19忘却と灰色の世界
髪を切った。
短くなった髪はとても軽くて....体の軸を失った様な、糸が切れた凧の様な....そんな不安定さと、胸の内には伽藍洞の空虚さを感じる。
私は、自分の髪が好きだった。
エルヴィンさんはいつも私の髪を褒めてくれたから....。
綺麗だと、触れてくれたから....。
......奥様の仰る通りだ。もう....、忘れよう。
彼が愛しければ愛しい程、想いが苦しみとなって私の体を内側から掻きむしり、悲しみが蜷局を緩やかに解いて這い回る。
それは最早終わる事の無い拷問に近い。
逃れるにはもう....忘れるしか道は無い。
結局私は変われていない。弱く臆病で...もう、愛しい人を信じ続ける事にさえも耐えられないのだ....。
*
「お嬢様.....。ごめんなさい。」
彼女が眠る冷たい石に語りかけた。
墓所に来ると....世の中は全て色を失ったのでは、という錯覚を覚える。
灰色をした石の間に灰色をした石碑が何本となく立っているのがとても侘しい感じを起こさせた。
草の青さもない。立花さえもほとんど見えない。ただ灰色の石と灰色の墓である。
「私....お嬢様の言葉をひとつも守れてませんね...。
外が相変わらず怖くて、壁に囲まれたこの国の更に奥....内地のお屋敷から一歩も出れません。」
灰色の世界にぽつりと赤い染みができる。今日持って来た山茶花の血液の様な濃い赤だ。芯は金色で、とても美しい。
「それと....もう、エルヴィンさんを待つ事も....」
そこで言葉が途切れる。
もう一度、気持ちを落ち着かせてから口を開いた。
「ま、待つ事も.....」
........やめます。
その一言を言う事ができなかった。
首を小さく振って、息を吐く。短くなった髪がばさりと顔に掛かり、不快だった。
そして掌を開いて白い髪留めを眺める。
本当に....まるで、昨日卸したかの様に白くて美しい。
繊細な花弁を持つそれを墓石に供えられた真っ赤な山茶花の横に置く。
白と赤、互いに引き立て合って美しい。それが、酷く遠く感じる。
....私は灰色の世界の住人になる。もう、二度と優しい光に触れる事は無い。
風がさあ....と吹いた。
雪の匂いがする。もう....冬だ。
冷たい風で乱れた髪を適当に整え、もう一度物言わぬ石を見下ろす。
「ごめんなさい....お嬢様。」
驚く程落ち着いた声だった。
「ごめんなさい......。もう、無理なんです。耐えられないんです。」
誰に話しかけているのか。きっとこの声は彼女には届かない。所詮これは石だ。お嬢様はもういない。
灰色の石の上に微かな光を放つ白いものがひらりと振って来る。
私の頬にも冷たく細かいものが触れて行く。
色の無い空を見上げれば、きらきらと銀に、白にと色を変えながら粉雪が落ちて来た。
ああ、道理で冷える筈だ。黒いマフラーをもう一度首に巻き直す。
......エルヴィンさんと初めて会ったのも、こんな風に灰色に曇った冬の日だった。
「幸せだったなあ.....。あの頃は。お嬢様がいて、エルヴィンさんがいて......。私には、勿体ない位幸せ過ぎました。」
そう.....、想い続けるにはあまりに幸せ過ぎるのだ....。
「帰りたい......。」
あのお屋敷は....最早何処にも無い。私の唯一帰るべき場所はもう無いのだ.....
「.......無理ですね。」
泣いている様な、笑っている様な、悲しんでいる様な、悦んでいる様な....それとも、全くの無表情か。
どれとも付かない顔をして、空を見上げ続ける。
冷たさが、痛さに変わって来た。私は白い息を小さく吐き、文字が刻まれた石に笑いかける。
「幸せな思い出は、ここに置いていきますね。」
.......終わった。
私の初めての恋が終わった。
そしてこれから一生誰も愛さないだろう。
相変わらず涙は出ない。
心はどんどん軽くなり、遂には消えて無くなってしまいそうだった。
しかしそんな胸の内と裏腹に墓所から立ち去る私の足取りはしっかりとしていた。
雪が地面に触れて濁水に変わっている。泥が靴に纏わりつく。
それでも、決して足を止める事は無かった。
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