九・私だけが覚えている
私には大好きな人が三人いる。
けれど、そのうちのひとりはある日こつ然といなくなってしまった。
とても寂しかったれど、まだふたりも好きな人が傍にいる。だから大丈夫。
私はそれをある日、お母様に言った。
彼女は少し目を伏せたあとに微笑んで、私を抱いた。少しきつい位の力で。
お母様の気持ちが私にはよく分からなかったけれど、抱いてくれたことがとても嬉しかった。だから精一杯の力で抱き返す。
抱き締めたからだは頼りなく、以前に比べて痩せてしまったような気がした。
気の所為だと、良いのだけれど。
*
私のお母様は少し厳しい人だったと思う。
けれど、確かに私を思いやってくれていたと、幼いながらも理解していた。
だから、私は彼女が大好きだった。
隣に住む幼馴染のジャンは、意地悪なところもあるけれどとても優しい。
はにかんだ笑顔もとても素敵だと思う。
やっぱり、大好きだった。
でも、段々と彼は私が想うように私を思ってくれなくなっていった。
最近は同じ教室で一番に綺麗なエリサの話ばかりする。私は彼の話を聞くのが好きだったから、ただ黙って聞いていた。
それがどうしてか辛くて仕方のないときがある。
それをお母様に話せば、無言で頭を撫でられた。………ぎこちない仕草だった。
少しして、お菓子を作りましょうか、と彼女は言う。やはり、仕草と同じくぎこちない声色。
けれど私を精一杯に慰めようとしてくれている。それが嬉しくて頷いた。
彼女が作るお菓子もまた、私は大好きだった。
*
最近、お母様は少し疲れている。仕事から帰るのもとても遅い。
私は彼女に言いつけられた勉強をこなしながらそれを待つ。
……………ひとりでいると、隣のジャンの家からの物音だとか話し声が聞こえてくる。
そしてそれと一緒に賑やかで温かな空気が運ばれて来た。耳を澄ましていると、何だか寂しくなってくる。
この家にも、かつてはそんな風景があったのだ。でも、今はそれが嘘のように静かだ。
そういう時は、本を読む。
少し昔になるけれどお母様が下さった本だ。
……もうこのくらいの年になるとこんな風にお伽噺を読む子は、周りにいない。
きっと皆、私がこの本を持っていると知ったら笑ってしまうだろう。あまりにも私の印象とはかけ離れている物語ばかり描かれているから………
でも、私はこの幸せな話が大好きだった。
正義が勝ち、愛し合う人々は必ず結ばれる。………現実もきっとこうだと、いつかはこうなるのだと、信じてやまなかったから………
――――――――
……………お母様が、帰って来た。
良かった。この前みたいに朝まで帰らないかと思っていた。
でも、彼女は私に一瞥もくれずに帰ったと言う言葉も無しに、ただ勉強を終ったのかと尋ねるだけだった。
私はもっと他の話がしたかった。
けれど彼女はとても疲れているようなので、今は首を大人しく縦に振るだけにした。
…………お母様が寝室へと消え、また部屋は静かになった。
むしろ、一人でいたときよりも静かに思える。
またジャンの家から話し声とそれに混ざって笑い声が聞こえて来た。
それは沈黙の音が聞こえるほど静かなこの部屋によく響く。
*
ジャンに、相談してみた。
お母様がどうすれば元気になってくれるのか。疲れているときにはなにをしてあげれば良いのか。
ジャンは、こんな年にもなってお母様、お母様、と母親のことをひどく気にかける私を子供だと、ちょっと笑った。
…………それから、エリサの姿を見つけて早々に傍から立ち去ってしまう。
最近、彼等はお付き合いを始めた。………私が根回ししたことなのだけれど。
だから、待ってと呼びかけたくてもそれはしない。
ジャンが幸せならば私だって幸せな筈だ。ずっとそうだった。
彼が約束を忘れてしまっていても、それで構わないと……そう、納得していたのだから……。
綺麗な人。美しい人。それと並んだ私の大好きな人。
ひたすらに遠く感じたある日の夕暮れ時だった。
*
ある日、私は本棚の前に座り込んで途方にくれていた。
床には取り出した本たちが散乱し、ひどい有様だった。
散らかっていることがあまり好きではない私にとってはあり得ない光景だったが、今はそんなことはどうでも良い。
……………本が、無いのだ。
参考書や教本はいつものようにきちんとそこに収まっていたのに関わらず、お母様が下さったあの本だけがない。
それだけでひどく不安になって、泣きそうになりながらもう一度本棚をひっくり返すような勢いで探し直す。
やはり………無い。
本棚を諦めた私は、遂には屋内を探して歩き回る。
………家の中にいながら迷子になったような、ひどく不安な気分だ。
やがてお母様が帰ってくる。私は彼女への気遣いとか、そういうものを全部忘れて、本が無い、どこにいったか知らないか、と問いただすように訴えた。
…………彼女は私を見下ろして少しの間黙るが、やがて端的に捨てた、と言う。
理由は、もう私には必要のないものだから、らしい。
その抑揚のない声を聞きながら私は、なんで、どうして、と泣いて叫んで彼女を責め立てたかった。
大好きな人にもらった大好きな本が、紛れもないその人本人に無くされてしまった。
それがたまらなく悲しくて仕様がなかった。
でも、それを表すことはできない。無駄なことだと心の何処かで分かっていた。
お母様は家を散らかした私のことをひどく叱った。
彼女が寝てしまったあと、私は本を片付けながら久しぶりに涙を流した。
…………元通りになった本棚は昨日までと何も変わらずに見えて、まるで違う。
何か私は……悪いことをしているのだろうか。
お母様は仕事のこと以上に、私と話すことによって消耗してしまっているように見える。
生んで、育てて、愛してくれた。
そんな彼女を困らせてしまっているのなら、私は本当に悪い娘なのだと思う。
「お母様。」
私はやっぱり彼女が大好きだった。
本当に、心から。
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