二十・運河

かばんの中には、グレイスに買ってやった服のほかに、本が数冊増えた。



…………少し、挿絵があるもの。それから恋愛を扱ったもの。

若い女が年相応に好きそうなものを、選んで買った。



グレイスはオレに続いて本屋の扉をくぐりながら……明らかにとまどった顔をしている。


……………この本を、オレが自分のために買ったわけではないと充分に理解しているが、その理由が分からないという表情だ。



オレ自身も………やはりよく分からないでいる。



ただ、グレイスが生きているときに適えられなかったことを沢山してやりたいと思った。



……………なぜ、こんな気持ちを抱くのか。


オレは未だに自分自身の罪滅ぼしの為に、こんなに善人面でグレイスに優しくして、罪悪感から逃れようとしているだけなのだろうか…………







街は、夕暮れへと向かっていた。


空が赤くなり始め、どこからかひぐらしの鳴く声がする。



『ジャン君はその人のこと好きなの、嫌いなの。』



耳の裏で、ふとある日に尋ねられた言葉が聞こえた気がした。



………………繋いだグレイスの手を握り直す。


彼女は、未だにとまどった顔をしていた。



グレイスはここ数年、こういう表情を時々する。嬉しい、けれど悲しいような。



それは必ず、オレが心から彼女を思いやりたいと願ったときに表れる。



…………なんでだよ。


素直に嬉しいとは、思ってくれないのか。



『それならあとは自分でよーく考えて行動しなさい。』




もう一度、声が聞こえたような。気の所為だけれど。



……………本当は、分かっていた。実はもう、充分に考えていたんだ。



笑顔を見たい、喜んでほしい。



それでありがとう、と言われて、もっと好きになってもらいたい。



そう思っているんだ。…………きっと。ずっと昔から。



更に言えば……触れたいし、少しだけ抱き締めたいとも思う。



それで、触れて、抱き締め返してくれたなら、もっと嬉しい。







歩いている内に、広い運河に差し掛かった。



並木の槐は真っ白に花盛りだった。夕日も、水面に反射して美しい。


オレたちはそれに沿った欄干に寄りかかるようにして河を眺めた。


船がゆったりと水上を往く。帆は橙色に染まって、穏やかな眺めだった。



「綺麗………。」



グレイスは一言呟きながら溜め息を吐く。



「……………だろ?」



それに応えては、ゆるやかに笑った。



「……………今日、部屋帰ったらこれ、着ろよ。」


そう言いながら、自らの肩にかけたかばんの紐を軽く引っ張る。



………グレイスの頬は夕日に照らされた所為だろうか、少し赤くなっていた。


そして、えっ………、だとか、いや……ちょっと………、だとかなんだとか言いながら口をもぐもぐとさせている。


どうやらまだ例の服を切るのに抵抗があるらしい。



「さっき大事に着るって言ってただろ、約束は守れよ。」



迫るように言えば、視線を泳がせつつもグレイスは「分かりました………」と小さく返す。


それに満足して、なんとはなしに頭を撫でてやった。



いつもは不満げに子供扱いするな、とこの行為を怒る奴だが……今は大人しく撫でられている。



……………嬉しそうにしてくれている、と思った。



だから、オレも嬉しい。



河から岸へ打ち上げられた材木がある。片端は陸に上がっていて、片端は河水に漬かっている。

その上に鴉が一羽止まっている。年寄って小さくなった鴉だった。羽を体へぴったり付けて、嘴の尖った頭を下へ向けて、動かずに何か物思いに沈んだようにしている。

黄金色に輝く水面を背景に、その真っ黒い姿はよく目立っていた。



「…………ジャンは、手が大きいですね。」



繋いだ手を柔らかく握り返しながら、グレイスが呟く。



「そうかな………。お前が小せえだけだろ。」



それに笑って返す。



河と一緒に、穏やかな時間が流れていた。



オレは、うす汚れた鴉をじっと見つめているグレイスの横顔を眺める。



空がいよいよ赤くなるので、彼女の何もかもも同じような色に染まっていた。髪も頬も瞳も繋いだ掌も、オレのシャツも。



少しして、鴉はゆったりとした動作で羽を広げて水面を滑空し、空へと吸いこまれるように消えて行った。



今はもう、遠くの方でごま粒のように小さくなっている。



そしてやがて、見えなくなった。

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