二十五・母 上

「砂糖は、十何杯ですか。」



「……………………一杯で結構です。」



「冗談ですよ、流石に十杯以上入れると胸焼けがしてしまいます。」



グレイスの母は少し笑いながら、片方のカップに砂糖を一杯、もう片方に砂糖を三杯入れて前者のほうをオレに渡して来た。



……………穏やかな表情をしている。どうやら、突然来訪したことを迷惑には感じていないようだ。



カップを目の前のテーブルに置かれて「どうも」と礼を述べつつ、オレは彼女の様子を盗み見た。


正面に腰掛けた女性は、真っ直ぐ伸ばした背筋のままカップを自らに少し、引き寄せる。


細く、皺がよって節くれ立った指をしている。

顔には、家にひとりでいると言うのに薄い化粧がほどこされていた。白髪の混ざった頭髪もきちんとまとめられている。

生来、几帳面な性格なのだろう。それが身なりによく現れているように思えた。



「……………で。」


少しして、彼女が静かに声を発する。カップがソーサーにかちゃりと重ねられる音がした。


「今日は、一体なんの御用事でしょうか。」


低くて落ち着いた声だ。……基本的にグレイスは母親に似ているようである。

とは言っても、オレはもう彼女の父親のことを覚えてはいなかったのでどちらに似ているかは比べようがなかったが………



…………持って来た荷物の中から、一冊の本を取り出した。


表紙には、エッチングで描写された繊細な装画がなされている。


深い色をした机に置かれたそれを、眼前の女性はじっと見下ろした。



「………これは、貴方が且つてグレイスに贈ったものです。偶然にも近場の本屋で見つけたのですが……
今は、古くなって表紙の渋紙が剥がれてしまっています。捲って、確かめてください。」


彼女の、薄い瞼が微かに震えたように思えた。


窓に吊るされているらしい魔除けの錫がりん、と鳴る。いくらかそれがひどい暑さを軽減してくれているように感じた。


グレイスの母は本当に緩慢な動作で、この夏の暑さですっかり乾涸びてしまったような腕を伸ばして表紙に触れた。


………ぱらりと黄ばんでしまった渋紙が剥がされて、灰色の台紙が現れる。


そこにはやはり、二十文字にも満たない綴りが刻まれるように書かれていた。……とても綺麗で、丁寧な字だ。何度見てもそんな印象を受ける。



「………オレは、それを見るまで誤解をしていました。貴方とグレイスは冷えきった関係の親子だと。
そして…貴方は今も娘を嫌っていると。事実…グレイスもそう感じていました。
でも…………本当は、違うんですよね………?」



彼女は何も応えなかった。口を結んで、そっとその文字の上を指でなぞっただけだ。表情筋ひとつすら変化させない。



「どうか、それを受け取って下さい。
グレイスはこの本が手元にあった時、心から大事にしていました。
………貴方が持つことが正しいことの筈です。」



言葉を続けると、彼女の瞳の中の光が微かに揺らいだ気持ちがした。……表情の変化は、相変わらず無いけれど。

しかし、その顔面に刻まれている皺からは昔年の苦労だとか心痛だとかが滲んで見えるようだった。


…………少しして、彼女は深い溜め息を吐く。それから、首を緩やかに振った。



「私は………悪い母親でした……。」


やっとの思いで紡がれた声は、先程の人間とは同じと思えないほどに疲れ切っていた。姿も、数十年ほど年老いてしまったように思える。


血管が浮いて枝の様に細い腕の先の掌が、彼女の乾いた唇に当てられた。


瞼がきつく閉じられる。また、りんとした音が鳴った。続いてしゃらしゃらと微かに。

鈴の音は、どこまでも優しくて綺麗だった。



「よかれと………、思ったのです。
この世界は、女がひとりで生きていくには辛過ぎます。私は夫がいなくなってから、いつも自らの力不足で辛い思いをしていました。
だから、あの子には例え片親という不遇な環境でも…他の人間に負けないくらいの知識と素養を身につけて、胸を張って生きられる様になって欲しかった。
………私と同じ思いだけは決してして欲しくなかったのです………。」


彼女はもう一度その文字をなぞった。


蝉の鳴き声が言葉の合間に途切れ途切れに響く。

それに重なる様に、規則正しい時計の音もまた、薄暗い室内にひとつずつ転がっていった。



「でも………その結果がこれです。
こんなことになる位ならば、もっと甘やかしてあげれば良かったんです。
可愛らしい服を着せて、綺麗な本を沢山買って。抱き締めて、何度でも好きだと言ってあげれば良かった……。」



ゆっくりと瞼を開いた彼女の瞳の色はやはり燃えるような山梔子色をしている。


それがこちらを捕えた。……澄んでいて、懐かしい色をしている。


オレもまた、それを真っ直ぐに見つめ返した。



「…………ジャンさん。あの子は貴方のことが好きでした。それは、知っていますね。」



纏められていた彼女の髪が一房、はらりと崩れて顔にかかる。


白が混ざりすっかりぱさついてしまっているが、且つてはこの髪も奴と同じ様に真っ直ぐに美しかったのだろう。


………自然と、そう思えた。



目を伏せて肯定の意を示す。



グレイスの母は、頷いてそれに応えた。



「でも、貴方はあの子のことが嫌いだった。………違いますか。」


次に聞いた言葉に一瞬窮してしまったオレに対して、彼女は淡く笑いかけた。



「良いのですよ。」



その声は優しかった。彼女は紅茶を一口飲んでから、再びこちらを見る。



「きっとそれは私の所為です。
私が、優しく素直になる、…人をきちんと愛する、という一番大切なことを教えてやれなかった。
ひたすらに自分を抑えて、厳しく。それだけが愛情だと、あの子の為だと…私は信じていました。」


………彼女を取り巻く空気は寂しくて、今にも泣き出しそうでもあった。

けれどもその背筋は伸びて、声も落ち着いている。


やはりこれはグレイスの母親なのだと、今更ながら感じ入ってしまった。



「グレイス……。あの子は、本当は貴方にうんと優しくして、伝えたいことも沢山あったのでしょう。
でも、私の教えがそれを許さなかった。
……………あの子の幸せを心から願っていた筈なのに、不幸にしかできず、果てには骨も残してやることが出来なかった……………。
私は本当に、悪い悪い母親です………。」



彼女はひとくちにそう話すと、口を噤む。


…………もう、喋れなくなったのだろうか。いや…少し違うな。


この人は昔から、必要なことしか口にしなかい女性だったから………

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