十五・夏は往く 中
……………二人は疲れ果てた状態で、広く葉を広げたケヤキの木陰にへたり込んでいた。
全力でこれだけの距離を、しかも今日のような夏真っ盛りの天候のもとで走る経験は久々である。
ある意味、日頃の訓練よりも応えたかもしれない。
「ジャン………。暑いから、離して下さいよ……………。」
グレイスの弱々しい要求に、ジャンは頑として首を縦に振らなかった。
先程と同じく……いや、それ以上の力で彼女の腕は、しっかりとジャンの掌に捕まえられている。
もう、振りほどくだけの力はグレイスには全く残っていなかった。
「離したらお前……また逃げるだろ。」
息も絶え絶えにジャンは呟く。
「もう……逃げません‥‥‥。
逃げる体力は残っていませんから………。」
グレイスは額から滴り落ちる汗を、空いている手の甲で拭いながら応えた。
品定めをするようにその様を眺めたあとに、ジャンはゆっくりと手を離す。
しばらく二人はそのままでじっと日差しを凌ぎながら、体力が回復するのを待った。
「まったく……………。」
やがてグレイスは緩やかに首を振りながら呟く。
「なんで貴方って人はそう率直なんですか………。昔からずっと。
私みたいな頭の固い女といたって、つまらないだけなのに…………」
「おう、頭が固くてつまらない女だっていう自覚は一応あるんだな。」
「ぶちますよ。」
「…………自分で言ったことじゃねえかよ…………。」
ジャンは不服そうに零しながら、ごろりと草の上に横になった。
その顔には木陰から漏れる光が柔らかく降り注ぎ、少し眩しそうである。
「別に……オレがお前を好きな理由なんていくらでもあると言えばあるし、無いと言えばなんにも無えよ。
それを正直に伝えるのは悪いことじゃないだろ。意地張ったって良いことはひとつもないんだから……」
ジャンは吐き出すようにしながら一口に言う。
グレイスはそれに耳を傾けつつも、改めて正直に想いを伝えられて……どうしようもない恥ずかしさがこみ上げてくる思いだった。
「だからと言って……そんな、何回も言うことじゃないでしょう………。
……………一回言えば、充分です。」
「だってお前がオレのこと好きって言ってくれねえんだもん。」
「だもんじゃありません。第一、好きだって決め付けないで下さいよ。」
「じゃあやっぱり嫌いなのかよ。」
ジャンは寝返りを打って仰向けからグレイスの方へと向き直る。
思わず彼女は言葉に詰まって俯いてしまった。
折角落ち着いて来た心拍数がまた、どんどんと上がっていく思いである。
「なんでそう極端なんですか…………。」
そして、小さな声でやっと言った。
「なあ、グレイス。好きか嫌いかはっきりしろよ。
きちんと答えてくれるまで、オレは延々とお前のことを追っかけまわすぞ。」
グレイスは自らの膝を抱え込んで、下唇をぎゅっと噛んだ。
また逃げてしまおうかとも考えたが、先程逃げないと約束した手前それは出来ない。
……………しばし、考え込む。
いや、考える必要はまるでないのだが、なんと言葉にして良いのかよく分からなかったのだ。
蝉の声は、滝かと思うくらいに途切れずに辺りに響いている。
木陰を縫う日差しは光の雨の如く、輝く木の葉、この炎天の樹の下はあたかも世界から切り離されてしまったようであった。
どれ位時が経過したかは分からなかった。
だが………グレイスはようやく淡く息を吐いて、緊迫した空気を打ち破る。
そして寝転ぶジャンのことをじっと見下ろした。
それから………彼の耳元に唇を寄せて、確かに言った。
いつからかは分からず、でもずっと胸に抱いていた事をはっきりと、その口で言った。
普通に伝えても良かったのだが、なるべく小さな声が良かった。
…………何故なら、とても恥ずかしいから。
グレイスはジャンの耳の傍からそっと顔を上げて、身体を起こした。
相変わらず辺りはひどい暑さで、蝉の声はいよいよ高くなる。
グレイスは緊張と恥ずかしさのあまり、体中の血液が沸騰しているかのような感覚に見舞われた。
きっと顔も、今までで一番に情けなく赤面しているに違いない。
やがてジャンは、静かに瞬きをした。
それから勢いをつけて、がばりと地面から半身を起き上げる。
唐突な彼の行動に、グレイスはびくりと身体を奮わせた。
「………………おい。」
そのままで声をかけられるので、思わず「は、はい。」とかしこまって応えてしまう。
それから、ジャンはグレイスの瞳をじっと覗き込んだ。
何だか居たたまれなくなって…思わず彼女は目を逸らす。
だが、逸らした瞬間にジャンはまったく、何の前触れも迷いもなくグレイスのことを抱き締めた。
当然彼女は突然のことに声をあげて大層驚く。
「ちょっと!!何するんですか!!!貴方変態なんですか!!??」
あんまりな状況に、グレイスは一杯一杯になりながら叫ぶように言った。
「グレイス、なあ………!聞いたぞ、やっと!!……もう一回言ってくれ!!」
しかし、その叫びは体中から喜びを表現しているジャンには伝わらなかったようで、抱き締められる力は更に強くなるばかりだった。
「あ、暑いし……臭いんですよ!!離して下さい!!」
「オレが臭い訳ねえだろこの野郎。………まあ、もう一回言ったら離してやらねえこともない……」
「嫌です!一回しか言いませんからね!!あんまり調子に乗らないで下さい……!!」
言い争いながらもみ合う内、やがて二人は一緒に地面へとダイブするようにもつれ込む。
……………ひどい暑さと、先程からバリバリと体力と気力が削り取られ続けることに限界を迎えたグレイスは、もう抵抗はせずに……そのままくったりとしてしまった。
対してジャンは地面に再び横になった状態のまま、腕の中でようやく大人しくなったグレイスのことをぎゅっと抱き締め直す。
蒸し暑さの中でも、沙椰と風が吹いては短い青草を揺らしていった。
そして……彼は先程言われた言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返し思い出しては、感極まってグレイスを抱く力をあと少し強めるのだった。
[*prev] [next#]