少しの熱と少しの不安 下

「なんです。」


グレイスは………扉の傍で立ち尽くしている細長いシルエットに対して、その方を見もせずに尋ねた。

ベッドの中で、彼女の瞼は下ろされたままである。発熱している所為か、頬もいつもより赤い。


「いや………昼飯。食べるかと思ってよ。」

「そうですか……、ありがとうございます。そこに置いておいて下さいな。」


ようやく彼女はうっすらと瞳を開けて、ジャンのことを見た。

露になった山梔子色の瞳が、真っ直ぐに彼の姿を捕える。そうして、なんだか優しそうにそれは細められた。


「なに……泣きそうな顔してるんですか。」


グレイスが身体を起こそうとするので、ジャンは急いでそのままで良い、というように手振りで示した。

彼女はそれに従い、起こしかけた身体を再びベッドへと沈める。


その傍の机に持ってきた昼食を置き、ジャンはグレイスを見下ろした。

応えて、彼女も見上げて来る。無言で近くの椅子を示されるので、座った。二人はしばらくの間、お互いのことをただ眺めていた。


「嫌なことでもあったんですか。」


ねえ、とグレイスは手を伸ばしてジャンの頭髪へと触れる。しばらく、ジャンは撫でられるままにしていた。

……………ふと、昔を思い出した。彼女とまだ身長があまり変わらなかった頃。ひとつしか年が違わない癖に、グレイスはよく年上ぶってジャンの頭を撫でていた。


「それともなんです。また……私が死ぬかと思って、不安がってるんですか。」


グレイスは笑っていた。いつも、なにやら小難しそうな顔しかしない癖に…こういう風に、不意打ちのように年相応で無邪気な表情を見せるのが…本当にずるい。と思って、ジャンは自身の頭髪に触れていたその指先を掴んだ。

彼女は少し驚いたようにしていたが、尚も笑っていた。



「…………悪いかよ。」

「悪いですよ。そんなに私が死ぬのが不安なら、こんなとこに連れてこなきゃ良かったんです。実家よりもこっちにいた方がよっぽど死のリスクがあります。」

「それだとオレがグレイスに会えなくなるだろうが………」

「あら我が儘ですねえ。」


ほんと仕様が無い…とグレイスは優しい表情のままで言った。

ジャンは項垂れて、彼女の白い指先を握る力を強くする。弱々しいながら、それに応えてグレイスが握り返してきた。


「なあグレイス………。お前、オレのこと好きだよな。」


確かめるように彼が言うと、グレイスは「自惚れが強いのは相変わらずですね。」と返す。

促すようにジャンが真剣に彼女の瞳を見つめるので、グレイスは観念して小さく「好きですよ」と言った。


「オレもお前が好きだけど………。なんだか、未だにお前がオレを好きって言ってくれることが不思議なんだよ。」

「………………………。」

「その……。なんていうか、オレは…お世辞にもお前に好かれるようなことして無いし………。オレが好きってしつこいから、お前が仕方無く折れてるんじゃないかって……。」

「………………はあ。」

「昔は、お前がオレのこと好きになんないまんまで…オレの一方的なままで終っちまうことが怖かった。でも今も……、……このままで、このまんまで…もし、別れが来たらって考えると不安なんだ。」


グレイスは、なんだか困ったような表情をした。それからゆっくり身体を起こす。ジャンと視線の高さが近くなった。…………少しの逡巡の後、彼女はジャンの首へと両腕を回した。

普段は……絶対にグレイスの方からこんな触れ合いをしてくることは無い。ジャンはひどく戸惑ったが………同時に、どうしようもなく堪らない気持ちになった。

抱き返すと、少し高くなっている彼女の体温が服越しによく分かる。


ああ、と思った。それから、より一層強く抱いてみる。


「貴方がそういう不安を抱いてくれてるとは……。少し意外ですが、嬉しいですよ。」


ジャンのすぐ傍で、グレイスが囁くように言った。いつもより舌足らずで幼い口ぶりである。言葉の端々もなんだか丸くて、柔らかかった。


「でもそれは正直に言えば私の台詞ですよ。貴方昔から性格に似合わず綺麗な顔してるだけあってモテるでしょう。なんで私みたいな優れたところもとくにない人間を想いやってくれるのか、今でも不思議でなりません。」

「…………自分のことよく分かってるな、お前」

「そういうこと言いますか。本当に可愛げない」


少しだけ身体を離して、グレイスはやや渋い顔をしながらジャンを見上げた。その様がなんだかおかしくて、彼は笑ってしまった。


「私だって…………結構長いことジャンが好きだったんですよ。ただなかなか素直になれなかっただけで。それに生半可な気持ちでこんなところまでついて来ません。…………だから、安心すれば良いんです。なんだか……私も安心しましたし。」

「……………は?」

「なに間抜けな顔してるんです。貴方が不安ならもう一回言ってあげましょうか。」


グレイスは再びジャンの胸元に自身を寄せ、その首筋へと温かくなった頬を擦らせた。……………いつもは考えられないような積極的で甘えた彼女の行動に、なんだかジャンはいっぱいいっぱいになる。しばらく、抱き返してやることも忘れてしまうほどに。



「貴方が思う以上に、私はジャンが好きですよ。大好きです。」


だから安心して良いんです。……ありがとう。と続けて、グレイスはジャンの背中をゆっくりと撫でる。

…………様子を見てやるつもりでやってきたのに、気遣われているのは自分のほうだと気が付き、ジャンは些か情けない気持ちになった。

しかしこうされるのが嫌では無かったので、されるままにする。


もう一度、ああ。と思った。その思いのままで「キスしていいか」と尋ねる。グレイスは「風邪が伝染るから駄目ですよ。」とにべもなく答えた。


「…………これを期に、私のこと少しは信用してもらいたいです。分かりました?」

「それ言うなら良い加減、手繋ぐ以上のことさせろよ…………」

「まあジャンったらいやらしいですね。私の寝込みを襲いにきたんですか。」

「違うけどよお………このままだと襲っちまいそうだよ……………。」

「そんなことしたら嫌いになります。私不潔な人間は嫌いです。」

「お前ほんと殺生な女だよ…………」


ジャンはそのままでへなへなとくずおれる。グレイスは弱く笑ってそれを見守った。そうして、自身の腿の上に力なく乗っかってきた彼の頭を撫でてやった。とても安らかな気持ちで。







くそ、と小さく悪態を付きながら、ジャンは教官が板書している黒板を眺めていた。

なにやら小難しい文字がそこに羅列されていたが、それは一向に彼の頭に入って来ない。

こういうとき、身体を動かす訓練ならばまだ悶々としなくて良いだろうに、何故今日に限って午後の課題が全て座学なのだろうか。



(ちくしょー)



心の中で盛大な舌打ちをする。その脳裏には、先ほどのグレイスの言葉だとか表情だとか、体温が過る。抱いたときの柔らかさまで蘇って、正直うんざりとした。



(なんだあいつ…………なんなんだ、あいつ。)



どうにもならず、ジャンは唸り声を上げそうになるのを寸でのところで堪えた。

その様子を、隣に座っていたマルコが訝しげに眺めてくる。



(ちくしょー………。このまま、本当に奴を襲わずにオレはやっていけるんだろうか………?)



………………ジャンの、いつかグレイスが自分の元から去ってしまうのでは無いかという不安は、完全にとはいかないが…先ほどの彼女の発言によりやや払拭された。

しかし、そうして持ち上がってくるのは別の問題である。………それには、度を超えて潔癖なグレイスの性質が大いに関わってくる。



(いや………おかしいだろ。ここまで来て、キスひとつさせてくれねえのはおかしいだろ………!!)



……………確かに、おかしい。周りで付き合っている男女などはとっくに済ましていることである。

だが、グレイスはそれをさせてくれないし、無理にしようと思えば確実に嫌われる。

健全な10代の男子として、ジャンの苦悩はもう少しばかり続いていくようであった。

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