乙女心とワンピース 下
「…………え」
グレイスは、キース・シャーディス教官の高い場所にある禿頭のを見上げながら一言そう零した。
「なんだ、聞こえなかったか。仕事はもうしなくて構わないと言ったんだ。」
代わりが見つかったからな、とキースは自身の数歩後ろで俯いているコニーへと鋭い視線を寄越す。それに合わせて彼の肩は小さく跳ね上がった。
「ご苦労だったな、グレイス。」
そう言って、彼はグレイスへと袋を差し出す。触れて受け取ると、金属独特の固い音がする。……本日までの謝礼だろう。
(でも、ワンピースを買うには数日分足りない……)
今の今まで、グレイスの心の中に芽生えていた小さいながらも幸せな感情はみるみると消失していってしまう。
それでも性質か、彼女は敬礼をひとつ律儀に行う。見届けて、キースは彼女の元から立ち去った。その後をコニーがとぼとぼとついていく。
(…………………。)
ひとつ、溜め息。ブーツの爪先で、地面をちょっとだけ蹴った。
(まあ…………。やっぱり、手が届かないものだったんですよ。)
こうして自分を無理に納得させることに、彼女は慣れてしまっている。母親譲りの悪い癖でもある。もうひとつ溜め息をしてグレイスもその場から立ち去る。歩く度に、少し足りない硬貨がちゃりちゃりと音を立てた。
*
「これ、あげます。」
その日の訓練が終了し、和やかな空気が流れる夕暮れ時である。夕食目当てにいの一番に食堂で待機していたサシャの頭の上に、ぽすんと軽い衝撃。
「グレイス。」
サシャは背後にいた少女の名を呼びながら、頭の上にバランスよく乗せられたものを取り上げてみる。………布袋にこぢんまりと包まれたなにかだ。少し、甘い匂いがするような。
「……………またぶどう糖ですか。」
微妙な表情をする彼女に対してグレイスは、「随分ぶどう糖にトラウマを持たせてしまったようですね……」と些か申し訳なさそうにした。
「安心してください。ぶどう糖じゃありませんよ。」
ちょっとだけ笑いながら、グレイスは隣に腰掛けてきた。袋を開いてみるように促されるまま、サシャはそれを広げてみる。
「食料庫から材料を売ってもらいました。この前のアルバイトで頂いたお給料で。」
中には、綺麗な小麦色に焼けたビスケットがいくつか収まっていた。しげしげと見下ろすサシャを横目に、「貴方にも手伝ってもらいましたからね。お礼です。」とグレイスは続けた。
「いえ…別に。私は懲罰でしたし。」
「でも二人でやったお陰で捗りましたから。私だけ謝礼を頂くのもなんですよね。」
かといって現金ままで渡す行為も生々しくてなんだか嫌だったので、とグレイスはちょっと肩をすくめた。
………そういうもんですかね。と呟いてサシャは早速ビスケットを口に入れた。香ばしい匂いと木の実の少し焦げたような味がした。グレイス本人に似て、なんというか…整った味がする。
それを眺めてグレイスは「ご飯前に食べるとお腹いっぱいになっちゃいませんか」と呆れた声で言った。
「甘いものは別腹ですよ」
「そうですか……。脳みそと同じく胃袋もいつだって空っぽなんですね、貴方」
「ひどいですね、そう言うグレイスは頭に石でもつまってるんじゃないですか」
「なんですって」
サシャの額に軽いしっぺが食らわされる。が、ビスケットの存在により水を得た魚ならぬ糖分を得たサシャと化していた彼女にとって大したダメージにはならなかった。
ふと、サシャが顔をあげるとグレイスとぴたりと目が合う。………彼女はどこか恥ずかしそうに、少しだけはにかんでみせた。
「なんですか」とサシャが尋ねると、グレイスは「いえ……美味しそうに食べてくれるな、と思いまして。」と穏やかに言う。
………どう反応したものかと、サシャは円い瞳をぱちくりと数回瞬かせる。それから、何かに思い当たって「あ」と一声。
「そういえばグレイス…お金貯めてるって言っていましたけれど、目当てのものはもう手に入れたんですか」
今度はグレイスが瞳を瞬かせる番だった。それは彼女にとって予想外の質問だったらしい。
「何やら随分欲しがっているように見えましたし。
あとこれに使ってる小麦。新しい方の、良いものを使ってるなと思ったので…割とお金は余ったのかなと」
「分かるんですか。………流石、食べ物のことになると敏感ですね。」
グレイスはなんだか面白そうに、けれども少しだけ寂しそうに言った。
「サシャ。」
それから彼女は、テーブルに肘をついてサシャの顔を覗き込む。その表情からはもう寂しさの色は消えていた。
「はい……?」
なんだかどぎまぎしてしまいながらサシャは返事をする。
「美味しいですか。」
「え……はい。美味しいですよ。」
唐突な質問に遂吃ってしまう。しかしその応えはグレイスのを喜ばすらしく、彼女は「そうですか」とそっと目を細めた。
「それなら、もう良いんです。」
「え?」
グレイスがなんのことを言っているのかサシャはよく分からず、思わず聞き返す。しかしグレイスは答えない。ただそっとサシャの茶色い髪を撫でるに留まった。
*
とっぷりと日も暮れた頃である。皆がすっかり各々のベッドで眠りに落ちている宿舎へと、グレイスは足を踏み入れた。
今日も今日とてこっそりと、立体起動の夜間訓練に励んでいたのである。最近はジャンもマルコとグレイスの二人に付き合って参加するようになった。やかましいのが増えるのは不本意だったが、正直まんざらでもない気持ちである。
(ん…?)
軽くシャワーを浴びた為濡れている髪を拭き拭き自分のベッドへと向かうと、そこに折り目正しく包装された直方体の物質が鎮座しているのが目に入る。
(んん……?小包…でしょうか。)
包みの上には伝票が張られていた。どうやら郵便物らしい。誰かが置いてくれたのだろう。
首を傾げながらそれを手に取る。……そして、送り主の住所と見覚えのある文字を見て、眠たそうに鼓動していたグレイスの心臓は急に動悸をはやめる。
「え……なに、どうして」
思わず小さな声を漏らしてから、待ちきれず包装を解いていく。…紙を破く音で周りの人間を起こさないよう、慎重な作業ではあったが、目に見えて彼女の気持ちは迫っていた。
現れた箱には、なにか白くて軽そうなものが収まっている。その上には緑色の封筒がいかにも几帳面に置かれていた。取り上げて、そろそろと封を切る。中を走る細い筆跡は、やはりグレイスがよくよく覚えている懐かしいものだった。
グレイス
元気にしていますか。最近は少し涼しくなりましたね。
そちらの生活はどうですか。身体を壊していたりはしませんか。
兵士としての生活は過酷でしょう。凡庸な貴方がやっていけているかどうか気掛かりですが…………、貴方にはジャンさんがいるから少し、安心です。(なんでここでジャンの名前が出てくるんでしょう)
グレイスは思わず眉間に皺を寄せて胸の内で呟いた。……こういうところがかわいくない、と言われる所以だろうと自覚しつつも。
貴方は、意固地なところがありますから。疲れたら、周りに頼りなさい。きっと皆助けてくれます。
ジャンさんに甘えなさい。彼はきっとそれを許してくれる筈です。手紙を持つグレイスの指にきゅっと力がこもった。そんなこと急に言われても、とても困ると思ったのだ。
甘えるのが難しいのなら喜ばせてあげなさい。自分が愛されている女性であることを自覚して………グレイスは、そっと箱の中に手を入れる。柔らかい布地が指先に心地良かった。取り出してみると、優しい匂いがした。大好きな人の香りだった。
難しく考えないで、彼を簡単に喜ばせてあげる方法があります。
貴方はそういうことに疎いけれど。取り上げると、薄いレースが解れて微かに衣擦れの音がする。蜘蛛の巣みたいに丁寧に編み上げられた布地が、青ずんだ夜の中にふわりと広がっていく。
私が、若いときに着ていたものを少し直しました。
着てみなさい?かわいらしい筈ですよ。息を詰めて、グレイスは母からの手紙と白いワンピースを交互に眺めた。
どういう訳か、不思議と視界が霞んでいく。幸せなのかな、と思う。こういうことが幸せなのかな、と。
グレイスはそっと頷いてから優しい人の香りが残る空気の中で、ひとつ呼吸をした。
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