十・やがて忘れてしまう 上
家に帰っても、お母様がいない日が続く。……やはり忙しいらしい。
教室でもエリサと一緒にいるジャンはあまり私に話かけてくれなくなったから……最近人とあまり話をしていないような。
いくら悲しい気分でも、いつかのように誰かが私の頭を撫でてくれることはきっと無いのだろう。
……………お母様は夜がとても遅いので、必然的に朝、起きれなくなっていった。
だから同じ家に住んでいながら顔を合わせる機会はめっきり減っている。
以前はあんなに几帳面に早寝早起きなさっていたのに。
私はどうしてもお母様に元気になって欲しかった。……少しでも、何か話がしたかった。
それが楽しくて、私を褒めてくれるようなものなら、なお嬉しい。
…………私はその日の授業中……少しぼんやりしつつも、いつか悲しい時にお母様にしてもらって元気になったことを顧みてみる。
そして思い当たっては放課後に急いで家へと帰った。途中から走り出してしまっていたような気もする。
台所に立ち、腕まくりをした。………灰色の袖だ。
その時に……ふと。ジャンと並んでいたエリサの細い腕をふっくらと纏っていた、白い控えめのレースと淡い桃色のリボンが、何故か頭を過った。
気を取り直しては、本棚の中から持ち出して来た料理の本をぱらぱらと捲る。
…………目当ての箇所を引き当てて、ほっとした心持ちになった。
そして材料の欄を眺めながら、小さく鼻歌混じりに準備を始める。
……………お菓子を作ろうと思うのだ。
お母様ほど上手には作れないのかもしれないけれど、彼女も私と同じ様に甘いものが好きだから。きっと、喜んでくれる。
それを考えると、とても嬉しくなった。
大好きな人の為に何かをすること。それもまた、私は大好きだった。
*
夜、やはりお母様の帰りは遅かった。
彼女は帰って来たことの挨拶よりも先に、こんな時間にまで起きていた私のことを咎めた。
…………お腹はすいているか、と尋ねると、すいていないと言う。
そして死神のように不吉な形相をして真っ直ぐに寝室へと向かおうとする。
私はその背中に、今日、ひとりでレープクーヘンを作ったこと、もし良かったら明日気が向いた時に食べて欲しいことを伝えた。
返事はない。
家に広がるのは重たい沈黙ばかりだ。
……………おかしいな。確かに私たちは二人で力を合わせて暮らしていた筈なのに、最近はすごくひとりぼっちで静かな気分になる。
お母様は相変わらず私の方を見ることは無く、今日の分の勉強は終ったのかを尋ねた。
…………息をのむ。そうだ、忘れていた。
頭の中が麻痺したような感覚をした後、真っ白になって心臓の辺りが浅く痛む。
黙ってしまった私から全てを悟った彼女が深い溜め息を吐く。
私はこれが一番嫌いだった。どんなに声を荒げて怒鳴られるよりも、お母様に失望されるのが一番に怖かった。
焦って弁明しようとするが、言葉がうまく見つからない。
やはり何も言えずにいる私に対して、彼女は勉強を終らすまで寝てはいけないと言う。
もう一度何かを言おうと口を開きかけるが、お母様の頑なな雰囲気がそれを受付けはしなかった。
……………気付くと、お母様の姿はなくなっていた。
寝室へと行って、休まれたのだろう。
テーブルの上、皿に被せた布をなんとはなしに捲る。
人、花、家、星。様々な形をした平たいレープクーヘンがそこにひっそりとしていた。少し焦げて、それですっかり冷えている。
…………明日。明日、きっと食べてもらえる。
そう強く思って自分を励まして………私は勉強をこなす為に、自室へと向かった。
――――――――
階段をのぼる途中、少しだけ開いた雨戸の外には、煌々と照りわたる月の光に樹の影がこちらに忍び寄っている。
綺麗だと思ったけれどなんだか眩し過ぎて、私は雨戸をぴったりと閉めてその光を遮った。
*
次の日の教室で、ジャンが久しぶりに私に話かけて来てくれた。
すごく嬉しくて、笑顔で抱き締めてみたくなった。けれど勿論しない。そういう行為は恥ずかしいことだとお母様に教わっていたし、私もそう思うから。
とりあえずは、彼の話を聞く。
でも、だんだんと聞きたくなくなって来た。
話せることはすごく幸せだ。けれどその口からエリサの話、それもひどく嬉しそうな……を聞くのは苦痛だった。
私はじきに堪えきれなくなる。
だから、そういう話は別の人として欲しい、と言った。
そうすればジャンは気分を害してしまったようで、傍から足早に立ち去ってしまう。
……………何か、他に言い方があったのだろうか。
でも、私はそれを知らない。
折角ジャンが、声をかけてくれたのに。
最近………私とジャンの仲は、急速に冷え込んでしまったような。
きっと、私の所為なのだろう。
どうにかする術も分からずに、それを静観することしかできない、私の。
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