十七・ゲーム、ケーキ、約束 下

「……………………。」



少しの沈黙が二人を取り巻いた。



「ねえ……ジャン。」


グレイスは、ゆっくりと口を開いては一口大のケーキが刺さった銀のフォークを再び持ち上げた。



「一口だけ………食べて、みませんか。」


首を傾げて遠慮がちに微笑むグレイスを、ジャンはじっと見つめる。



「…………自分で、食うよ。」



それから静かに応えて、彼女の掌からフォークを受け取った。



……………口元にケーキをもってくるとき、僅かにためらう。


だが…思い切って口に入れてみる。じわりとした甘さが舌の上に広がる。


懐かしい味だと思った。優しい匂いもする。



「……………………。」



ジャンが咀嚼し、ゆっくりと嚥下する様子にグレイスは目を細めた。


それから、「もう一口、いりますか。」と言って彼の方へ手を差し出す。


ジャンは黙ってフォークをグレイスに渡した。



彼女は先程よりも大きめにケーキを切り取って、ジャンの方へと持って行く。


彼はそれを受け取ろうとした。しかし、グレイスはやんわりと首を振って渡すのを拒否する。



……………しばらく、二人は見つめ合って無言の攻防を繰り広げるが、やがてジャンは観念したように息を吐いた。



グレイスは心から嬉しそうにすると、そろりとケーキを彼の口元へと運ぶ。


ジャンはしかめ面を保ちつつもそれを受け入れる姿勢を取り、グレイスはその様を見てこそばゆそうにした。



「美味しいですか。」


彼女の問いかけに、ジャンは「思ったよりはな。」と無愛想に答える。



どうやら、自らの行動を後悔しているらしい。その表情は非常に険しいものとなっていた。

だが、耳まで広がってしまった皮膚の赤みは少しだけ滑稽である。



「きっと、私と一緒だからですよ。」


グレイスは笑いを噛み殺しては楽しそうに言う。


「何寝ぼけたこと言ってんだ、このハナクソ野郎。」


そう言いながらジャンはグレイスの元からケーキののった皿を奪うように引き寄せた。


「ものを食べているときに下品なことは言うものじゃありませんよ。
………まあ、あれです。甘いものに限りませんが、一人で食べるよりも誰かと一緒に喋りながら食べた方が美味しいのは、当たり前のことじゃないですか。」


グレイスはどうやら気が済んだらしい。彼へとフォークを渡しながら穏やかに言った。



「お前じゃなけりゃもっと美味いんだろうな。」


ジャンは未だに不機嫌なようで、刺のある物言いをする。



「おやおやあ、この口が言いますか。呪いますよ。」


「やめろ。冗談に聞こえねえ。」


「…………冗談に決まってるじゃないですか。」



ジャンは眉根を寄せつつも次々とケーキを口へと運ぶ。

そんな彼を、グレイスは机に頬杖をついて優しく見守った。







「…………今日はご馳走様でしたね。」



風呂から上がって非常にリラックスした状態にあったジャンは、ベッドに寝転がって本を読んだままそれに生返事する。


お前は食べてないだろ、食べたのはオレだろ、という突っ込みをするのは……なんだかもう、面倒だったし、野暮なことに思えたのでしなかった。



「お礼をしますよ。何かして欲しいことがあったら言って下さい。」

もっとも、私にできることは随分少ないですが……とグレイスは苦笑する。



「………………。」



ジャンは、何かを少し考え込んでから本をそっと閉じた。


グレイスは鼻歌を歌いながら雨戸を閉めてその錠を落としている。

彼女の後ろ姿をじっと見つめた後、ジャンはゆっくりと体を起こした。



「……………グレイス。」


きちんと雨戸と窓が閉められているか点検し終えたグレイスは、名を呼ぶ声に応えて振り返る。


…………視線の先のジャンの表情は、想像していたよりもずっと真剣だった。だから、グレイスも精一杯真摯な気持ちで彼の発言を受け入れようとする。



「それなら………二度と、何も言わずにいなくなるなよ。」



………その言葉に、グレイスはふっと口元を綻ばせた。



「そのことなら謝りますよ。悪かったと「グレイス。」



しかし、彼女の発言はジャンのいたく真面目な声色で遮られる。



二人の視線は強くぶつかった。


時計の針が時を刻む音が、相も変わらず薄暗い部屋の中に転がる。それがいやに大きく聞こえた。



グレイスは、そろりと目を伏せる。彼女の瞼は微かに震えているようにも見えた。



「はい……………。」



そして、小さな声で返事をした。


一度下りた瞼が上がり、彼女の山梔子色の瞳があらわになる。



「はい……。ジャン、二度と何も言わずにいなくなりませんよ。」



グレイスの言葉に、ジャンはじっと耳を傾けていた。一字一句逃さぬようにその言葉を聞いていた。



「約束するか。」



確かめるように尋ねる。グレイスはこっくりと頷いて応えた。



「約束します………。絶対です。」



ジャンは、未だにグレイスの瞳を真っ直ぐに見つめ続けていた。射抜くような瞳である。鋭くて、それで熱い。


グレイスは彼の視線にあてられて自分が溶けてしまうような感覚に見舞われた。



「そうか…………。それなら、良い。」


それだけで、………と、ジャンは何かを言いかけてまた本を開く。

視線は本に落とされた。


…………もう、話はこれでおしまいのようである。



グレイスは…無性に彼が愛おしくて、抱きしめてみたくて仕様がなかった。

だが、それは堪えて…一言ありがとうございます、と小さく漏らす。



ジャンがまた生返事をした。



グレイスはもう一度、同じ言葉を繰り返す。







その一週間後の夜、グレイスはジャンへと別れを告げた。



ジャンが次の日に目を覚ますと、彼女は以前と同じように何も残さずにいなくなっていた。



しかし…大きく空いてしまったベッドの隣をぼんやりと眺めながらも、ジャンの心の中は不思議と穏やかだった。



『ジャンが私に会いたいと……傍にいたいと強く思わなければ、私は貴方と同じ場所にいることはできないんです。』




………漠然と、来年の夏にはまた会えるような予感を覚えた。



日が高くなるにつれて予感は確信へと変わる。



ジャンは起き上がり、窓と雨戸をあけた。

早朝の涼しい空気が部屋へと舞い込む。いつのまにか空気には淑やかな甘い匂いが混ざっているようにも感じられた。



「今年も夏は終わり、か…………。」



彼の小さな呟きは、かぼそい虫の声にゆるやかに混ざる。コオロギだろう。小さい頃から好きな虫のひとつだった。

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