二十五・告白 下
「嫌だ………………。」
まったく自然に一言、声が漏れた。
さっきよりももっと小さな声だった。けど、もう震えてはいない。
グレイスはそのままオレのことを見つめ返していたが、その表情には少しの困惑が混ざり込む。
短い沈黙。しかしオレたちの手はずっと握り合わさったままだった。
「嫌に…………、決まってるだろ…………。」
もう一度、同じことを繰り返す。…………お互いに微動だにしなかった。
「お前、オレがこの五年間どんな気持ちでいたか、知らないだろ。……………。
自分だけ言い逃げして、その気にさせて…………そんなの、ずるいだろ…………。」
グレイスの掌を離し、代わりに両の頬を包み込むようにしてしっかりと目線を合わせた。五年前のあの時と同じように。
「オレはお前が思ってること、よく分かるよ。いや……やっと分かった。
生きてるとか、死んでるとか……そういうのは関係ない。そんなの、建前だ。」
グレイスは呆然とした表情でこちらを見上げ続けている。
山梔子色の瞳の中に真っ青な空が垂れ込むように映って、綺麗だ。
「もう、オレはきっと絶対お前を忘れることは無いよ。
一生………白髪の爺になってくたばるまで毎日毎時間思い出してやるから………、
だから簡単に、オレから逃げられると思うなよ………。」
掌に少しの力をこめながら、ゆっくりと言った。言い聞かせるように。
グレイスがオレの言葉や気持ちを、きちんと受け止めてくれるように。
「オレはお前が好きだよ。
…………ちゃんと、お前とおんなじように。」
グレイスの瞳が大きく揺れた。それからじわりとまなじりが濡れたように光る。
けれど、それだけだ。涙は決してそこから流れ落ちることはしなかった。
……………泣くのが下手くそなのは、昔から。
ずっと一緒なのに、そういえばオレはグレイスが泣いているところを本当に数えるほどしか見たことがなかった。
そのままの姿勢でじっくりと、色を欠いてしまった彼女の顔を覗き込んだ。
…………改めて見ると、自分の骨張った手とその白い肌では随分と皮膚の濃淡の差がある。
この夏で、自分は少し焼けたのだろうか。対照的な色をした彼女の肌は少しもつれた髪の中でいよいよ透き通るほどに青白くなっていた。
唇の色までもごく、薄い。目立つのは瞳の山梔子色ばかりだ。
けれど…ささやかながらも、滲むような薄紅色は確かにそこにあった。
触れる瞬間に、彼女の瞼が軽く震えてゆっくりと閉じられるのを見た。
その小さな仕草から受け入れてもらえたのが理解できて、とても嬉しかった。
……………もう、何年越しなのだろう。
本当に長い間待たせてしまった。
でも、それでも良かった。
オレはきちんと約束を果たすことが出来たんだ。
……………だから、良かった。本当に……すごく。
ようやく離しながら、「つめて……、」と小さく言って笑う。
当たり前だが、唇も相当冷たかった。
グレイスは俯いてしまったのでその表情はまた伺えなくなってしまったが……彼女の頬から肩の上へと掌を移動して、名前を呼ぶ。
心は空と同じようにすっきりと澄み渡っていた。今なら何でもできるような気すらする。
「なあ………。オレは、お前に本当のことをきちんと伝えたぞ。
だから、お前も本当のことを言え。」
…………な、と優しく促すようにすると、ようやくグレイスはこちらを見上げる。
その表情は、ただ…びっくりとしていた。まるで子供みたいに純粋に驚きを表現している。
見つめ合っていると、グレイスはゆっくりと瞬きをした。
その唇が動くのを、辛抱強く待つ。
辺りの青草が吹き始めた風を受けて、沙椰と鳴るのが聞こえた。
不思議と暑さはもう気にはならなかった。冷たいグレイスの身体にずっと触っている所為だろうか。
どのくらい時が経過したかは分からないが……ようやく彼女は口を開いた。
まるで何かを恐れているような慎重な動作だ。
…………きっと、グレイスはまだ迷っている。
自分がこれから言ってしまうことで、大きく色々なことが変わってしまうのが怖いんだ。
二十年以上に渡る片思いを拗らせた結果だろうか。………仕様が無い奴だ。
でも、オレに出来ることは待つことくらい。
だってオレはもう、自分に出来ることは全部したから。
だから………あとは、グレイスが決めることだ。
「…………………わ、」
グレイスの唇から、ようやく……やっと声が漏れる。
それに黙って耳を傾けた。
「分かりました…………。私も本当のこと、言いますね。」
彼女の声は且つてないほど弱々しかった。
決して聞き逃さないように全身全霊を傾けて、それを聞く。
「…………私、ずっと嫌でした。
貴方が私以外の女の子のことを好きになるのが、その話ばかりするのが。
私が一番傍にいて、一番貴方のこと好きなのに……なんで私じゃないの、って…………。」
まなじりに滲んだように留まり続けていた光が、辺りの真っ白い景色を反射していた。
そして、その瞳の中にはオレがいる。柄にもなく、相当真剣な顔つきをして。
「私……怖かったんです。
口先ではジャンのことを思いやっておきながら………時が過ぎて、私の手が届かないところで貴方が幸せを見つけて、私のことなんか忘れてしまうのが、すごくすごく………。」
分厚い氷壁を少しずつ溶かしていくような、じわりとした声だった。
それは陽炎が揺らめき立つ大気の中に沈むように溶けこんでいく。
「いくら、好きだって言ってくれても……私は所詮死んでいます。
いつか愛想を尽かされて……生きている人の方がやっぱり良いって……見向きもされなくなってしまうのが、本当に、何よりも怖い……。
それなら、そうなる前に、いっそのことって…………。」
涙がようやく一筋、グレイスの頬を伝った。
…………零されたものも、彼女の体温と同じように冷たいのだろうか。
ふと、そんなことが気になった。
「貴方の幸せを望んでいた筈です。嘘じゃない、本当なんです………。何よりも強く。
でも、私は結局その思いのままやり遂げることができなかった。
いつだって自分のことばかり。そのくせに、上手く立ち回ることすらできやしない。……………。
私、自分のそういうところがすごく、すごく嫌いです………!」
グレイスの顔が大きく歪んだ。それを見ているのが辛くて、オレも無意識のうちに自身の唇を噛む。
「私は、やっぱり貴方のことが好きで…………、あ、諦めるなんて……無理だったんです。」
初めて見る泣き方だった。五年前と似ているけれど、違う。
グレイスも、こんなに苦しそうに泣くことがあったのだと、オレは初めて知った。
「ジャン…………。私のこと、忘れないで下さい。」
小さな声で言われる。お願い、と付け加えられて。
「私のこと、好きになって下さい。………私だけを見て欲しいんです。私じゃなきゃ、嫌なんです。
貴方に想われるのは、私じゃないと……………、」
グレイスは、そこで言葉を切った。
いや、何か言ったのかもしれないけれど、それは自分の胸の辺りの衣服にすっかり吸収されてしまって聞こえない。
…………予想はしていたが、その想像以上に身体は小さくて、か細かった。
力一杯に抱き締めると、自分の熱された体温に彼女が溶け出してしまうような感覚がする。
やがて、怯えるようにゆっくりとした動作でオレの身体にも二本の腕がまわってきた。
………少しして強く抱かれるのを感じる。やっぱり、それよりももっと強い力で抱き返した。
グレイスは子供のように大きな声をあげて、泣いていた。
その真上で太陽はいよいよ高く登り、真昼の寂寞を切り裂いては光を投げかけてくる。
しかし辺りは街の喧噪も遠く、人気が無いかのようにひっそり閑としていて、草原の青草が光をちかちかと照り返しているだけだった。
グレイスの涙は、このままいくと乾涸びてしまうのではないかというほどの量で少し心配になったが……今はこれで、良いのだろう。
幼い少女をあやしているような気分になって、落ち着かせるように背中を何回か擦ってやる。
すると、彼女がオレを抱き締めてくる力が痛い程の強さになっていった。
そして背では服が掴まれた感覚がするので、少し苦笑する。
そんなに必死にならなくても、オレはもうどこにも行かねえよ………
嗚咽の合間に、何度も名前を呼ばれた。その度に、何回でも返事をする。
今まで沢山辛い思いや悲しい思いをさせてしまった謝罪もこめて。
…………それから、感謝だ。
でも、やっぱり。……………本当にごめん。
その呟きはグレイスの泣き声と共に、打てば鳴るように澄み切った空に吸い込まれて消えていった。
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