15旅立ちと手紙
『早速のお返事、ありがとうございます。
私の周りはいつもと代わり映えはありませんが、先日近所に桜がとても綺麗に咲く場所を見つけました。
来年は是非エルヴィンさんと一緒に見たいです。
後はお嬢様の体の具合が少し良くなりました。以前よりちゃんとお食事を召し上がられる様になって、私も嬉しく思っています。
エルヴィンさんの周りではどんな事がありますか。是非お話を聞かせて下さい。』
『貴方からの返事を待つ時間がとても長く感じられます。
手紙が来るまで、以前頂いたものを何遍も読んでいるので随分と用紙がくたびれてしまいました。
兵団内では以前お話した通り個性的な面々が揃っています。
まず兵士長のリヴァイ。貴方も会った事がありますね。偏屈でひどい潔癖性ですが心根は優しい人間です。
他にもやたらと鼻が利く男、性別不詳の人間、巨人を理解しようと努める者....それを纏める私も相当変わっている人間と言えるかもしれません。
壁外調査から帰って来たらまた詳しく話しましょう。
適う事ならいつか貴方にも会わせてみたいです。サラの事だからきっとすぐに打ち解けるでしょう。
尚、エミリエさんの調子が良くなった事は大変喜ばしい事です。是非よろしくお伝え下さい。
彼女には感謝してもしきれない大きな借りがあるのです。』
『お屋敷の周りに咲くツツジが見頃を迎えています。
この古い幹の細い枝に咲いた紫色の花は、日を映じて窓から部屋の中までも明るく薄紫の色に見せてくれます。
どうかすると、その暖い色がお嬢様が仮寝をなさっているベッドの上まで来ていることもありました。
お嬢様にエルヴィンさんからの言付けを伝えておきました。
素っ気ない返事が返って来るだけでしたが私には分かります。お嬢様はエルヴィンさんの事をとても良く思っているのです。
私は相変わらず毎週水曜日に買い出しの為中央の通りへと出掛けます。街を見回しても貴方の姿が見えないのは少し寂いです。
ただ、この通りからは調査兵団の公舎が見えます。とても立派な建物ですね。今まではこんなに近くにあるなんて気付きませんでした。
そして遂窓に人影が見えると、貴方ではないかと期待してしまう自分がいます。
....以前はお嬢様と二人で静かに過ごせればそれで良いと思っていました。
しかし、貴方と会ってから私はどんどん我が儘になっています。
どうか、御身体にだけは気をつけて下さい。貴方が下さる手紙は私にとっても支えです。』
『貴方の手紙を読んで、思わず執務室の窓に駆け寄りました。
しかし遠くの通りに貴方の姿を見つける事は勿論できませんでした。
この街に貴方がいると思うと人類を守ると言う使命と責任を一入強く感じます。
そして、手が届く距離に居ながら日々の仕事に忙殺されて会いに行く事ができないのをとても辛く思います。
会いたいです。
以前は一週間、二週間会えなくても何も感じなかったにも関わらず、現在の苦しみは堪え難いものになりつつあります。
そして気持ちが通じた今、壁外調査で命を落としてしまう事を恐ろしく感じています。
団長という立場に居ながら弱気で恥ずかしい事です。
もう一度記します。会いたいです。愛しています。』
『壁外調査まであと少しですね。これが最後のお手紙になるでしょう。
もしくはこの手紙が届く頃にはもうエルヴィンさんは壁外へと向かってしまった後かもしれません。
エルヴィンさんからの手紙が少しずつ手元に増えて来たので、部屋の引き出しをひとつ空にしてそこに入れておく事に決めました。
この引き出しは、エルヴィンさんからの手紙は、私にとっての宝箱の様なものです。どの封書ももう何回読んだか分かりません。
そして返事を書く事も大きな喜びです。書いているうちに何かが心に充ちたことを感じるようになりました。
貴方に読んでいただく為に、貴方に手紙を書いたという事実だけで私は幸せです。
私も、会いたいです。お仕事の妨げになると思って今まで記さずにいましたが、ずっとずっと会いたくて堪りませんでした。
貴方の手紙を読んで、貴方を思う度に胸が苦しくなります。
会ったら、話したい事が沢山あります。話して欲しい事も沢山あります。
でも、きっと面と向かって話そうとすると大事な言葉は出なくなってしまうに違いありません。
ですから、手紙で一番言いたい事を言います。
会いたいです。もう一度会いたいです。どんな形でも構いません。どうか、どうか無事で帰って来て下さい。
今度はもう逃げません。貴方の気持ちに真っ直ぐに向き合います。
今では....あの時、冬のあの日に、頑張って良かったと心から思います。
貴方に会えて良かった。本当に良かった。愛しています。』
*
夜、サラはいつもの如く針仕事に精を出していた。
......少し、目が悪くなったかもしれない。
そう思ってランプの火を自分に近付ける。
開け放した窓からはさやと風が吹き込んで来る。いかにも穏やかな春の夜だった。
.......第56回目の壁外調査は、明日だ。
手紙は届いただろうか。できる事なら壁外に行く前に読んで欲しい。
サラは.....最近、新聞を読む様になった。
いかに自分が世間知らずか自覚した事と、彼の仕事がどんなものか知りたいというのが理由である。
そして読み進める内に、壁の外がいかに危険か、巨人がどの様にして人間を餌にするのか、少しずつではあるが理解する様になった。
あんな...恐ろしい所に彼は....兵団の長として向かうのだ。
心配で堪らなかった。....いや、一市民の自分が心配してもどうにかなる事ではないのは分かっているが....
そこに、呼び鈴の音がした。
「.......え」
日付を少し前に越えた今の時間には不釣り合いな音。
(こんな時間に.....誰?....悪戯....?)
しかし....サラにはひとつ心当たりがあった。
彼が尋ねてくるのはいつだって他宅を訪問するには相応しくない時間だった。
(......いいえ)
胸に芽生えた期待を摘み取る様にゆるく首を振る。もし違った時に落胆するのが怖かったからだ。
(だって....壁外調査は明日よ....?こんな時間にこの屋敷を尋ねてくる程暇な筈は....)
心の中では色々と理屈めいた事を考えるが、それでも期待はゆっくりと確実に体を蝕んで行く。
サラは席を立ち、自室の扉を開けた。
軋む屋根裏からの階段、絨毯がひかれた二階の階段、長い廊下がある一階へと続く階段......。
それ等をすべて下り終え、やや古びた床板の廊下を千々に裂けそうな思いを抱えて歩く。玄関への道が永遠に続く様に思えた。
.......やっと、正面玄関の前に立つ。
それなりに格式高いこの屋敷に据えられた扉はたっぷりと厚みのある木でできた重いものだった。
サラは真鍮でできた金色のノブに手を伸ばす。指先が震えていた。
.......駄目。期待しては駄目。きっと性質の悪い悪戯に違いない....
早く開けて、終わらせてしまおう.....
そこにまたしても呼び鈴が鳴らされる。サラの肩が大きく跳ねた。
「.....さっきから誰....?」
(..........!)
後ろを向くとエミリエが長い廊下の向こうから歩いて来るところであった。
流石の彼女も不審がって起きて来てしまったらしい。
そこで三度目のベルが鳴る。
前に扉、後ろにエミリエに挟まれて逃げる事もできなくなってしまったサラはもうどうにでもなってしまえ、と遂に錠を外して扉を開いた。
........心臓が、止まるかと思った。
「エ、エ......ル、」
名前を呼び終わる前に強い抱擁を受けて何も言えなくなる。柔らかな夜着越しに彼の熱い位の体温を感じた。
よく見るといつもきちんと整えられている髪が乱れて顔に掛かっている。恐らく走ってここまで来たのだろう。
「あのっ、わ、私.....」
回らない頭で必死に言葉を探す。それを阻止する様に自分を抱き締める力は強くなった。
そして、優しく頬を撫でられる。目が合う。
懐かしくて、愛おしい青い瞳がそこにはあった。
彼が笑ってくれたので、サラも堪らなく嬉しくなって笑った。
ゆっくりゆっくりと背の高い彼が自分に目線を合わせてくる。
大袈裟な表現ではなく、サラはこんなに美しい男性を初めて見たと思った。
色の白い、優しい眉の、目の涼しい、引きしめた唇の、やや寂しいのが品がよく、鼻筋が忘れたようにすうと隆い。
長い睫毛も頭髪と同じ金色で目が伏せられるとそれがより美しく見える。
彼の吐息を感じる。頬を撫でていた手が支える様に添えられ、更に後頭部にも大きな掌が回る。
それでも...もう、何も怖くは無かった。
――――――好きな人に、求めてもらえるのがこんなに幸せな事だなんて知らなかった。
本当に、私は.....今、この一瞬の為に生きていたのではと....何度も何度も繰り返しされる行為の中で考えた。
生まれて来て、良かった。辛い事ばかりだった人生の中でも、心からそう思えた。
「........今朝、君からの手紙を読んだ。」
エルヴィンがそっと囁く。未だに手は頬に添えられたままで、顔の距離も呼吸を感じる位に近かった。
「本当はすぐにでも来たかった。だが....何分時期が時期だったからな....」
サラは何も応えない。ただ、耳まで顔の朱色が達しているのが夜の暗さの中でも分かった。
「....すまない。待つと約束をしたんだが....」
エルヴィンは無反応な彼女に対して少々罰が悪そうにするが、それを安心させる様にサラはゆっくりと微笑んだ。
「......会えて、良かったです。一目だけでもお会いしたいと....ずっと、」
少し呆気に取られた様にエルヴィンはサラを見つめる。それから同じ様に柔らかく笑うと、「.....行って来る。」と静かに言った。
「......行ってらっしゃい、エルヴィンさん。」
自分から体を、掌を離す彼をサラは笑顔で送り出す。
「私も、今日は君に会えて良かった。」
「今度は昼にいらして下さい。未だにちゃんとしたお持て成しをできないままなので....」
「ああ、すまない。そうするよ....」
そして彼は去り際にもう一度軽く唇を落とす。サラは目を閉じてそれを受け入れた。
そのままエルヴィンはゆっくりと体の向きを変えて夜の街灯の下へと足を向ける。
サラはその後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
堪らなく寂しい筈なのに何処か心は晴れやかで、それを象徴するかの様に空には銀色の星々が瞬いていた。
「あ.....」
それから扉を閉じて屋敷の中に入ると、固まっているエミリエと目が合う。
「お、お嬢様......」
見られていたという事と先程された行為がフラッシュバックの様に脳内を交差し、サラの頬は一気に赤くなった。
「......ふ、ふん。あの男....本当に堪え性の無い人間なのね....全く...。」
「ごっ、ごめんなさい...!私、お嬢様の前でなんてこと...」
「もう聞きたくないわ!全く玄関先で何やってるの貴方たち!!破廉恥極まりない!!」
「すみません!もう二度としません...!!」
「当たり前よ!....はあ、後押ししたのは自分とは言え複雑だわ....」
エミリエはうんざりとした様子でくるりと向きを変えて自室へと向かう。
「.....明日はこの前みたいに寝坊は許さないわよ。」
そして振り返らずにサラに言った。
「はい...。承知しています。」
「サラ」
「はい....?」
「目が冴えてしまったわ。少し付き合って。」
首だけ動かしてエミリエが後ろを振り返る。
「久しぶりに貴方のお話が聞きたいわ。」
そして綺麗に笑ってみせた。
サラも笑顔でそれに応じ、二人は並んでエミリエの寝室に入っていった。
結局サラがその日部屋を後にしたのは、空が薄白く明るくなってからだった。
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