日溜まりを探す人 | ナノ 18渇望と救済



朝、目が覚めると日が東から出る。大きな赤い日だ。それがまたやがて西へと落ちる。赤いままで落ちて行く。そしてまた、一日が終わると勘定した。

しばらくするとまた唐紅の天道が上って来る。そうして黙って沈んでいく。また一日、と勘定した。


そうしていると、五年の歳月が経っていた。


五年。


言葉にすれば一言だが、私には永遠に感じる歳月だった。


―――――エルヴィンさんには、未だ会えない。


五年間....少しずつではあるが私の神経はすり切れ、もはや日が沈む事も昇る事も苦痛だった。


信じると、誓ったのだ。信じなければ....。必ず生きていると.....


震える手で手紙を書き、もしも彼が死亡しているという通知が来たらどうしよう、けれどもしかしたら返事が来るかも知れない....と不安と期待の半ばで過ごした事もあった。

けれど...それも返ってくる事は無かった。

かつて手紙を交わしていた時は、三日と置かずに返事が来たのに。

もう、あの頃の彼はいないのだろうか。抽象的な意味でも、具象的な意味でも.....


そして....夜。


私が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続く夜だ。

毎晩、何度となく読み返した彼からの手紙を封筒から取り出してはまた読んでいた。

繰り返し繰り返し読む内に、それは擦り切れてインクは変色し、用紙は折り目に沿って千切れてしまった。

もはや文字が読み取れなくなったそれを、私は暖炉に焼べて燃やした。

.......良いのだ。内容は全て、筆跡までも、一字一句違わず覚えている。だから、良いのだ....。


いつの間にか....机の上のランプへはたくさん虫が集まって来ていた。

それを見て、灯りを消した。部屋は暗がりに埋もれて行く。


今は、その変わりに彼に初めて買ってもらった髪留めを眺めて夜を過ごしている。

白くて、綺麗だ。こんなにも素敵な物を、一番愛しい人にもらった....そんな幸福な事が、本当にあったのだろうか。

あれは....夢だったのでは無いのか。

目を閉じて、指先だけでその感覚を確かめた。....確かにそれはここにあった。

そうしていると、瞼の裏に彼の優しい笑顔がじわりと浮かぶ。


.......想いは褪せる事は無かった。この髪留めがいつまでも純白を保っている様に。


今ではもう、私の事を覚えていて欲しいなんて過ぎた事は思わない。

生きていてくれればそれで良い。隣にいるのが私でなくても....別の人と幸せを見つけていても、それで良い。生きて、さえいてくれれば....


この想いはまるで呪いだ。未練がましく、より強く、胸の中に根を張り、ひどく私を苦しめる。

白い髪留めが入っている引き出しが目に入るだけで胸が抉られる様に痛い。

いつから私は進んで自らを虐め苛む様になったのだろう....。


.......お嬢様。私は彼を信じて待つと貴方に誓いました。

けれど....今はそれに耐え切れなくなってきている。清らかだった彼への気持ちに陰りができてしまっている。

あまりに暗く、光が全く届かない闇。忍従の夜。諦めの朝。

永遠にこの悪夢が続くのかと思うと、堪らなく怖い....。


「エルヴィンさん.....」


囁く様に名前を呼ぶ。

世の中に、こんなに空虚な響きを持つ言葉があったなんて。

相変わらず涙は出ない。

渇いた声でもう一度愛しい名前を読んだ。



――――返事は無い。







「濃過ぎるわ」

奥様....お嬢様とは血の繋がりの無い....が一口紅茶を飲んで仰る。

「申し訳ありません....。淹れ直しましょうか?」

「.....良いわ。偶には、良いかもね。」
そう言って優雅にカップを口に運ぶ。

....以前ここに居た時はあまり関わらなかったが....傍に仕える様になってこの方がとても美しい事に毎日の様に驚かされる。

お嬢様も相当綺麗な方であったが、それと同じ位....いや、もしかしたらそれ以上かもしれない、色香を漂わせているのだ。

同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映がもの思わしげな陰影を落していた。


「貴方....確かエミリエの侍女だったのよね?」

彼女は鮮やかな薔薇が描かれたカップをソーサーに置く。それからテーブルに肘をつき、手の甲に顎を乗せて遠くを見つめた。

「.....はい。そうです。」
静かな声でそれに答える。

「........あの子には悪い事をしたわ.....」

溜め息と共に言葉が紡がれた。私は何と応えれば良いのか分からなかった。

「今更よね....。10年以上放っておいて....墓参りだって一度もしていないわ。
私もあの子も相当気の強い性質だったから...結局分かり合えないまま別れが訪れてしまった。」

顎を支えていた手が額へと移動する。彼女の表情を伺い知る事はできなくなった。

「色々....酷い事を言ったし、言われたわ。
どちらかが、もう少しだけ優しくなれたら....。もう少し、思いやる事ができたら.....。......悲しい事ね。」

彼女の唇が淑やかに弧を描く。自嘲だろうか。大きめのイヤリングがぼうと淡い光を宿している。

「死んでしまえば、全てのものが終わってしまう。愛情も後悔も全く意味を成さなくなるわ....。」

誰に言うでもなく呟かれた言葉に胸の内側がきりきりと締めつけられて心臓が悲鳴を上げた。


そう.....死んでしまえば、愛情も...この、五年間降り積もった想いも...意味を、成さなく.....


「そう言えば貴方....結構良い年よね?」

顔を上げた奥様は先程の悲哀を全く感じさせない。いつもの様に美しく、自信に満ちた仕草で再びカップに口を付けた。

「.....はい。」

事実である。使用人の中でもすでに年長者に類されていた。

「結婚はしないのかしら?オールドミスなんて女性として恥ずかしいわ。」

「.....それは、あの....ええと、ですが使用人の恋愛は禁止ですし...」

「いつまでもここで働く訳にも行かないでしょう。恋人位作って置くのが身の為よ」

珍しく恋愛に寛容な女主人である。....事実、彼女は旦那様と結婚する前は随分とその方面で浮き名を流していたらしい.....

「何なら相手を探してあげても良いわよ。」

自分の爪が綺麗にやすれているか翳しながら確認している。何でも無い様に言われた言葉に頭の中は混乱を極めた。

「え......?」

「貴方は地味だけれどそれなりに器量が良いし...。そこそこの男が見つかるでしょう。」

「あ.....いえ、その....お気持ちはとても有り難いのですが....本当に、結構、です。」

纏まらない言葉を何とか形にして口に出す。奥様は自分の爪から私の方に視線を移し、少しの間こちらをじっと眺めた。

「......心に決めている人がいるのかしら?」

「はい.....。」

それだけはすぐに答える事ができた。私が傍にいたいのはこの世でただ一人だけだから....。

「......誰?貴方、嘘や隠し事が苦手な性質の人間だし...。噂も立てずに恋人を作る事なんて無理でしょう?
ああ.....、小説の登場人物は無しよ。」

「いえ....!.....いいえ。実在していらっしゃる方です....。している、筈です....。」

その答えに彼女の美しい眉が潜められた。

「......どういう事?」

「あの方は....、兵士なんです。調査兵団の....。
五年前の不幸な事件が沢山起こった年、壁外調査に行かれて...、それから、連絡が....、」

奥様が溜め息を吐いた。また視線はご自分の爪へと落とされる。

「でも....!亡くなっている筈はないんです.....!死亡者の一覧にも名前はありませんでした....!
生きていれば、絶対私の所に走って駆けつけてくれる....そういう、人ですから.....」

言葉はどんどん小さくなって行った。私は...自分の言葉に、想いに自信が持てなくなっていた。

ふとすると、忘れてしまえば楽になれる...と囁く声が微かに聞こえる。聞こえないふりをしている。


はあ、と一際深い溜め息が聞こえる。奥様は爪から部屋の向こうにある暖炉に視線を向けた。

もう、冬が来る。既にそこには炎が宿っていた。


「五年、か.....。ねえサラ....。誰もが貴方みたいに愛に愚直な訳では無いのよ。
......会えもしない相手を五年も想い続ける?あり得ないわ。そんな夢物語、小説や歌劇の中だけの話よ。」

彼女の瞳に暖炉の炎が映り込む。何を思っているのか。何を想起しているのか。

ただ....口調だけは平坦だった。まるで本を音読している様に。

「......生きているのなら、もう他に恋人がいるわ。貴方の事は確実に忘れているでしょうね。」

.....それでも良いと覚悟していたのにも関わらず、あまりにも残酷な言葉に全身の細胞が拒否反応を起こす。

白く清潔なエプロンは私が胸元を握りしめていた所為でひどい皺ができていた。

「そんな事ないです....。」

驚く程か細い、頼りない声をやっとの思いで絞り出す。

「心から信じても必ず愛は裏切られるわよ。五年....ねえ。人が変わるには充分な歳月だわ。」

「そんな....いいえ、だって...、あのひとは、私のこと....っ」

言葉が全く纏まらない。思考を組み立てようとしても砂の様にぼろぼろと崩れてさっぱり形を成してくれない。

「.....じゃあ、死んでるわ。
そうでなければ、『絶対私の所に走って駆けつけてくれる』筈でしょう?」

もはや何も喋る事ができなかった。まるで喉に栓をされた様だ。


「忘れるべきよ。それが貴方の為だわ。」


静かでしっとりとした声が渇いた砂の様な胸の中に一雫落とされ、じわりと染み渡って行く。


何て、優しく....惨い言葉だろう.....


けれど.....今の私を唯一救ってくれるのは、それだけだと.....


心の何処かが緩やかに解放されて、喜びに似たものが湧き起こる。


渇いた笑みが、小さく口から漏れた。



ああ.....ようやく、これで楽になれる.....



  

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