10来観と優しい時間
「......大きい......。」
サラは石造りの白い建物を見上げながら呟いた。
「博物館って近くで見るとこんなに大きかったんですね....。
すぐ傍に住んでいたのに一度も来た事は無かったから知りませんでした。」
そして隣にいたエルヴィンに話しかける。
その楽しげな表情からは早く中に入りたくてたまらないというのがよく伝わって来た。
「......エルヴィンさん?」
しかしエルヴィンはその言葉が聞こえていないのか、ただサラをぼんやりと見下ろすだけである。
「どうしました?」
「いや....いつもと違うな、と思っただけで...」
エルヴィンはようやく彼女の声に反応すると、曖昧に微笑んでみせた。
「あ、この服ですか?いつもの服は仕事着ですから...今日は別のにしようと思ったんですよ」
変ですか?とサラは少し不安げに襟元に結ばれたリボンに触る。以前見たマフラーよりも少し深い赤色だった。
エルヴィンは慌てて彼女の両肩を掴んで「そんな事は無い....!」と否定する。
突然の事にサラは少し驚いて目を見開いた。どうもいつもの冷静な彼と様子が違う。
しばらく二人は見つめ合うが、やがてサラがへにゃりと表情を崩して「なら良かったです」と言った。
その様を見てエルヴィンは盛大に息を吐いて脱力する。
駄目だ。これは駄目だ......。
こんな事は.....
.....だが、
可愛い......。
彼女の肩から手をそろりと離して今度は周りの空気を吸い込む。いくらか体の奥から湧き上がった熱が収まるのを感じた。
そしてサラの手を取ってゆっくり歩き出す。
手を繋がれた彼女は少し照れながらも嬉しそうに従った。もうすっかり行為に慣れた様である。
楽しい。
サラといると心から楽しいと思える。
笑ってくれるだけで胸の内には沢山の幸せで満ち足りる。
どうかいつまでもその笑顔が絶えない様に願わずにはいられない。そう、できる事なら私の隣で.....
*
外の賑やかさと打って変わって静かな館内では人の気配は無く、二人の足音だけが長い廊下に響いていた。
「.....こんなに大きい博物館なのに人が全然いないんですね。平日だからでしょうか」
「いや、いつもこんなものだ。国の管理下に置かれていて潰れる心配は無いから集客にそこまで熱心では無いのだろう。」
「そうですか勿体ないですねえ。エルヴィンさんはよくここにいらっしゃるんですか?」
「あぁ。時間が空いた時は大抵ここにいる。」
「お好きなんですか?博物館。」
「いや....そういう訳ではない。」
ガラスケースの中に陳列された古い型の立体起動装置を眺めながらエルヴィンは答えた。
「では何故ここに...?」
その返答にサラは頭上に疑問符を浮かべる。
「.....人が、いない事が気に入っている。
私の周りには常に人がいるからな....。人間の善意にも悪意にも沢山触れる。
自分を取り巻く時間の流れもひどく早い。そういう事に少し疲れる時も、無くは無いんだ....」
「そうですか....」
サラもエルヴィンに倣って立体起動装置を見つめながら応えた。
「あぁ、すまない。つまらない事を話してしまったね」
ガラスケースからサラの横顔に視線を移しながらエルヴィンは自嘲するように言う。
「そんな事無いですよ。大事な事だと思います...」
彼女は未だ古びた装置を見つめたまま淡く微笑んだ。
エルヴィンもそれに釣られる様に笑みを穏やかなものにして、再びガラスケースに視線を戻す。
幾度となく見て来たその展示物にも、何故か今日は初めて目にする様な瑞々しい感動があった。
―――――
「鹿って意外と大きいんですねえ。」
剥製をしげしげと眺めながらサラが言う。
「壁外で見かける鹿の中には体長が2、3m程の物もいる。突然飛び出して来て馬に衝突するので中々厄介だ。」
「壁外に鹿がいるんですか!動物は巨人に食べられてしまっているとばかり思っていました」
「巨人はどういう訳か人間にしか興味を示さない。野生動物は呑気に辺りを闊歩しているよ」
「そうなんですか....。それなら私も一度位は壁の外に出てその大きな鹿を見てみたいですねえ....」
「やめてくれ。君が壁外に出たら五秒と待たず巨人の胃袋の中だ。」
「ごっ......せめて五分にして下さいよ....。」
「いや、五秒だ。」
「............。何だか最近少し意地悪になりましたね、エルヴィンさん」
「そんな事はないさ」
やや不満げにこちらを眺めるサラの髪をゆっくりと撫でてエルヴィンは微笑む。
「少し.....楽しいだけだよ、サラ。」
「楽しまないで下さいよ.....。まぁ確かに仰る通りです。私は馬にも乗れませんから....」
「乗りたいのかい、馬に」
サラの反応が楽しいのかエルヴィンは手を髪から移動させて包み込む様に頬に触れた。
「そうですね.....乗れる自信はあまり無いですが、乗れたらきっと楽しいでしょうね。」
やがてサラも自分の頬に触れる彼の掌にそっと手を重ねて笑う。
「今度乗せてあげよう。一緒に乗ればきっと大丈夫だ」
「本当ですか?」
「ただ....君はどう頑張っても落馬しそうだな。もはやそういう星の下に生まれているとしか....」
「そんな事言わないで下さい!本当に落っこっちゃいますから!」
「....だからちゃんと後ろから支えておいてあげないとな。」
彼女の頬から手を離してその深い色の瞳を覗き込んだ。サラもまたエルヴィンの青い瞳を見つめ返す。
どちらともなく二人は小さく笑い合った。
―――――
「ここは御婦人には人気の展示室だ」
エルヴィンに促されてサラはガラスケースの中を覗き込む。
中には赤・青・紫、いろいろの色の宝石が星のように輝き、装飾品の周りを彩っていた。
「あぁ、こういうのは以前勤めていたお屋敷でよく見かけましたね。二人目の奥様は宝石がお好きだったので....」
サラは何でもない様に言う。もっと驚くと思っていたエルヴィンは拍子抜けした。
「......流石、侯爵家は伊達では無いな....」
「そうですね、きっと私が一生働いても手が届かない物なんでしょうね...。」
「.....欲しいのかい?」
「まさか。ここまで沢山宝石がついていると肩が凝っちゃいますよ。」
「それもそうだ」
「それに私にはきっと似合いませんよ」
穏やかに目を細めてガラスケースの中を眺め続けるサラの事を、エルヴィンは飽きる事なく見つめた。
正直、宝石よりも彼女の方が興味深い存在だ。
視線に気付いたサラが照れくさそうにこちらを向くまであと少し...
―――――
「少し休もうか?」
広い館内をもう随分長い事歩いている。エルヴィンはサラを気遣う様に尋ねた。
しかし彼女は首を振って「大丈夫です」と答え、エルヴィンの手を引いて次の展示室へと足を進める。
心から幸せそうに笑うサラの様子を眺めていると胸の奥がひどく苦しくなった。
.....そして、自分は今日この日の為に生きて来たのかと....そんな事を真剣に考えてしまうのだった。
―――――
日もやや西に傾き、館内にはオレンジの光が差し込んで来た。
会話を交わしながらゆっくりと歩いていた二人は仄暗くなった階段を降りて再び一階に辿り着く。
そこで横合からガラス窓へ照々と当たる日が青、黄、赤等様々な色となって片頬へそっと射したので、サラはぱちぱちと瞬いてその方へ顔を向けた。
「........わあ」
ステンドグラスが嵌った大きな窓を見上げて彼女は小さく感嘆の声を上げる。
それからエルヴィンに向かって嬉しそうに微笑んだ。
「綺麗ですね.....」
深く感動した様に色の着いた光に手をかざす様子から察するに、どうやら彼女は宝石よりもこちらの方が好みらしい。
そっと大きな窓へと近付くサラにエルヴィンは「うっかり割らない様に気をつけて」と小さく笑いながら言う。
「流石に割りませんよ...!もう今日は何かが割れる音は聞きたくありません....」
「.....また割ったのか....皿を。君もつくづく何というか.....うん....」
「そんな目で見ないで下さいよ...。
本当、嫌になっちゃいます...。私、そそっかしいから何しても駄目で.....」
先程の淑やかな微笑みは消え失せ、しょんぼりとした表情になる彼女の隣に並ぶ様にエルヴィンも歩を進めた。
色ガラスを通して湖の底に似た真っ青な光と琥珀が溶けた様な山吹色が混ざり合い、七色になって彼の顔に影を落とす。
「ステンドグラスに使用される板ガラスは」
エルヴィンはゆっくりと口を開いた。
「焼成する際に気泡や塵を含ませてあえてその表面に歪みやひび割れを生じさせるそうだ。」
サラは黙ってそれに耳を傾ける。
「何故ならその歪みが光を屈折させて工業用の滑らかなガラスよりも光の色を美しく見せるからだ。」
「そうなんですか....」
感心した様な声がサラの口から漏れた。
「まぁ、何が言いたいかと言うと.....歪みやひび等....短所があった方が味わいがあって良いという事だ。ガラスも人間も。」
エルヴィンはそう言いながら彼女の頭をぽんと軽く撫でる。
少し困った様に笑いながらサラは「.....ありがとうございます。」と答えた。
「今のままが一番良い。」
その情けない笑顔を愛しく感じ、両手で頬を包み込んでこちらを向かす。
彼から注がれる優しい視線から目を逸らす様にサラは瞼を伏せた。
「.....そんな事を言って下さる人は初めてですよ....」
柔らかく笑いながら彼女は頬を染める。
エルヴィンはゆっくりとその顔の近くまで目線を下ろし、こつりと額を合わせた。
「.....どうかそのままでいてくれ、サラ....」
小さな声で囁いて目を閉じる。
直前に目に飛び込んで来たサラの白いシャツの胸元の上に落とされた虹色の光を思い出しながらそうしていると、瞼の裏に純白の花嫁衣装を着た彼女がステンドグラスの光彩の中幸せそうに笑っている姿が浮かんだ。
.......そんな日が、来るのだろうか。
だが....どんなに彼女を愛しく思っても、団長の職に就いている限りはサラを幸せにしてやる事はできない。
勤めを終えるのは引退を余儀なくされる年齢に達した時か....それとも....
それでもなお、一緒にいたいと強く願ってしまうのだ。これだけはどうしても諦め切れる事ではない.....。
「今日は....とても楽しかったです。」
額を離すと、まだ頬に赤さが残る彼女が花の咲いた様に笑う。
この笑顔の為なら何でもできると思える程、暖かでひどく優しい....そんな笑みだった。
「それは良かった」
「初めて見るものばかりで....世の中は私が知らないもので一杯なんですね。
それが分かっただけで世界がこんなにも素敵だと思えてしまうなんて何だかびっくりです。」
サラはもう一度ステンドグラスを見上げた。深い色の瞳には幾つもの光の粒が瞬いている。
「きっと.....君がそうだから世界もそうなんだろうな....」
エルヴィンはぽつりと零した。
そして少し寂しげに笑ってサラの事を見下ろす。
「いつか君の目から見た世界を見てみたいものだ」
サラはその笑顔を見てひどく胸が切なくなる。思わずその大きな掌に触れれば強い力で握り返された。
二人は少しの間、ただ無言でその場に佇む。
やがて日の光は一層激しく燃え上がって七色の光の雨を辺りに降らした。そして緩やかに地平に溶けて沈んで行く。
エルヴィンとサラがようやく博物館を後にしたのは、辺りが夜の帳にすっかり包まれた後であった。
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