日溜まりを探す人 | ナノ 16憧憬と夏の終わり



窓を開けると、暑く湿った空気が体に染込んで来る様な気がした。

......夜、夜だ。むせ返る様な侘しい香りがする。


蝉の声もいつしか聞こえなくなり、部屋の中に迷い込んで来た虫を夏の虫かと思って眺めていると、ちりちりと哀れな鳴き声のまま息絶える。鈴虫らしい。

そして....暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感じるのである。ひと一倍早く.....。


あれから.....半年の月日が流れた。けれど、エルヴィンさんが私の所に再び現れる事は無かった。


沢山の事があった。トロスト区の扉が破られたらしい。再び超大型と呼ばれる巨人が出現し....

巨人になれる力を持った少年、息を吐く間もなく調査兵団は第57回目の壁外調査へ、壁の内部に女型の巨人が、沢山の人が亡くなり、政治は大きく乱れ.....新聞には毎日、あまりに不幸で凄惨な事柄が羅列されている。


ただ、ただ...ひとつだけ、良い事を読み取る事ができた。

....壁外調査での死亡者の一覧にエルヴィンさんの名前が無かった事だ。


どこかで生きている。そう....生きている筈なのだ....。



「サラ」



唐突に名前を呼ばれて肩が跳ねた。

鍵が無いこの部屋は誰でも簡単に入る事ができる。


....もっとも、ここに訪れた事があるのは私のご主人と、あの...愛しい人だけで.....


「すっかり新聞を読む姿が様になってきたわね。」
昔じゃ考えられなかったわ、と彼女は少し可笑しそうに言った。

「.......そう、ですか。」

「ええ、そうよ。貴方も少しずつ変わって来たわ。勿論良い方に。」

「ありがとうございます....。」

新聞を畳んでお嬢様の方を向く。

彼女は私より背が少し低いが、それを全く感じさせない。美しく、気高い人なのだ。少女の時からそれは変わらなかった。

「あの....どうしてここに。もうお休みになっている筈では....」

時計はもう午前二時近くを回っていた。私はいつも今頃の時刻に寝るのだが、彼女はそれよりも五時間程度早く眠りにつく。

「何だか眠れないの。......あと、紅茶が飲みたいわ。淹れてもらってもいいかしら。」

「勿論構いませんが....。紅茶なんて飲んだら余計眠れなくなりますよ。」

「大丈夫よ。そんな事は無いわ。」

「そうですか....。それではお部屋にお持ちしますね。」

「.....いえ、ダイニングに運んで頂戴。カップはふたつ用意して。」

「ふたつ、ですか....?」

「貴方も一緒に飲むのよ。良いでしょう?」

「はい....。喜んで。」

「.....いつも、我が儘でごめんなさいね....。」

「気にしないで下さい。急にどうしたんですか...?私はお嬢様の我が儘を聞くのが結構、好きですよ。」

「そう......。」


彼女はそれだけ言うと扉の近くからゆっくりと離れて階段を下って行く。白い夜着の裾をひらりと揺らして。

私は溜め息を吐いた。それが夜の空気にしっとりと交じり、窓から濃紺の空へと届いてくれたのなら嬉しいと思う。

きっと彼もどこかで同じ夜を迎えている筈だから。....きっと....。







「どうぞ」

白く、縁だけ金色の釉薬を塗られたカップをテーブルに置く。
二人には大き過ぎるテーブルなので、向かい合ってでは無く隣り合って座った。

この屋敷はとても広い。二人だけで暮らしているとはにわかには信じられない。

でも、広過ぎると感じた事は無かった。何故なら私もお嬢様も、ここだけで自分の世界が完結していたからだ。

だから私は毎日掃除をし、磨き上げ、自分の世界の秩序を保つ。ここには辛い事も悲しい事も、私を傷付ける事もない....。

まるで外の世界から切り離された様な、時が止まった様な...私たちだけの、帰るべき故郷。


「薄いわね」

お嬢様が一口紅茶を飲んでから呟いた。

「夜ですから。あまり刺激の無いものにしようと....」

「私は濃い方が好きだわ。」

「申し訳ありません。淹れ直しましょうか?」

「.....良いわ。偶には、良いかもね。」
彼女は目を伏せて飴色の液体を眺めた後、行儀良く紅茶を一口啜った。


しばらく私たちは黙ったままで紅茶を飲んだ。

とは言っても立ち上る湯気の行方を目で追ったり、カップの中でゆらりと起こる波紋が収まるのを見守ったりと....何故か気持ちは散漫になり、大して私の紅茶の量は減らなかった。


「ああ、今夜もまた寂しいわね。」

お嬢様の口からぽつりと声が漏れる。

「え.....?」

言葉の真意が汲み取れずに彼女の方へふと顔を向ける。

「.........大丈夫よ。彼くらい地位のある人間ならば、その身に何か起こった時は必ず私たちの耳に届く筈だもの。音沙汰が無いのは無事な証拠よ。」


........お嬢様は分かっている。

私は決して彼の事を口には出さなかったが、この半年間どんな思いをして過ごして来たか、充分過ぎる程分かっていらっしゃる。

けれど....それでも尚、何でも無い風に装わなくては。一度、弱音を漏らしてしまえばきっともう....


「.....ええ。そうですね...。」

そう言いながら努めていつも通りにしようとカップに手を伸ばす。

しかし体は意地悪く震えて、カップを持ち上げた時にはスプーンがソーサーの上で耳障りに鳴り、ひどく困った。


「それとも....生死に関する事以外で不安が...?」

全てを見透かす様な声だ。

....ああ、もう私とお嬢様は何年の付き合いになるのだろう。彼女の前ではこんな陳腐な演技が意味を成さない事くらい分かり切っているのに....

「......そう、です。勿論生きていられるか...どうかが一番心配ですが....それ以外にも...不安な事が多過ぎて...。」

結局カップの中の紅茶が私の口に運ばれる事は無かった。
それをソーサーに戻し、未だに震え続ける指先をやっとの思いで取手から離す。

「言ってごらんなさいよ。」

私に反して彼女は優雅に紅茶を飲んでいた。カップの中身が減ってきたので新しく注ぎ足してさしあげる。

「.....いいえ。言いません。....言えません。きっと...止まらなくなってしまいますから....。」

「いいのよ、止まらなくて。もう貴方とは15年以上...お互い、一番近しい者として存在しているのだから。
どんな事でも受け止めてあげる自信が私にはあるわ。」

彼女の表情は憂いを帯びていたが、心から美味しそうに...私が淹れた紅茶を愉しんでくれているのが分かった。


貴方のその顔が見たかったから私は、紅茶だけは上手に淹れられる様になったんですよ....。


「......生きて、」

遂に口から弱々しい言葉が零れ出す。

「生きていらっしゃるのなら、何故私の所に来てくれないのでしょうか。会いに来ては....くれないのでしょうか....。
私は忘れられてしまったのか....考えれば考える程不安で.....」

小さな溜め息が隣から聞こえた。かちゃりと音がして白いカップがソーサーの上に降りて来る。

またしても中身は少なくなっていたが、もう注ぎ足す事はできなかった。
使用人としての勤めを忘れてしまう程、今の私はひどく不安定な存在だった。


「.....彼の事、信じられないの?」


静かな声がたったひとつだけ光が灯った薄暗い部屋に溶け出していく。

「そんな訳では....、でも、何故彼みたいな立派な人が私を選んでくれたのか分からないんです。
きっともっと相応しい人はいます。もしかしたらただの一時の気まぐれで、私の事なんて最初から....」

掠れた小さな声はひどく渇き、どんどん早口になっていった。自分のこんな情けない声は初めて聞いた。


「......信じないと駄目よ。」


気付くと机の上で色を失う程握られていた自分の掌に彼女の冷たい手が重ねる。それはしっとりとしていて、育ちの良さが伺えた。


「愛しているのでしょう....?」


彼女の声はいつも瑞々しく、落ち着きを保っている。

「.....はい。愛しています。愛して、ます.....。」

大きな涙の緒が頬を伝って黒檀のテーブルに更に黒い染みを作った。

それはまるで血液の様に濁々と鈍い痛みを伴って溢れ出して行く。

人を愛する事が醜く、苦しい事なんて知らなかった。知りたく無かった。愛さなければ良かった。あの時に....声なんてかけなければ良かった....!


「.....不安よね。」

あくまで穏やかに彼女は言う。どこからか真っ白なハンカチを私に差し出して涙を拭う様に促した。

「でもね...私は、きっと彼も貴方と同じ気持ちでいると思うの。あれがサラの事を忘れるなんてあり得ないもの....。」

「どうして...ですか。そんな保証ありません。
....駄目、ですね。生きていればそれだけで良い、なんて事...私、思えません。私の事を忘れてしまっては嫌です。覚えていてくれないと、嫌なんです....!」

受け取ったハンカチは役割を果たさないまま私の掌の中で握りつぶされていた。
ああ、アイロンをかけてお返ししなくては....と頭の片隅で滑稽な程冷静な事を考える。

「大丈夫よ。私には分かるの...。何故と聞かれても答える事はできないけれども。」

遂に彼女は私の掌の中からハンカチを奪って自ら頬を拭って来た。少し強く擦られたので皮膚がひりひりとする。

「それにね...私は貴方たちの愛を信じたいのよ。裏切らない、永遠の愛があると...そう思っていたいの。
私はこの体だから書籍の中の恋愛しか知らないわ。どれも幸せで美しく描かれていて...最後には必ず二人は結ばれる。
....だからこんな夢見がちな事が言えるのかもしれないわね。」

ようやく私の顔が見れるものになってきたのか、お嬢様は満足した様にハンカチをしまった。

「.....勿論悲しい恋の話もあるし、世の中の愛欲は汚れたものも多くあるでしょう。現実は甘く無いわ...。
でも...やっぱり人を愛するって素晴らしいと思う。どんなに不幸な世界でもこれだけは変わらないでしょう.....。そして...私はそれに憧れてやまない。」

彼女は憧憬の視線を遠くに向けた。そこには絵画がかかっている。よく晴れた日の湖の絵だ。空と同じ色をした水面がきらきらと光っている。

....しかし、薄暗いこの部屋ではその美しさは充分に発揮されていない。


「......信じないと、駄目よ......。」


お嬢様はもう一度、同じ言葉を淡い吐息の様に呟いた。

そして、冷えた紅茶の残りを飲み干す。かたりと軽い音がして、それはソーサーの上に再び収まった。

「私はね....。貴方たち二人がこういう仲になってくれて嬉しかった。...そして、酷く安心したわ。
ようやくサラを守ってくれる人ができたのだと。」

最早...彼女は私が隣にいるのを忘れているのかもしれない。譫言の様に、言葉を細く長く紡ぎ出して聞く。

「サラ、私は貴方の事だけが心配なのよ。私よりも年上の癖に失敗ばかりですぐ泣くし...頭の中は子供のままで....けれど、何より優しい...私のたった一人の、友達....。」

そこでようやく私の存在を思い出した様だ。体をこちらに向けて視線をひたりと合わせて来る。

私もまた、縁が赤くなっているであろう目で彼女の瞳を見据えた。

「私はね....言葉ではあまり言わなかったけれど、貴方の事がとても好きなのよ。
だから幸せになって欲しい。こんな狭い所で終わりを迎えて欲しく無い。
きっと彼ならそれを適えてくれると....そう思ったら体がとても楽になったわ...。」

そう言いながらお嬢様は穏やかに笑う。

確かに.....彼女の体は少しずつだが快方へと向かっている。その事実が私にとって唯一の支えだった。

「このまま行けば、きっと来年の夏には私も外に出れるでしょう。そうしたら、絵画では無くて本物の湖が見てみたいわね...。
あの絵は昼間のものだけれど、きっと夜も綺麗だと思うわ。月が水面に映る景色は素晴らしいでしょうね。」

普段大人びた厳しい表情をしている彼女が珍しく子供の様に楽しげに未来を語る。

それを見て、私の中に蜷局を巻いていた黒く重たいもの達が柔らかく解けて行くのが分かった。

「ええ....。きっと、素敵でしょうね。一緒に行きましょう。」

「約束よ...?」

「はい、約束します...。」

お嬢様はしばらく頬杖をついてぼんやりとしていたが、やがて紅茶を注ぎ足す様にと目で促したので、それに従ってカップに再び琥珀色の液体を注ぐ。

それはすっかり温くなっていた。

「.....何だか私ばっかり話してしまったわねえ....」
ほう、と息を吐きながら彼女が言った。何処かすっきりした様な....とても晴れやかな表情だった。

「良いんですよ...。私、人のお話を聞くのが好きですから...。」

「....そうね。貴方は昔からそうだったわね.....。」

お嬢様は淡く笑い、空になったカップを置いた。

「......ようやく眠くなって来たわ。悪いわね、付き合わせてしまって。」

そして椅子から立ち上がる。

革張りの重たい椅子は扱い辛いと嫌っていた彼女は、簡素な木の椅子を愛用していた。
随分と古いそれは、引いた時に軋む音が一際大きい。

「また、明日ね.....」

頬にキスが落とされる。それから「ほら、貴方も」と言われたので私も彼女の白い頬に口付けた。

生まれも育ちも比べ物にならない程差があるのに、いつでもお嬢様は私を対等に扱って下さる。

彼女は優しく笑っていた。それは美しい微笑みだった。

どんなに病状が悪化しても彼女の美貌は、まるで暮方の光の如く肉の落ちた顔のどこかに漂い続けている。

「はい...。また、明日。」
私も同じ言葉を返して笑った。

月光が差し込む部屋の中で、彼女の夜着の裾に施されたレースが蜘蛛の糸の様に繊細に光っていている。

そしてしばらく見つめ合った後、彼女は先程と同じ様にひらりとそれを揺らしてを自室へと向かって行った。



けれど.....明日になっても、お嬢様は目を覚まさなかった。

永い、永い......眠りの湖畔に、彼女は静かに漕ぎ出して行ったのだ――――




  

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