12二度目の邂逅と忘れたい記憶
暗い。
夜の街がここまで暗いと思った事が今まであっただろうか。
一寸先しか見えない闇の中、何度も様々なものに足を取られながら走る。
......そうか。.....きっと、彼女は私にとっての光なのだ。
だからそれが隠れてしまえば歩む道はこんなにも暗くなる。
普段体力作りを怠っているつもりは無いのに、酸素を取り込もうと呼吸する度に肺がひゅうと痛んだ。
心には後悔と不安が渦巻き、体の内側からは麻痺した様なひどく不快な熱が湧き上がる。
だが足を止める事はできなかった。走り続けるのを止めてしまえば先程の事を思い出してしまう。
.......拒否されて行き場を無くした想いの存在を、思い出してしまうからだ。
だが.....何よりも一番辛かったのは、サラを泣かせてしまった事だった。
その泣き顔はいくら考えない様にしても克明に脳裏に焼き付けられ、いつもの柔らかい笑顔と交差して胸の内を黒々と塗りつぶしていく。
ふいに目頭がじんと滲むのを感じた。この感覚は何年ぶりだろうか。
あんなに悲しそうに泣くとは知らなかった。いつだって笑っていてくれると....そう、根拠もなく信じていた。
その笑顔を奪ったのが自分だと言う事が悔しくて堪らない。
地団駄を踏まないばかりの焦燥感が体を蝕み、自身に対して怒りを通り越した嫌悪すら感じる。
......ようやく....見えて来た。
まるで隠れる様にひっそりと建っている古びた屋敷が。.....サラが....私の、好きな人が暮らす屋敷が....。
玄関前に立ち、ようやく呼吸を整える事ができた。春先の冷たい夜だと言うのに体は燃える様に熱く、喉は痛く焼け付いている。
髪も乱れ、ばさりと顔に掛かるのがひどく鬱陶しかった。だが.....そんな事を気にしている余裕は今は無い。
既に時計は人の....しかも女性の家を尋ねるには非常識な時間を指していたが、戸惑う事無く呼び鈴を鳴らす。
その音は静まり返る建物に空虚に響いた。
少しの間を置いて、怪訝な顔で扉を開けたのは....使用人のサラでは無く.....この屋敷の主だった。
「サラは.....!」
そう言いながらエミリエの肩を掴むと非常に迷惑そうな顔をされて手を払われる。
「.....サラなら.....具合が悪いと言って部屋に籠っているわ。貴方、さっきまで一緒じゃ無かったの?一体何が「失礼」
彼女の言葉を最後まで聞かずにその脇を通り過ぎようとする。
屋敷に帰って来ているなら話は早い。今すぐにでも会って話をしなくては......!
「待ちなさい!!」
しかし後ろからエミリエに鋭く呼ばれて立ち止まる。
振り向くと眉間に皺を刻み、腕を組んでこちらを睨みつける彼女と目が合った。
「.......家主の許可も得ずに家に上がり込むなんてどういうつもりかしら」
「あ......」
彼女の射る様な眼差しと尤もな言葉に我に返る。
それと同時にいかに自身が冷静な思考を欠いていたかを自覚し、じわりと顔に熱が集まるのを感じた。
......こうなると取り繕う事はできない。いつもの自分はどこに行ってしまったのだろう。
「......申し訳ない。理由は後ほど説明します。......どうか今はサラと話をさせて下さい.....!」
「駄目よ」
必死の申し出はエミリエに一蹴される。
「しかし....!「落ち着きなさい!!」
ぴしゃりと言われて思わず口を噤んだ。
......女性に、しかも自分よりも年下の人間に叱責を受けるのは中々新鮮だった。
「.......今会っても....きっとお互いの溝を深め合うだけよ。」
彼女は溜め息を吐いて先程私がそうした様に脇を通り抜けていく。
「焦っては駄目よ。夜はまだ長いから安心しなさい」
それから付いて来いという様に私に視線を寄越した。どうやら以前通された応接室に向かっている様である。
「......私で良ければ聞くわ。それからどうするか考えても遅くは無い筈よ。」
今日は紅茶は出せないけれどね....、と言ってエミリエは少しだけ微笑んでみせた。
*
「.......貴方、想像以上に堪え性の無い人間だったのねえ.....」
エミリエが呆れた様にエルヴィンを見つめた。
「.....いや、その.....申し訳ない。」
何とも耳の痛い言葉に謝罪を述べる事しかできない。
「そうね....断りも無しにそう言う事をしたのは貴方の落ち度よ。擁護のしようがないわ。」
「.....ええ、仰る通りです。」
「でも........、.........これは本当ならサラの口から言うべき事なのだけれど.....」
エミリエは逡巡する様に額に手を当てて考え込む。それからゆっくりとエルヴィンの事を再び見つめた。
「.....あの子の貴方に対する拒絶には理由があるのよ。だからサラを責めないで欲しいし、貴方も傷付く必要は無いわ。」
そう言って顔に掛かった髪を耳にかけるエミリエの袖から覗く手首が随分と....ひやりとする程細い事にエルヴィンは驚く。
......病魔は、確実に彼女の体を蝕み続けているのだ.....
「.......私の体の事と、父との不仲は以前話したわね?」
「ええ....」
確か、子供を産めないと診断された所為で家を追い出されたという......
「本当は出て行くつもりなんてなかったのよ....意地でもあの家に残ってやるつもりだったわ。
どんな酷い仕打ち、陰湿な嫌がらせにも決して屈しなかった。」
エミリエは壁にかかっている森林を描いた絵画を眺めながら言う。夜の森だ。月がひとつ浮かんでいる。
「でもある夜....サラが突然姿を消したのよ....。
....今まで私への断り無しにどこかに行くなんて一度も無かったからおかしいと思って....でも誰もが知らないと言うし.....
私は少しの不安を覚えながらもその日はとりあえず眠る事にしたわ.....。」
はあ、とそこでエミリエはひとつ息を吐いた。伏せられた瞼が微かに震えている。
「翌朝、私は庭の茂みに打ち捨てられた様に倒れているサラを発見して....
何故か裸足で、髪がほつれて服も裂けた傷だらけの酷い状態だった.....そして彼女はたった一言、『死なせて下さい』と....っ
私は確信したわ。.....父が、父が手を回して....サラの人間としての尊厳を踏みにじらせたに違いない。間接的な行為の方が私に応えるからと....。
本当に非道い人....。もうあんな所にサラを置いておく事はできないもの、望み通り出て行く事にしたわ...!二度と戻るつもりも無い....!!」
彼女は震えながら静かに激昂する。その目の縁は涙で濡れていた。
悲しい...いや、悔しいのだ。
エミリエはとてつもなく怒っている。他でも無い自分自身に。大切な存在を傷付ける原因となった侯爵家の令嬢に。
......やりきれない。エルヴィンの胸は重たく痛んだ。
彼女が、彼女たちが何をしたと言うのだろう。
いつだってそうなのだ....。熾烈で汚れた権力と金を巡る争いの犠牲者は、最も弱く発言すら許されない....この二人の様な悲しい存在だ。
「それからよ....あの子が男をひどく恐れる様になったのは。
今は何ともない風に見えるけれど、それこそ事件直後は話す事は愚か目を合わす事すらままならなかった....。」
両手を膝の上で組みながらエミリエはもう一度はあ、と息を吐く。ひどく疲れている様だ。
「.......だから、きっと貴方の行為の中に男性を強く感じてしまって戸惑っているのよ....。
今まではそこまで意識していなかったみたいだから尚更ね....。」
.....意識されていなかったのか。
「でもね....私は貴方と....あの、男嫌いのサラが友人になったと聞いた時....酷く驚いたけれど、チャンスだとも思ったのよ。」
エミリエはようやく寄せられた眉を緩める。そして肘掛けに頬杖を付いてエルヴィンの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「私はね、生まれた時から病気だから....外に出られない事にはもう慣れているし、出ようとも思わないわ。けれど....あの子は違う。健康な、普通の女性....。
そんなサラに一生私の世話をさせて、この狭い屋敷に閉じ込めておくのは.....可哀想すぎるわ。」
彼女の瞳が穏やかに細められる。それは何かを夢見ている様に揺らめいていた。
「ねえエルヴィンさん。あの子は怯えているだけだわ。だから許してあげて。
......それで、私の話を聞いても尚サラの事を好きでいてくれるなら.....どうか教えてあげて頂戴。
外の世界の広い景色と、人を愛して結ばれる事の素晴らしさを。」
淡く微笑みながらそう言ったエミリエの視線は切ない熱を帯びていた。
しばらく二人は見つめ合う。時計が日付を越えた事を知らせたが、それは互いの耳に届く事はなかった。
........先に動いたのはエルヴィンだった。深緑の皮を張られた椅子から立ち上がり、エミリエに軽く一礼して歩き出す。
「......サラの部屋は二階の奥の階段を更に上がった屋根裏の部屋よ。鍵は付いていないわ。」
その後ろからエミリエが声をかけた。振り向かずに階段の方へ真っ直ぐに進んでいくエルヴィンを見て、彼女は眉を下げて笑う。
そして.....誰もいなくなった応接室で、一人静かに涙を流したのだった。
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