二十五・過去の道は未来に続く
…………夢を見た。
内容を思い出すことは出来ないが、懐かしくてそれでいて寂しい夢だった。
今年はオレにとって、25回目の夏………。
起き上がって窓を開けば、初夏の少しむっとした空気が流れ込んでくる。
しかし空の雲はみずみずしくふくらみ、はっきりした輪廓を描いて白く光っていた。
…………いくつになってもやはり夏はいいものだと、素直に思う。
眩しい日光に目を細めつつ外の景色をしばらく眺めた後に、部屋の中に戻っては机の上に昨晩のまま散らばった手紙を拾い上げて、もう一度目を通した。
少し文字が霞むので、眼鏡をかけてから再び読み直す。
かけ始めて最初はひどく似合わなく感じたこれも、使用するうちに様になって来た感じもしなくはない…………
手紙は、母親からのものだ。
長い反抗期もようやく終えたオレは、彼女並びに父親とよく手紙のやり取りをするようになっていた。
いくつになっても母親にとっては息子のようで、身体を労ってくれる言葉が繰り返し書かれている。
………昔もこれに似た手紙を何度も受け取っていたものだが、全て無視していた。
それを申し訳なく思いながら、今は短いながらもなるべく返事を書くようにしている。
(…………………。)
やはりオレにとっても、いくつになっても母親は母親だと、手紙を読み返す度に思った。
そして自分の母親を思いやるときに僅かに、胸にはグレイスとその母のぎこちない関係が過る。
……………一通も、手紙のやり取りは無かった。
彼女がオレと一緒に街から出て訓練兵になる時に見送りにすら来なかった。
グレイスが死んでしまった時……オレのことを責めても良かったのに、一切の干渉も言葉を寄越すこともしない。
まるで他人のように無関心。
その関係に首を傾げつつ、オレは今更グレイスを可哀想に思っていた。
あの時から、五年。
夏になると……いや、正確にはいつも。思い出すのは彼女のことばかりだった。
もう、忘れようとは思わなかった。
そんなことは無理だと、充分過ぎるほど知っていた。
………………五年。
一言では言い表せない長い歳月にも関わらず、グレイスの存在は自分の中では大きくなるばかりで、幸せな時間を思い返せば思い返すほど悲しい気持ちになる。
そんな心がうつろな時、オレは且つてグレイスと共に買った……表紙にエッチングの装画が施された本を取り出して読んでみる。
この作家は、今は巨匠といわれている。変な文章ではあるが、読み易く優しい言葉の集まりだと思った。
好きなのだろう。もっともらしい顔をして読んでいって、ひとつの短い話が終るとまた閉じて、本棚に戻そうとする。
この本も読み込むうちに擦り切れて、元も相当古い本だったが……もう、ぼろぼろだった。
背布の黒も色褪せて最早青色に近く、白い染みが浮いてしまっているのが汚らしい。箔押しの金色の題字はもう随分と前に読むことが出来なくなっていた。
繁々とそれを観察していると………ふと。厚い渋紙の表紙が剥がれかけてしまっているのを発見する。
(これはまずいな…………。)
そう思いながら指でなんとはなしに弄ると、そこから次々に表紙が剥離していき、最終的にはべろりとだらしなく、完全にはがれてしまった。
(あー……………)
やってしまった、と思い小さく溜め息を吐く。
(どうする……。修理にでも、出すか。)
オレ自身、本の内容に物凄く魅かれている訳では無いのだが、これはどうにも大事にしたいものだった。
彼女の為に買ってやった、形に残るもの。
それに触れていると……また会って必ず渡してやれる。そんな気持ちが不思議と起こるのだ。
(しかし……見事に剥がれたもんだな………。)
べろりとした表紙と裸になってしまった灰色の台紙をまじまじと見つめる。
長い間日に晒されることの無かったそれは意外と保存が良く、ざらりとしてはいるがそこまで痛んではいなかった。
(あれ…………。)
その時に、薄汚れた灰色の端の方に、目が留まる。
隠れる様にひっそりと、そしてかすれて大概やっと一字、せいぜいで二字くらいしか読めない……けれど、文字が書き連ねてある。
オレは……その、二十文字にも満たない綴りをやっとの思いで、解読した。
そして深く長く………息を吐いた。
そっと、表紙であった渋紙をかぶせて、机に置く。
――――――――こんなことが、あるのだろうか。
グレイスがオレの元に戻って来てくれたことは、紛れも無くこの世の言葉では説明のつかない奇跡だ。
そしてこれもまた種類は違えど同じものなのだろう。…………それならば。
オレは壁に据えられた名も知らない絵描きの油彩画……且つてと比べて部屋はもっと広いものへと移ったが、何故か持って来てしまった………の横に張り出された暦へと視線を移す。
……………×印が書き込まれた休みの日は、まだ先だった。
しかし、オレはコンテを取り出して明日の日付に×を記した。有休はきっと、こういうときに使うものなのだろう。
二度あることは三度あると言う。
しかし、世の中はままならずお伽噺の様にうまくいかない事も充分に分かり切っている。だが、どうしても。
オレはグレイスに出会うためにはどんな些細なことも最早見逃したく無かったし、草の根を分けて泥の中に足を踏み入れることになっても、近付く為ならそれで構わないと思っていた。
グレイスに、もう一度会いたかった。
本当にただ、それだけなんだ。
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