二十・告白
「グレイス…………。オレさ、好きって言われたんだ。……結構仲良い奴から。」
少しして、ぽつりとそう言えば………グレイスは視線だけこちらに寄越す。
「そうですか…………。」
そして溜め息のような声で応えてきた。彼女の体が、こちらを向く。
「ジャンに彼女ができるのも久しぶりですね。おめでとうございます。」
……………静かで、それでいて嬉しそうな声だった。本当に、心から。
「いや…………」
だが、オレはそれを遮る。
「断った。」
そして、続けて言った。
「………………なぜです。」
彼女の山梔子色の瞳に、夕空がそのまま垂れ込むように映っていた。光彩が同じ色に光って綺麗だ。濡れたように輝いている。
「なんでだろうな……………。」
それを真っ直ぐに見つめながら呟いた。
握っていた掌を離して、そっと彼女の両頬を包み込むようにする。温い空気の中で唯一、凛として冷たい。
「なんでなんだろうなあ………………。」
本当に不思議そうな声が口から出た。
しばらく、そのままの姿勢でじっとする。グレイスも動かない。
彼女の瞳に映るオレの姿も当たり前だが微動だにせず、時が止まったような感覚に見舞われた。
河が流れる。橙色の雲が往く。
船は渡り、鳥が過り、ひぐらしの声がこだまする。
十年ほどの歳月が経過したと思った頃、オレはようやく口を開いた。
きっと、これはあらかじめ決まっていたことだ。そう思えるくらい、自然に。
『 』小さな声だったと思う。
けれど、グレイスには確かに届いたようで、その瞳が大きく揺れた。
………………ゆっくりゆっくり頬から手を離して、また掌を握ってやった。
それから再び、河を眺める。
相変わらず、穏やかに流れていた。
きっと千年、二千年先も。今日この日と変わらずに、優しく畝っては壁の外へと向かっていくのだろう。
グレイスは軽く目を伏せていた。
けれどやがてこちらを見上げては、片手を伸ばして先程のオレと同じように、頬に触れて来た。
「ジャン」
綺麗な声だった。好きな声だ。心からそう思う。
「……………ありがとうございます。」
グレイスは笑っていた。
でも…………あれ、おかしいな。
違う、やっぱりあの………悲しそうな、
「でもね、それなら……………お別れです。」
その表情のまま、グレイスは呟くように言った。
オレは彼女の言葉の意味が分からず、数回、瞬きをした。
「私、前にも言いました。………幸せになるのは私とでなくて良い。貴方が愛した素敵な女性と寄り添い合って生きていてくれれば、って。
貴方も分かっているでしょう。………私では、ジャンを幸せにできません。」
…………なんでもないようにグレイスは言った。そして、続ける。
「壁内、いえ、外も。どこに、死んだ人間と愛し合った人がいますか。家庭を築いた人がいますか。私は所詮夏の間だけの幻です。
忘れてはいけませんよ。私が死んで、貴方が生きていることを。」
彼女の声は河の流れのように優しいのに、その言葉はぞっとする程残酷に感じた。
胃の底から、嫌なものがこみ上げてくる気分になる。歯をくいしばって、それを飲み込んだ。
「な…………なんだよ、それ。お、おかしいじゃねえか………。」
つっかえながら、精一杯に声を振り絞った。
グレイスの掌が頬から離れていく。彼女は相変わらず笑っていた。瞳に映る夕焼けの光は今や燃え上がるようだった。
「だって………だって、お前、あんなにオレのことが好きって言ってたじゃねえか……!今更、なんだよ……、どういうことなんだよ!!」
…………通りすがった老人がぎょっとしたようにこちらを見る。
当たり前だ。端から見ればオレは一人で怒鳴り散らしている変人にしか思えないのだろうから………。
「はい、好きですよ。今も昔も……ずっと。」
グレイスは繋いだ手もするりと離して、ただ見つめてくる。
…………一迅の風が吹く。彼女の真っ直ぐな髪が沙椰と揺れた。
「なら………なにも問題はないじゃねえか。オレも、「ジャン。」
グレイスが穏やかにオレの声を遮る。そして、首を左右に小さく振った。
「……………気の迷いですよ、そんなのは。」
彼女はオレの元から一歩退がって遠ざかり、囁いて言った。
「私、分かってます。ジャンは優しいから、私に同情してしまったんです。
それを好きだと、勘違いしているだけなんです。」
思わず、距離を一歩詰めた。
…………でも、グレイスはまた同じ分だけ遠ざかる。
やっぱり…………笑っている。
………………やめろ。その笑い方、………やめろ………。
「違う…………。」
カラカラに乾いた喉から出た言葉は掠れていた。
呪われたような真っ赤な夕日がグレイスの横顔を照らす。
ひぐらしの声は更に高く大きくなり、誰かがひどく泣きじゃくっているようにも聞こえた。
「違う……!同情なんかじゃねえよ、…………絶対に違う!!!」
さっきよりもずっと大きく言ったつもりだったのに、実際は震えてひどく情けない声しか出なかった。
グレイスは瞼を下ろし、何かが満たされたような表情をした。
「そうですね…………。すごく、すごく嬉しいです。」
そう呟いたグレイスは、本当に幸せそうだった。
そしてゆっくりと瞼を開くと、一筋の涙で頬を濡らした。
濡れて光った眼はオレの上へと注がれる。
これは架空的な宗教よりも強く、またなんら根拠のない道徳よりももっと強い言葉を投げ掛けている。そう、感じた。
「ジャン………。ありがとうございます。」
涙は拭わずに、グレイスは笑顔を保っていた。
どうやら彼女の中で静かに堰は切られたらしく、後から後から涙がその頬を伝っていく。
オレも泣きたかった。いや、もう泣いていたのかもしれない。
「幸せに………。それだけが、私の願いです。ずっとずっと、…………。」
表情は満ち足りているのに、声は辛くて、痛そうだ。
違う、………オレが聞きたかったのはこんな答えじゃない、それなのに……
グレイスはまたオレから、一歩退く。風が再び吹いた。髪が揺れる。1本ずつが意思をもっているかのように、すべやかに。
やがて、彼女の瞳の中に鮮やかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
静かな水が動いて写る影を乱したように、またひと雫流れ出したと思ったら、その眼がぱちりと閉じた。
――――――もう、グレイスの姿は消えていた。あとかたもなく。
白い水鳥が皆同じ方を向いて水面を滑っていく。その背中も赤く染まっていた。
空には対照的に黒い木が蔦っている。木の葉の形が一枚一枚はっきりと見えた。
オレは、石畳に落ちた自分のシャツを拾い上げては、恥も外聞も全てのものをかなぐり捨てて、嗚咽を堪えずに、慟哭するように泣き続けた。
*
次の年。いくら待っても、グレイスがオレの元を訪れてくることは無かった。
その次の年も。また、次の年も。
時々、忘れることができたなら、と思う。
奴の言葉を鵜呑みにするのなら、それでオレと奴の関係は終る筈だ。
でも、それができない。できるわけがなかった。
だから胸に巣食う痛みに耐えながら、オレは今年の夏もグレイスを思い出して、待ち続ける。
きっと、この痛みも全部傍にいた証拠だ。そう思えば、苦しみもまた幸せに変わる。
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