三十五・星の声 結
「……………そうですね。」
僅かな沈黙のあと、グレイスが口を開いた。
そして首だけ動かして、オレと同じように星を見上げる。
「実際、星になることはありませんが………その表現はあながち的外れではないと思いますよ。」
彼女は空いているほうの手をそろりと伸ばして空にかざした。
星が、その不気味なまでに白い指の合間合間で見え隠れしてちらちらと光る。
「夜という時間は……皆屋根の下で雨戸を閉ざして眠るものです。
そして、起きてまた雨戸を開けるとき、すっかり星は消えていて……空には、透明な日光を投げ掛けてくる太陽があるだけですよね。」
グレイスは空中で軽く手を握る仕草をしたあとに腕を下ろした。
ぽすん、と軽やかな音を立てて掌が薄い青色のスカートの生地に着地する。
「だから、人は意外とじっくり星を見て、それについて考えることをしません。
勿論知識としては夜、空に星があることは知っていますが、それがどんなものなのかは……日々の生活に追われて一夜一夜を越えていくうち、だんだんに忘れてしまうんです。」
グレイスは淡々と言葉を続けていく。オレは黙ってそれに耳を傾けた。
「とても近くに………毎晩傍に居るのに、やがてまるで気付かれなくなってしまう。
そんなような、弱々しい存在なんですよ。私たちは。」
「そっか………。」
「でも、時たま夜中に目が覚めて、ふと……星を見てみようかな、少し散歩をしてみようかなって思う人がいます。
今の私たちのように。」
静かな辺りに、彼女の声はよく響いた。………でも、これが聞こえるのはオレだけなのだろう。
「それで本当に久しぶりに星を眺めて思い出すんです。
星ってこういう風に光っていたんだ……、綺麗だなあ……って。」
自分以外の人々は皆窓を閉ざしては眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。
奴らはなにも知らず、覚えていない。この星空も、この闇黒も。そしてひとりの少女の存在を。
オレだけが、ずっとずっと覚えている。
「本当に、時々……一年、五年……なんなら十年に一度でも良いんです。
見上げればすぐそこに星があることを、そしてそれがいつでも自分たちを照らしていることを思ってくれれば…それだけで星は、私たちは幸せで………報われるのだと、」
そこでグレイスは一旦口を噤む。
その長い睫毛の奥では、微かな光が濡れたように宿っていた。
「…………ごめんなさい。何を言ってるのか、よく分からなくなってきました。」
再び口を開いて、仕切り直すように言う。
瞳の奥の小さな光はもう、消えていた。
「いや……少し、分かる気がするよ。」
静かに応えてやれば、グレイスはゆっくりと微笑む。
「そうですか、ありがとうございます。」
彼女は本当に嬉しそうに笑って、礼を言ってくれた。
…………思い返せば、グレイスはいつだって笑顔だった気がする。
辛い記憶はやがて失せ、穏やかな思い出に形を変えていく。
オレの中にあるグレイスと過ごした記憶は、どこを切り取っても幸せな風景ばかりだった。
「でも、死ぬのは怖いことじゃありませんよ。……皆、体験することです。
それが早いか遅いかの差だけですから…………」
グレイスの言葉に、無言で頷く。
それから肩を抱いていた掌を移動させて、髪を撫でた。
…………グレイスの淡い溜め息が聞こえる。
どうやら、彼女は頭を撫でられるのが好きらしい。
だが……こうしていると、本格的父と娘になったような気がして、思わず苦い笑いが漏れた。
「私………ほんとに幸せものです。」
オレの小さな希有にグレイスは気付かないらしく、しみじみとした口調でそう零す。
「…………そうか。」
相槌を打ってやると、グレイスは大きく首を縦に振った。
「だって、夏になればジャンが私のこと…必ず思い出してくれるって、分かっていますから。」
「そうだな……。…………うん。」
「それに私、ずっとずっと夢だったんです。こうやってジャンの一番近くにぴったりといることが。
………きっと、適わないんだろうなあって思っていたから、余計に………。」
グレイスの声を背景に、オレは少し目を伏せた。
そして何かをしみじみと感じ入っては、再び瞼を開く。
「なあグレイス。………やっぱり服、また買いにいこうぜ。この夏の間に………。」
そして身体を僅かに離して向き合う姿勢を取り、言った。
「服じゃなくても良い。
何か欲しいものとか……やりたいことがあったら、何でも言えよ。」
グレイスはオレの薮から棒な発言にちょっと驚いたらしく、数回瞬きを繰り返した。
「出来なかったことや、心残りだったことは………全部オレが適えてやるからさ。
だから………遠慮はするなよ。」
両肩に手を置いて、声を一段明るくしながら呼びかけるようにする。
…………心の中にほんの僅かに浮かび上がった寂寞には、気付かないふりをして。
グレイスは、まだ驚いた表情をしていたが………やがて、表情をくずして微笑む。
星に半分を照らされたその顔は穏やかでとても優しかった。
「それじゃあ………旅行にいきたいです。」
そっと呟いた彼女の髪を、いつからかまた吹き始めた風が揺らしていく。
「旅行…………。」
オレが鸚鵡返すと…グレイスは、はい、と応えた。
「どこでも良いんです。
綺麗な景色を沢山見て、移動時間にちょっとだけお喋りをして。
そして夜にまた……こうやって一緒に散歩ができたら、すごく嬉しいと思いませんか。」
楽しそうに語るグレイスの瞳は子供のようにきらきらとして、とても無邪気な色をしていた。
それを見ていると、こっちまで何となく幸せになってくる。
オレも笑顔になって、ああその通りだ。きっとそうに違いない、と弾んだ声で返した。
…………二人で旅行か。
そういえば一度もしたことはなかった。それは良い。すごく良い提案だと思った。
「ジャンも………。ジャンも、何かして欲しいことがあったら言って下さいね。」
出来ることは限られていますが、なんでもしますよ。というグレイスの持ちかけに、オレは笑ったままで首を横に振った。
それから、まったく自然な動作で彼女を抱き締める。
突然のことにびっくりしたらしいグレイスが小さく声をあげるのが聞こえたが、構わずにもっと強い力で抱いた。
こうしている瞬間が何よりも幸せだった。
今が少しでも長く続くなら、それで良い。心からそう思えた。
だから、「もう、良い。もう良いよ。充分だ。」とその気持ちを精一杯に伝える。
どういう訳かその声は掠れていた。
「もう………お前からは沢山、嫌って程にもらってるから………、」
まったく辛くも苦しくも無い筈なのに胸はひどく痛んで、目尻には微かに涙が滲む気配がする。
困ったことに、年を取るとどうにも涙もろくなってしまうらしい。
「だから、もう良いんだ。」
言葉を繰り返しながら、どうしようもなくなってしまい………ちょっと痛いんじゃないかな、という位にグレイスのか細い身体を抱いてしまった。
やがて、肩口がじわりと湿るのを感覚する。
グレイスはオレの首筋に顔を埋めたままこちらを見る気配は無いが、どうやら彼女もオレと似たような心持ちなのだろう。
服に沁みたグレイスの涙はやはり、とても冷たかった。
けれど、それはあまり気にはならない。
何故なら季節は夏だから。
この位の冷たさならばまるで構わず、グレイスのことを抱き締めていることができる。
だから傍で、もっと近くにいて欲しい。
今オレがお前に望むことと言えば本当に、それくらいだ。
[*prev] [next#]