二十五・母 下
「ジャンさん。」
やがて、グレイスの母がオレの名を呼ぶ。
「貴方は……今でも、グレイスが嫌いですか。」
微かな声をした質問に、迷い無く首を振った。
「それは、良かったです………。本当に良かった。」
彼女は心から安堵したように言った。それに合わせて、窓辺の鈴もりん、と嬉しそうな音を静かに奏でる。
「私は母としてあの子に何もしてやれませんでしたが…ここに貴方が来たのも何かの縁でしょう。
せめてあの子が一番好きだった貴方の誤解だけは解いておきたかったのです。」
彼女はそう言ってからカップに口をつけて、また中身を飲む。
上品な仕草だ。………そして、甘い紅茶を本当に美味しそうに飲む人だと思った。
「………………大丈夫、ですよ。」
オレもまたほんのりと甘い紅茶を一口飲んでから、小さく言った。
それに反応して彼女が顔をあげる。
「大丈夫です。グレイスは……オレにちゃんと、全部伝えてくれました。それから、沢山優しくしてくれました。
……………多少まわり道はしましたが、オレはこれでも、彼女の気持ちを受け取ったつもりでいます。」
グレイスの母は目を少しだけ細めた。
無言で、それからそっとした所作で続きを促している。
「オレ……ずっとそれから逃げてばかりで、応える方法もよく分かりませんでした。
でも、やっと伝えられたんです。………自分からも……。」
室内は静かだった。だから、自分の声が変に大きく聞こえる。
子供たちがはしゃいで遊ぶ声が遠くの方でした。如何にものどかな夏の風景がそこにはあるのだろう。
「けれど…………駄目でした。
あいつは………自分は、オレのこと、幸せに出来ないからって。
きっとオレはあの時、ふられてしまったんですね。」
無理に、少しだけ明るい口調で言う。
グレイスの母は何も応えなかったが、彼女と同じ色をした瞳だけは、じっとこちらを眺めていた。
「………………ジャンさん。」
ゆっくりと、彼女は口を開く。
「私は母親として失格するに充分値する人間ですが、それでもあの子の母親です。……少し矛盾していますが。
だから、あの子の考えていることはよく分かるつもりです。」
彼女はどこかおかしそうにした。……真面目に見えて変な冗談が好きなところも、そっくりに思う。
「あの子は……強気なように見えますが、実のところとても弱い人間です。
人一倍寂しがりやで、意気地なしで、不器用で。得意な事と言えば虚勢を張ることばかり。
……………ああ、本当に似たもの母子で、いやになりますね。」
そう言いながら、彼女は笑った。皺がそれに合わせてくしゃりと歪む。
「…………グレイスは、自分に自信がないだけなのです。
いつか自分なんて見向きもされなくなると、忘れられてしまうと………そんなことばかり考えて怖がっている。
まったく、肝心なところでも臆病風に吹かれてしまう悪癖は直っていないようですね………。」
もっとも、それは私の所為なんでしょうが……、と言いながら彼女は少し遠くを眺めた。
きっと何かを思い出して、思い描いている。
「………グレイスは、貴方のことが本当に好きでした。
元より兵士……増して憲兵などという器では到底無い、平凡な子です。けれど私の強い反対を押し切って、貴方について行った。
きっとあの子は幸せだった筈です。他でもない、貴方の傍にいられたことが、何よりも。」
グレイスの母は立ち上がって窓へとゆっくり歩み、閉め切られていた白いカーテンを開いた。
薄暗かった部屋に一筋の光明が差し込む。そして彼女は、良い天気ですね…と小さく呟いた。
「…………ここをもう少し歩いて行くと、大きな楠があるのを覚えていますか。
貴方とグレイスがよく遊んだ場所です。」
窓の外をしばらく眺めた後に、彼女は切り替える様にこちらを振り返り尋ねてきた。
オレは少し考えたあとに、無言で頷く。
「あの場所は、グレイスにとって特別でした。
それを思い返しては、私は時々そこを訪れます。………どういう訳か、会える気がして。」
沙椰、と風が室内に吹き込む。
揺らされたカーテンは、自ら発光しているかのように真っ白だった。
「……………行ってあげて下さい。
もう、この世にあの子が生きた証はどこにもありませんが、それでも貴方になら分かる筈です。」
促されて、オレは立ち上がる。
あの………楠。今はもう、無いのか。
あれが伸び伸びと広げる枝葉の下で、二人座って瑠璃に似た青空の、鼠色に変るまで喋ったあの景色。
それはもう、どこにも見つけられないらしい。
時間が過ぎる度に何かを失ってしまう。仕様が無いとは分かっていても、寂しいことに思えた。
「私は、貴方のことをとても偉いと思います。
…………沢山の辛いことを体験しながらも、調査兵団という困難な道を選んだ。
そして何よりも今日、ここに戻って来てくれた。」
ドアを開けて、オレを外へと導く彼女の髪が少しほつれて、風に吹かれて揺れる。
外からは、室内の空気を切り取るように白い光が差し込んだ。
そしてやはり……眼前には、少しは違ってしまっているけれど、故郷の夏の景色が広がっていた。
川沿いに合歓花の薄紅に咲き、畑には白い鳥が訪れている。林檎は青く固く、桑の芽の萌黄に萌えつつも、どこまでも続きそうな石畳の上に広がる空は蒼く澄んでいた。
「……………ありがとうございます。本当に、その言葉に尽きる思いですよ。」
外を眺めるオレに、穏やかな言葉がかけられる。
そしてそれと共に、握手が交わされた。
……………少し、低い体温をしている。
その温度から、オレはグレイスを思い出す。あの、どうしようもない位冷たい掌を。
そしてそれが懐かしくて悲しくて、ほんの少しだけ、泣きそうになった。
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