13告白と眩し過ぎる光
白木でできた扉をノックする。
古い扉なのか角が取れた柔らかい音がした。
次に床板が軋む音が聞こえる。ゆっくりと、引きずる様にその音はこちらに近付いて来た。
『......お嬢様.....。ごめんなさい.....。まだ具合が良く無いので御用は明日お伺いします....。』
........サラだ。
たった数時間ぶりだと言うのにその声を聞いただけでひどく懐かしく感じる。
そうか......。この、薄い白木の板一枚の向こうに、サラが.....
「.......サラ。私だ。」
優しく呼びかける。それと同時に息を呑む音が聞こえた。
......しばらくの無音。
『.......エルヴィンさん、ですか......?』
弱々しく、微かな声が扉の向こうから聞こえる。
名前を読んでもらえただけで胸の内に沁みる様に喜びが広がっていった。
『ごめんなさい......どうか、お引き取り下さい.....。』
しかし次に告げられた言葉にみるみるその喜びは枯渇していく。
「......謝らなくて良い。だから、どうか....この扉を開けてくれ。」
ドアノブに手をかけながら言う。しかし回そうとすると固い感触がした。
......恐らく、内側からサラが押さえているのだろう。
勿論あと少し力を込めれば容易くドアノブを回す事はできる。しかし....それでは駄目だ。
『.....駄目です。私....とても失礼な事をしました.....。会わせる顔なんて....それに、私は....、っ』
息が詰まったのか声が途切れる。扉越しにも彼女の悲しみが伝わってくる様で、酷く辛かった。
「サラ.....。君のお嬢様から話は全て聞かせてもらった。八年前にどんな目に合ったのかも....。」
扉の奥は静まり返っている。まるで向こうに人等いない様な錯覚に一瞬陥った。
しかし....いる。確かにサラが、すぐにでも手が届きそうな場所に....いる。
「サラ....入れてくれ....。」
できる限りゆっくりと静かに....彼女の心に届く様に囁いた。
ドアノブの固い感触がなくなるのを感じる。私はそっと真鍮製のノブを回した。
扉を開けると......呆然とした表情のサラがこちらを見つめていた。
ひたりと視線が合い、名前を呼ぼうと口を開けた瞬間、彼女の眉が寄せられて涙が一筋頬を伝う。
それから堰を切った様にぼろぼろと涕涙すると、立っていられなくなったのか膝から床に崩れ落ちてしまった。
ニスの剥げた床板に爪を立てて泣くその姿が、彼女の受けてきた侮辱の数々がいかに辛いものだったかを痛切に物語っていた。
指先が真っ白になる程の力が込められたその掌を包んでやろうと、彼女の傍に膝をついて手を伸ばす。
しかし.....私の掌がそれに触れる前に、サラの体が大きく震えた。
「........サラ。」
自分の声は驚く程掠れている。先程の痛みが蘇り...また様々なものが胸を過ってひどく苦しかった。
「サラ....。何もしない。何もしないから.....、お願いだから、私を拒否しないでくれ....。」
そう言いながらもう一度サラの掌に触れる。.....今度は、その体が震える事は無かった。
次に空いている方の手で頬に触れる。しとどに流れる涙は私の掌も濡らしていった。
........何もしないと言ったが、その辛く重たい涙に堪らなくなる。だから....そっと腕を回し、彼女を抱き締めた。
私の胸の中でサラは糸が切れた様に脱力している。指先ひとつ動かさない。
ただ、涙だけは....後から後から、その瞳から溢れ続けるのだった。
どの位そうしていただろうか。ゆっくりと体を離し、肩に手を置いて目線を合わすと、サラは視線を逸らす様に床に落とした。
「........すまなかった。」
まず、一番に言わなければいけなかった事を述べる。
サラは唇を噛み、弱く首を左右に振りながらそれに応えてくれた。
「順番を....間違えてしまったんだ。だから、聞いて欲しい。」
ひとつ息を吐く。年甲斐も無く、ひどく自分が緊張しているのが胸の鼓動から理解できた。
「私は君の事が好きなんだ。......愛している。」
弾かれた様に彼女がこちらを見る。そしてしばらく見つめ合った後、また苦しそうに涙を一粒流した。
しかし.....先程とは違う種類の涙だ。それを私の手に乗せられた掌から伝わる熱が教えてくれる。
それからサラはゆっくりと私の胸に顔を寄せた。少し躊躇した後肩に縋り、小さく嗚咽を噛み殺しながら泣く。
.......そう言えば、今の彼女は以前から見たいと願っていた髪を下ろした姿だ。
ランプの光に照らされてより一層色濃く輝く髪の間から覗く白い項を眺めて.....ああ、やはりサラも私と同じ気持ちだったんだ....とぼんやり思う。
それを確信すると、自分の目にも涙が浮かぶのが分かった。
情けないその熱を震える指で瞼を押さえて静めると、自分の胸の中で震える愛しい存在を力の限り抱き締めた。
強ち...リヴァイが言っていた紙の様だという例えは大袈裟では無かったかもしれない。
本当に、紙の様に.....あと少し力を込めれば、すぐにでもくしゃりと潰れてしまいそうな...そんな、儚げな体だ。
ふわりとした清潔なサラの香りを吸い込む。安心させる様に髪を撫で、もう一度「愛している」と囁く。
そうしてやると微かな微かな「ごめ....なさい」と言う声が腕の中から聞こえた。
サラはゆっくりと顔を上げ、私の事を真っ直ぐに見つける。
相変わらず瞳からは涙が溢れ続けていた。ひどく苦しそうに寄せられた眉もそのままである。
口を小さく開いて部屋の空気を一度肺の中に取り込むと、サラは私のシャツをぎゅうと握って、絞り出す様に言葉を零した。
「.......好きです。私も、エルヴィンさんが好きなんです.....」
その言葉に........時が、止まった様な感覚を覚える。
私は再び目頭に熱が集中していくのを感じていた。遂に堪え切れなくなって一筋涙が頬を伝う。
それを拭う事はせず、もう一度サラを強く抱き締めた。
自分からも気持ちを伝えようと必死に言葉を探すが、何も言う事ができない。
愛した人に愛してもらえる事がこんなにも幸せなものだとは思わなかった。
......本当に、いつからなのだろう。いつからここまで強い想いになっていったのだろう。
それは分からないが....今は、彼女がここに存在しているだけで周りを取り囲んでいた深い闇が次々と晴れて行く様な気分だった。
「.......待とう。」
そっと体を離して囁く。サラは涙を流し尽くして脱力しているのかぼんやりとした表情でこちらを見上げた。
「君の傷が癒えるまで....私はいくらでも待とう。
サラが私を愛していると言ってくれただけで、充分報われた気がするからな.....」
サラの眉が下がり、瞳に微かな光が灯る。それは私が待ち焦がれていた光だった。
「だから....いつもの様に笑ってくれないか」
そう言うと、サラがゆっくりと手を伸ばして私の頬に触れる。
しばらく何をするで無く優しくそこを撫でた後、小さな声で「....本当に、ありがとう...ございます。」と呟いた。
目の縁に新しい涙が堪っている。しかしそれを零す事はせず、サラは....微かに、しかしとても穏やかに....優しく笑ってみせた。
部屋の奥でちりちりと燃えているランプの周りには白い小さな蛾が飛んでいる。光を受けて燃える様な色になったそれは美しかった。
やがて蛾は、僅かに開け放してあった窓から青色の深夜へ向かって飛び去っていってしまった。
*
.......朝になった。
サラはぼんやりする頭でベッドの上に起き上がる。
そして.....昨日の事を思い出して思わず赤面した。顔を覆って踞るその耳も赤く色付いている。
......私、なんて事を.....。いいえ....それ以上に、私は....エルヴィンさんと......。
昨晩された行為を思い出して、更に顔に熱は集中するのだった。
「おはよう。今日は珍しく朝寝坊ね」
軽いノックの後にドアが開き、エミリエが部屋に入って来る。
既に朝の支度を済ましているその姿を見て、サラは弾かれた様に起き上がった。
「ごめんなさい....!すぐに、」
しかしエミリエは手を上げてそれを制する。
「落ち着きなさい。今仕事をしても陶器の残骸が新しく増えるだけよ。」
そう言いながらベッドの傍まで歩き、それに腰掛けてサラと視線の高さを合わせた。
「.....もう、具合は良いの?」
手をそっと重ねながら尋ねる。
サラは目を伏せて弱々しく首を振った。
「私....よく分かりません...。自分が、どうしたら良いのか....。」
立てた膝に顔を埋めながら言う。その耳は未だに色付いていた。
「でも.....好きなんでしょう?」
エミリエは目を伏せて笑う。当然答えは分かっているという様な余裕のある口ぶりだった。
「......好きです。大好きです......」
予想通りの答えが蚊の鳴く様な声で告げられる。
そう.....これだけは嘘偽りの無い本心だった。
昨日の事だって...少し怖かったけれど嬉しかった。
あんなに強く抱き締めてもらったのも初めてで、自分がいかに愛されているかを感じる事ができた....!
ただ....真っ直ぐ過ぎる彼の想いに触れる度に、自分がいかに卑しく汚れた存在かを思い知らされる。
エルヴィンさんは.....私にとっての光なのだろう。
あまりにも眩しく、綺麗で....日陰をずっと歩いて来た私には直視する事も適わなかった。
だが、それでも....どうしても求めて止まない、そんな....優し過ぎる日溜まりの様な.....
「焦らなくても大丈夫よ」
エミリエの声で我に返る。顔を上げてそちらを見ると、朝の光に輪郭を柔らかく照らされた彼女と目が合った。
「貴方たちには時間があるもの。」
細すぎる指がそっと頬をなぞる。しかしサラは未だに不安そうに目を伏せた。
「大丈夫よ。貴方ならきっと正しい答えに辿り着けるわ。」
「はい.....」
「とりあえずひと月後....あの男が帰って来た時に笑顔で迎えてあげなさい。それから二人でゆっくりと考えれば良いのよ。」
「.......ありがとう、ございます。」
「もう....具合は平気ね?」
「.....はい。」
サラの答えを確認するとエミリエは立ち上がり。窓に近付いてそれを開け放す。
さやと朝風が吹き通ると外の植え込みのサンザシがざわ立って、寝惚た鳥が一羽飛出した。
星はとうに見えなくなり、青い空にはやわらかい羽毛を散らしたような雲が一杯に棚引いている。
静謐なその空気を肺に取り込み、エミリエは体が羽の様に軽くなるのを感じた。
こんなに気分が良いのはいつ以来だろうか.....。
「サラ」
そして大切な、たった一人の友人の名を呼ぶ。
首だけ動かしてようやくベッドから起き上がってきた彼女を見つめた。昨晩泣きはらした所為か目元が赤い。
「紅茶を淹れて頂戴。あれがないと朝が始まらないのよ」
そう言って笑えば、サラもまた「畏まりました、お嬢様」といつもの柔らかい笑顔で応えるのだった。
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