日溜まりを探す人 | ナノ 20百の喪失とひとつの真実



その年は、雪が沢山降る年だった。


窓枠は固くなった雪で覆われ、そこにはめられたガラスも氷の様に凍てついていた。


現在.....私は、奥様の付人として彼女の用事が済むまで内地を出て過ごしている。


.......外。外の世界は賑やかで、楽しく、幸せな事が沢山ある。そして、傷付く事や辛い事も沢山ある。


早く.....内地の屋敷に戻りたい。もう、幸せも辛さもいらないのだ。


淡々と生を全うし、静かに眠りたい。


夜が来て.....ずっと夜だったら良い。それが永遠に続けば良い。







遂に、内地に帰る時が来た。ようやく心に安堵が訪れる。



「......貴方、最近顔色が優れないわね。」

馬車の中で向かい合って座っていると奥様が窓枠に頬杖をついてこちらを眺めてきた。

「そうですか.....?」

「ええ。白いのを通り越して紙みたいな色になっているわ。」

「....近頃、とても寒いので血の巡りが悪くなっているのかも知れません...。」

「.....そう。ただ、体には気をつけて頂戴。不健康な顔をした人間に傍にいられるのは嫌よ。」

「申し訳ありません。....気をつけます。」


それきり私たちは口を噤んだ。奥様は社交の場では饒舌で知られているが本来言葉少なな方だ。

私は彼女が嫌いでは無い。そして彼女も私を嫌いでは無いのだろう。

それ位の距離が丁度良い。近付き過ぎれば、それだけ別れが辛くなる――――


馬車が跳ね返る二頭立ての馬に牽かれて駆けて往く。車輪ががらがらと鳴っている。

その中では私たち二人がおかしなふうに身体を揺られている。揺れが強い。私は肘掛けを握って身体の揺れるのを防いだ。


にわかに、外が賑やかになった。人々が私たちと逆の方向へと駆けて行く。

内地に向かう私たちと、逆......つまり、壁の方へ向かって。


「......どうしたのでしょう」

首だけ動かして窓の外に視線をやる。

奥様は全く興味が無い様で、新しく卸した指輪の緩さを不満そうに眺めていた。

「ああ....。今日は確か調査兵団が壁外調査から帰って来る日ね。まあ....彼等は庶民の英雄だもの。
ここの人たちが熱狂して迎えに行くのも分かるわ....。」

顔をしかめて指輪の石の位置を直しておられる。まるで遠い...知らない国の事を話している様だ。

しかしそれに反して私は全身の毛が逆立つ様な気がした。鳩尾辺りから痺れが広がり、それは体中を突き刺す感覚に変わる。


「止めて下さい.....。」


気付くと、その言葉が口から吐いて出た。

大きくは無かったが、驚く程よく通る声だった。

それに従って馬車が停止する。


「....ちょっと、貴方どうしたの急に....」

ようやく指輪から視線を上げた彼女が困惑の表情を浮かべた。

「申し訳ありません...奥様。先にお戻り下さい。私には、やらなくてはならない事があります....。」


それだけ言って馬車の扉を開ける。......白い。雪だ。辺り一面の雪の世界がぶわりと馬車の中に吹き込んだ。

迷う事無く湿って鈍く光るタラップを踏んで舗装された路に飛び降りる。

唖然としていた奥様が弾かれた様に扉から顔を出した。「サラ!!――――戻りなさい!!!」


その声に応える事は無く、私は走り出した。周りの人も走っている。喜びの表情を浮かべながら。


調査兵団....!!どれだけ久しくその名を聞いただろう。

懐かしく、焦がれて、堪らなく愛しいあの人が...誇りを持って長を勤めていた兵団...。

もしも、もしも....!!彼が生きているのなら、必ずそこにいる!!

人類を守るという使命を何よりも大切にしていた...!!絶対に調査兵団に、居る筈だ....!!


分厚く積もった雪は氷となり、動く事に適していない華奢な造りの靴ではあっという間に足を取られて転んでしまう。

早く行かなくては....!行軍が通り過ぎてしまう前に....!!!

靴を脱いだ。薄い靴下にみるみる冷たい雪が水となって沁みて来る。

それも全く気にならなかった。足が壊死しても構わないと思った。


一目その姿を見る事ができればもう何もいらない。


今はもう心の底から真実に、生きていてくれればそれで良いと思えた。


私の事は忘れていても良い。そう、私の事等どうでも良い。彼が生きて幸せならばそれだけで。それだけで。


ずっと、男の人が怖かった。また、この想いは私にはあまりに過ぎたものだった。


.....関われば何処かに傷を負うと分かっていながら、何故逃げなかった?


水曜日の買い出しを別の日に変える事もできた。

約束をしてくれたあの日、深夜まで待たずに寝てしまえば。お嬢様の忠告に従って、二度と会う事も無くすごしていれば....!

博物館に二人で行った時、これで会うのは終わりにしようと....初めて行為に及ばれた時に最後まで拒否を貫き通して...駄目、好きなんて言わなければ....手紙の返事を書かなければ、深夜の呼び鈴に応えなければ.......!!!!!!



「駄目!!!!!!」



周りの喧噪の中で叫んだその声は誰も聞いてなかった。



そう.....駄目だったのだ。できなかったのだ。彼が自分とはかけ離れた人間と分かっていても、私は彼の元から離れられなかった。



愛しているのだ。



髪を切って、髪留めを手放して.....形ばかり変えて逃げていても、結局心は変えられない。


.......生きていてくれればそれで良い。想い続ける事ができればそれで良い。


彼は私にとって光なのだ。同じ空の下にいる....その真実だけで、進む道を、50年も100年も照らしてくれる。



靴を、両手に持ち直す。人々に混ざって再び私は走り出した。



こんなに.....息を吐く間もなく、走ったのはもう何年ぶりだろう...。喉が焼け付く様で、辛い。苦しい。

何度も、私の元に走って来てくれた彼は...いつもこんな痛みの中で....


.....ならば、私も耐えてみせる。絶えず戦っていたあの人の辛さに比べたら.....こんな事は何でも無い。



ようやく、行軍が目に入る。背があまり高くない私は、人々に押しつぶされながらも前に出た。

.....雪の中での壁外調査が身に応えたのか、調査兵団の面々は皆一様に暗い面持ちだ。


(......どこに.....)


白い息をひとつ吐く。頬、鼻、耳、外気に触れている部分が酷く痛んだ。足の感覚はもう無い。


.....私は彼を決して見誤らない。五年間、幾度と無く瞼の裏に描いた人の姿を、見つけられない筈は無い。


(......まだ、諦めてはいけない。)


頭の列には居なかった。団長ではなくても要職に就いている筈の彼ならそこにいると思ったのだが....

だが....大丈夫だ。まだ行軍は続いている。いる。必ずいる。今こそ信じよう。絶対に生きていると....!







風が.....ざあと吹いて.....雪を舞い上げた。


誰もいなくなった道路に、私はいつまでも佇んでいた。


.....足に突き刺さる様な痛みが襲って来る。


もう、走る必要は無くなったので、靴を、履いた。水を大いに吸った靴下は冷たい針の様な感覚を齎した。


「なんで.....」


ぽつりと呟いた言葉は吹きすさぶ風に変わっていく。


..........最後の、望みが潰えた。くしゃりと、いとも簡単に。


ふわり、ふわりと歩き出す。.....このままどこまでも飛んで行けそうだった。


そして空まで昇って...星にでもなりたい。それが適わないのなら石でも良い。なるなら河原の石が良い。丸く、滑らかで.....誰も傷付けず、自分も傷付けない。


.....私はもう、人として生きるには、あまりに疲れ過ぎたのだ。



黒い塗装が剥げて赤い錆に覆われ始めている鉄柵の扉をぎちりと開く。

こんな雪の日に墓所に来る人は誰もいない。物言わぬ石の羅列。それが所詮ただの石だと分かっていても、どうしてもその面影を、拠り所を求めてその前に立ってしまう。



お嬢様のお墓の前では、以前置いた白い髪留めが雪よりも更に白く...私の手元にあった時よりも美しさを増して咲いていた。

ああ....本当にこれは私の心と同じだ。時が経てば経つ程、苦い環境にその身を置けば置く程、鮮やかに、毎日の様に新しく生まれ変わる。


「.......お嬢様。」


雪が周りの音を包み込む様に消してしまう世界の中で、私の声は変によく響いた。


「私、やっぱりエルヴィンさんが好きです。」


孤独が、冷めた心に染込んで来る。きっと....この言葉も、雪に優しく遮られ、誰の耳にも届かないのだろう。


「想い続けるには....幸せ過ぎました。...けれど、忘れるには、あまりに愛し過ぎてしまった....。」


世界はどんどん色を失う。灰色の世界から、茫漠とした白へ。


「生きていてくれれば....それで、よかったんです。」


輝いていた日々が遠くなる。心の奥が乾いてぱさりと薄利する。


「......寒いなあ。」


冬が、こんなに寒かったなんて。


私を照らしてくれた....暖かな存在が完全に無くなった今、寒さが体から内蔵、血液の中にまでじわりと穏やかに確実に染込んで来る。


それでも、涙は出ない。何故だか表に出るのは渇いた笑みだけで....。


あの人が、光の様だと、花の様だといつも褒めてくれた笑顔は、もう私の中には無い。


五年間....。永くて暗く、重たい私の愛。


けれど、想い続ける事ができただけ幸せだったのだ。


.......体の随まで沁みた寒さが、胸の内側に空虚な穴を作って行く。

その穴に、雪が、痛みが、苦しみが容赦無く吹き込んで、そこはたちまち一杯になった。



体がぐらりと揺れた。

土に混ざって汚らしい色になった雪の上に膝をついた。じわりと服が水を吸う。

だらりと腕を弛緩させ、首も座らず、がくりと折れ曲がる。瞳は開いていながら、どこも見つめていなかった。


「......そうか。」


もう渇いた笑いも起こらない。ひたすらに表情は凍り付いていた。



「私、独りぼっちになっちゃったんだ.....」



信じられない....。信じたく無い。



けれど....それが今の私の中に残った、たったひとつの真実だった。



  

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