11拒絶と白い髪留め
「サラ」
街灯がオレンジ色の光を落とす川沿いの道を歩いていると、エルヴィンが立ち止まって名前を呼ぶ。
サラもそれに合わせて足を止めた。
「何ですか?」
自分よりも高い位置にある青い瞳を見上げれば彼は曖昧に笑って目を伏せる。
「もうすぐ....我々調査兵団は56回目となる壁外調査を行うのだが....恐らく、兵団内はそれに向けて繁劇を極める事になるだろう.....。」
彼が何を言わんとしているかを理解したのか、サラはゆっくりと自分の爪先に視線を落とした。
「残念な事だが....しばらく、君とも会えなくなる。」
「そうですか....」
彼女は少し寂しそうに笑う。
「...たったひと月程の事だ、また会いに来る。....必ず。」
安心させる様にその頼りない肩に両手を乗せた。薄い春のコートの下に彼女の体温をじんわりと感じる。
「......お会いした当初はひと月お会いできない事もよくあったのに....何だか今は寂しく感じてしまいますね。
エルヴィンさんはお忙しい身だというのは分かっているんですが.....。嫌ですね、私...どんどん我が儘になっちゃって....」
そう言うとサラは再び顔を上げてじっと瞳を見つめて来た。そして、柔らかく笑う。
「でも、待っています。私はいつでもあのお屋敷にいますから....また、必ず会いに来て下さいね。」
一迅の風が拭いて彼女の前髪を揺らす。それは街灯の光に反射してきらきらと光った。睫毛もまた同じ様に光っている。
ふと、エルヴィンは彼女を抱きすくめたい衝動に駆られたが、息をひとつ吐いてそれを思い留まった。
何も言わずに肩から掌を離し、そのままサラの手を引いて歩き出す。
足下の橋下では何とも言いようのない優しい水音がしていた。
暗い河の流れ、街の灯り、人々の話し声、左手の先にある温もり.....それらが皆一つの平和な調和を保ってなごやかに物柔かく自分の心を愛撫して行く。
橋を渡り切り、様々な店が並ぶ繁華街に出た所でエルヴィンはふと「何か買って行こう」と言った。
「.....何をですか?」
「何でも良い。今日の記念だ。欲しいものはあるかな」
「そんな...良いですよ。今日、こんなに長い時間一緒に過ごせただけで充分ですから」
本当に充分なのだろう。幸せそうにサラはこちらを見上げる。
「いや、買わせて欲しい。」
しかしエルヴィンは譲らなかった。
「ひと月も会えなくて寂しいのは君だけでは無いんだ。君に忘れられてしまわないか不安にもなる。
だから...それを見て少しでも私を思い出してくれる様な、そんなものが欲しい。」
「忘れませんよ、大丈夫です。」
「いや....君はそこまで物覚えが良いとは思えないし....」
「ひどいですねえ.....。最近本当に意地悪ですよ、エルヴィンさん」
「嫌われたかな」
「まさか」
眉を下げて笑う彼女の髪をエルヴィンはそっと梳く。それから何かを思案する様に黙り込んだ。
「......髪留めを買おう」
やがてゆっくりと彼は口を開く。
「髪留めですか.....」
サラはそれを反復して言った。
「以前から君の髪はとても美しいと思っていた。きっと似合うものがあるだろう」
「そうですか?私の地味な髪よりエルヴィンさんみたいな綺麗な色の髪の方がずっと素敵ですよ?」
前髪を少し弄りながら彼女は不思議そうにする。
「.....髪の色を褒められたのは初めてだな」
「はい....!初めて見た時から、お日様みたいなあったかい色だなあって思ってました。
私、自分がこんなのだから....ブロンドの方には昔から憧れていたんです。」
「お互い無い物ねだりなのかもしれないな....」
「そうですねえ。でも、エルヴィンさんが良いと仰って下さるならこの色で良かったんでしょうね...。」
ありがとうございます、と言うサラの笑顔はほんのりと赤く色付いていた。
それから二人で数軒程の店を周り、最後に訪れた小さな店で控えめに白い花で飾られた髪留めを購入した。
サラは何度もお礼を言い、「私、男の方に何か買って頂くなんて初めてです....」と深く感動した様に小さな包みを胸に抱くのだった。
「ここまでで結構ですよエルヴィンさん。あとは一人で帰れます。」
いつも二人で並んで腰掛ける、通りに据えられたベンチの前でサラが言う。
日が落ちて店も全て閉まり、辺りは閑散としていた。
.......エルヴィンはまだ彼女と離れたくなかった。
ひと月は長い。更に....二度と会えなくなる可能性も考えるとどうしようもなく胸の内がざわつくのだった。
以前は....死ぬ事など恐れてはいなかった。
自分の変わりはいる。死ぬ事も務めの一部に過ぎないと思っていた。
この骨を壁外に埋める覚悟をして調査兵団への道を選んだ筈だ。
だが今は、サラと出会い....その存在に触れてしまった今は、どうしても生きていたいと思ってしまう....。
私たちの関係はまだ始まってすらいない。これからもっと沢山の時間を彼女と共に過ごして行きたい。
葛藤は勿論ある。自分の職務と彼女への想い、どちらを優先させるのか。また、サラを戦いの中に身を置く自分にこれ以上関わらせていいのか。
だが....それ以上に日に日に増して行く情念はどうしようもならず、髪留めなどというその場凌ぎの手段を使ってでも彼女の気持ちを繋ぎ止めたいと思ってしまう。
やはり...紳士的な友人でいるのはもう限界なのだろうか。
......サラ。愛しい愛しい.....私だけの、サラ....。
「........サラ」
エルヴィンの呼びかけにサラは微笑んで応じる。
「髪留めを、つけてあげよう....。」
そう言って彼女の手を引いて木のベンチに座る様に促した。
サラは大人しくそれに従い、エルヴィンもまた隣に腰掛ける。
彼女の手から茶色い紙の袋を受け取り、中から華奢な白い髪留めを取り出した。
やはりこの色は正解だった。きっとサラの髪によく映える。
そっと片手を彼女の肩にかけ、反対の手で髪留めを濃い艶がある髪の流れに沿う様に差し込んだ。
落ちない様にきちんと固定されたか確認した後、ふと視線を横にずらすとサラと顔の距離が想像以上に近くて驚く。
あぁ.....だがやはり、よく似合う。
そして、彼女が美しいのは髪だけでは無い事に今更ながら気付いた。
長い睫毛の下に輝く暗緑色の大きな瞳も、少し下がった眉の品の良さも、すっきりとした鼻筋も、柔らかな頬も、薄紅の優しい色をした唇も。
エルヴィンは彼女の髪から頬へと掌を移動させ、少しの間その顔をじっと眺めていた。
それから小さく息を吐くと、ごく当たり前の事の様にその柔らかな唇に口付けた。
サラの肩が震え、その身が強張るのを感じたので安心させる様に髪を撫でてやる。
ゆっくりと唇を食めば逃げる様に彼女は体を退こうとした。
それをさせない様にもう片方の手を背中に周して逆にこちらへと引き寄せる。
サラの白い指が自分の服をぎゅうと掴んで来るのを感じた。
髪を撫でていた手を後頭部へと回して更に深く口付ける。
徐々に行為は激しくなり、きつく彼女を抱き締めてその唇を貪り続けた。
微かに震え続ける華奢な体が堪らなく愛しく、歯止めも自制も全く効かずに求めてしまう。
やがてエルヴィンはそっとサラから唇を離した。生々しい銀色の糸がその間に生じる。
彼女は俯いてしまった為その表情を伺う事はできなかった。
「......サラ。こっちを向いてくれ.....」
吐息の様な掠れた声でそう囁く。
サラは押し黙ってただ膝の上でコートを握りしめていたが、しばらくすると非常にゆっくりとした動作でエルヴィンの事を見上げる。
蒼白な顔面だった。.......そして、この表情は何なのだろう。初めて見るものだ。
せわしなく笑ったり慌てたりするいつもの彼女と同一人物とは思えない程その顔色は固く冷い。
何と声をかけていいか分からずにただ見つめていると、一筋の涙がサラの頬を伝っていく。
それは、感極まったとか驚いたとか....そういう類いのものでは断じて無かった。
もっと辛く、悲しい.......そんな、涙だ。
.....エルヴィンは自分が何をしてしまったのかを初めて自覚する。
だが.....てっきり、サラも自分と同じ事を望んでいると....いつもの様に、恥じらいながらも笑ってそれを受け入れてくれるとばかり.....
涙は後から後から彼女の瞳の中に溢れて来る。眉根を寄せ、口元に手を当ててサラは泣き続けた。
「サラ......、すまない.....」
激しい困惑と後悔に見舞われながらエルヴィンは謝罪を述べる。
そして涙を拭ってやろうと頬に手を伸ばした時、乾いた痛みが掌に走った。
「あ.........」
予想外のその感覚にエルヴィンは声を漏らす。
呆然として振り払われた自分の手を見つめた後、再びサラへと視線を落とした。
彼女も自身の行為に驚いているらしい。
目を見張った後に「......ごめん、なさい....こんな事する、つもりじゃ.....」と言って再び涙を流す。
「サラ、本当にすまない....だが、私は「本当に、ごめんなさ...い...」
エルヴィンの言葉を最後まで聞かずサラは立ち上がった。その顔に横から街灯の強いオレンジの光が当たる。
腕を伸ばせば彼女は一歩後ずさる様に後退した。
......ようやく理解する。サラの顔に浮かぶ表情は....怯えだ。
それも顔どころではない。全身で私に対して恐怖を表している。
「サラ.....頼む、私の話を聞いてくれ.....!」
エルヴィンもまた立ち上がってサラとの距離を詰めるがその分彼女は後ろに下がる。
しばし二人の瞳は夜の空気の中で絡まり合った。
だがサラはエルヴィンから目を逸らして首をゆるゆる振り、「ごめんなさい.....」と同じ言葉を小さく呟やく。その間も瞳からは涙が溢れ続けていた。
何と、悲しい目をして....
「本当に、ごめんなさい......!」
もう一度そう言うとサラは彼に背を向けて焼け付く様なオレンジに照らされた通りへと走り出した。
勿論追いかければ容易く捕まえられる速さだろう。だが突然の事にエルヴィンはしばらくの間ぼんやりと立ち尽くしてしまった。
春の夜はまだ冷たい。エルヴィンは急に寒くて堪らなくなった。
そして自分の掌を再び見つめる。拒否されたという事実を思うと胸が締め上げられる様な苦しさだった。
細く長く息を吐いてエルヴィンは石畳の道を歩き出す。自然とその速度は上がっていき、終いには走り出していた。
......このままではいけない。良い筈が無い。
謝罪しなくては。そして許してもらわなければならない。
私は、君を失う訳にはいかない。決して....!
静まり返った夜の通りにはいつまでもエルヴィンの足音が響いていた。
やがてその音も聞こえなくなり、無人となったベンチの上にはするりと冷たい風が滑っていった。
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