せだった。胸が捻り潰される程、幸せだった...。
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