三十五・星の声 上
……………音もなく、ドアが開いた。
時刻は深夜零時を少しまわったところ。
こんな時間に個人の部屋に許可も無く……おまけにノックもなしに入ってくる無礼な部下や仲間は思い当たらない。
ということは、ここにやってきたものはたった一人に絞られる。
作業を中断して顔を上げると、やはりそこには予想通りの人物の姿があった。
ドアを開けたままでそこから動かずに少々心配そうに部屋の中を覗き込んでいる。
……………少しだけ見つめ合ったあとに、手招きをして傍に来るように促すと、ようやくほっとした表情になってこちらにやってくる。
彼女が歩く度に白い夜着の裾が微かに揺れる、衣擦れの音がした。
机の前に腰掛けていたオレの隣までやってきたグレイスに「どうした。」と尋ねると、彼女はまた…少し心配そうにする。
「いえ………。ジャンがいつまで経ってもベッドに戻って来ないので……少し気になってしまって。」
邪魔でしたか?と気遣わしげにされるので、無言で首を振る。
…………それから、なんとなく青白い頬に触ってやった。
グレイスは一瞬驚いたようにするが、やがて照れながら「な、なんでしょうか……。」と聞いてくる。
「いや、なんでもねえよ。」
小さく笑って、手を離した。少しの名残惜しさを感じながら。
グレイスは机の上……オレの手元を覗き込みながら、「仕事ですか。」と呟いた。
「ああ。ちょっと、まどろんでるときに厄介なことを思い出しちまってよ……。」
そう返しながら、再びペンを手に取って作業を始める。
グレイスはその様子を黙って眺めていた。
だが………やがて、ゆっくりと二本の腕をオレの首に回してくる。
大分蒸し暑い夜だったので、冷たい彼女の体温はありがたかった。
瞼をそろりと閉じて、その心地良さに感じ入る。
「あまり………無理はしないで下さいね。」
耳元で囁かれるので小さく頷いた。
…………少し前までは、身体に悪いからという理由で深夜に仕事をしていると咎められたのだが……最近はもう、諦めたらしい。
傍で声をかけるに留まっていた。
グレイスは最後にきゅっと力をこめては腕を離し、一歩後ろに退く。
「コーヒーでも、淹れますか。」
優しく尋ねられるので、「ああ。」と言葉に甘えて頼むことにした。
彼女はこちらに小さく笑いかけて了承を示すと、ゆっくり身体を反転させて元来たドアの方へと戻って行く。
……………兵団内での地位が上がるに比例して、広くなっていく自室。
今の部屋には、簡素ではあるが給湯室がついていた。恐らくグレイスはそこに向かうのだろう。
やはり歩く度に夜着の衣擦れが微かに聞こえて……何故かその音に、心はひどく穏やかになるのだった。
そして来た時と同じように音もなくドアが閉められる。
…………窓の外をなんとはなしに眺めると、星が鳴る音が聞こえるように見事な夜空が広がっていた。
それをしばらく見つめたあとに、ランプの光を少し強くして…オレはまた書類へと視線を落とした。
*
グレイスは、オレの隣に椅子をひとつ移動させてそこに腰掛けると、白いカップに注いだ白湯を大事そうに飲んだ。
両手でカップを包み込んで、その温度を下げようと小さく息を吹きかける様子が艶っぽくて、じっと見つめる。
長い髪が顔にかかって表情を隠してしまっているのが少しもどかしい。
そっと指ですくって耳にかけてやる。
………くすぐったかったらしく、グレイスはおかしそうに笑った。
二人で、少しの間じっとしながら湯気が立つカップの中身を飲んだ。
オレはコーヒーを、グレイスは湧かした水を。
ものを食べるという行為を分かち合うことは出来ないが、グレイスはただひとつ……水だけはオレたちと同じように摂ることができた。
前は当たり前に出来ていたことが、今のグレイスにはとても難しい。
だから同じことをして、それを共有する時間はとても大切だと思う。
そんなことを考えながら、一秒一分と時が過ぎ行くのを感じていた。
やがてグレイスはカップをソーサーに戻すと、コーヒーを淹れるついでに持って来た本を膝の上で広げ始める。
………どうやら、オレに付き合う気でいるらしい。
「休んでて良いんだぞ。」
そう言えば、「折角ジャンが起きているのに、またベッドに戻るなんてなんだか勿体ないですよ。」と少し楽しげな声が返ってくる。
どうやら………考えることは同じらしい。
「静かにしますから、傍にいても良いですか?」
そう尋ねられて、オレに肯定以外の答えがあるだろうか。
頷く代わりに、頭をぽん、と軽く叩いてやった。彼女は嬉しそうに笑う。
青い星の光が差し込んでくる室内で、橙のランプの灯がひとつ。
オレが何かを書き付ける音と、グレイスが本を捲る微かな音がする室内で、静かに時間は過ぎていった。
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