十七・ゲーム、ケーキ、約束 中
「…………どういうことだよ。」
ジャンは頭を抱えて呟いた。
「それはこちらの台詞です。どういうことです。」
白いキングを摘まみあげながらグレイスが尋ねた。
「どうもこうもねえよ……。……いや、何かの間違えだ。」
「間違えで八回も負けられるなら大したものです。
貴方、基本的に小細工が絶望的に下手なんですよ。自滅してばっかりじゃないですか。」
グレイスの淡々とした言葉にジャンはへなりと机に突っ伏しては、「もう良い……。今日は終わりだ。オレは風呂に入ってくる……。」と弱々しく言う。
「分かりました。片付けておきますから早く帰ってきて下さいね。」
それに対してグレイスは元気だった。………やはり、彼女のような類のものは夜になればなるほど冴えてくるのだろうか。初心者とはとても思えないほど、グレイスのゲームの運びはキレていた。
よろよろと椅子から立ち上がったジャンは……ふと、あることを思い出す。
それから、ぼんやりとする頭で先程チェスを取り出した荷物の中から目当てのものを取り出しては、机の上に置く。
「……………………。」
片付けをしていたグレイスは置かれたものを見つめて不思議そうな顔をした。
「…………なんです。これ。」
厚紙でできた真っ白い箱の角に触れながら彼女は尋ねる。
「良いから開けてみろ。」
ジャンが再び着席しながら促してくるので、グレイスは言われるままに箱の縁に指をかけた。中々うまいこと開いてくれず、少し手こずる。
開かれた中では、深い色のケーキにそえられたチョコレートの猫が彼女に向かってやや釣り目がちで微笑んでいた。
ココアのスポンジに白いクリームがコーティングされた上で、シロップ漬けのさくらんぼが数年前と寸分違わない深い赤を鮮烈に放っている。まるで燃えているようだった。
「お前にやるよ。」
ジャンのぽつりとした言葉に、グレイスはそろりと顔を上げる。
それから、「………良いんですか。」と小さく返した。
「なんだよ。好きじゃなかったのかよ、甘いもん。」
そう尋ねれば、グレイスはゆっくりと瞬きをした。
「はい………。大好きです。貴方と同じくらい。」
穏やかに笑って彼女は応える。
そして、立ち上がって棚から小さな皿とフォークを取り出した。
ジャンはいつも食堂で食事を取る為に、この部屋に申し訳程度に備えられた食器はとても簡単なものだった。
例によって彼女の手で丁寧に磨かれた白い皿の上に、対照的に真っ黒いケーキが置かれる。やはり、薄暗いこの部屋に溶け込んでしまいそうな色をしていた。
「私のために買ってくれたんですか。」
再び椅子に腰掛けたグレイスの問いかけに、ジャンは何も応えなかった。
「ありがとうございます……。すごく嬉しいです。」
けれどグレイスはとても幸せそうに笑った。本当に心の底から。
「……………ああ。」
ジャンは小さくそれに応える。
この光景をずっと見たかったと思っていたのに関わらず、何故か悲しい。この理由の分からない気持ちを押しつぶすように、低い声で。
「ジャンがお菓子屋さんで買い物だなんて、何だか面白いですね。」
「…………うるせえ。」
「すごく店内に似合わなそうです。店員さんにからかわれたりしませんでしたか?」
「されてねえよ…………。」
「そうですか。」
「いや……少し、からかわれたかな…。」
「でしょうね。」
「さっきからつべこべうるせえよ、やらねえぞ。」
ジャンが白い皿ごとグレイスからケーキを遠ざけようとするので、彼女は少し慌てたようにしながら「冗談ですよ」とそれを元の位置に戻す。
「…………でも、ジャン。私はどんなに甘いものが好きでも、もう食べる事ができません。」
グレイスは静かに呟いた。
ココアが練り込まれた黒いスポンジがフォークによって少しだけ切り取られる。
「だから代わりに、貴方に食べさせてあげますね。」
そして彼女は、それはもうにっこりと良い笑顔を浮かべてのたまった。
「…………………はあ?」
一拍おいて、ジャンはそれを眺めながら実に訝しそうな声を発する。
グレイスは彼の態度に動じる事なく、フォークをずいとジャンの薄い唇に近付けた。
「どうしたんですか、ジャン。
貴方は美味しい、私は楽しい…これでwin-winの関係の出来上がりじゃないですか。」
「どこがwin-winだ。得すんのはお前だけだろうが。」
口を開く度にケーキをねじ込んでこようとするグレイスの腕を押さえつけながらジャンは呆れたように言い返した。
「…………言っておくがな。オレ、甘いもん苦手なんだよ。」
付け加えるように言われた彼の言葉に、グレイスは驚いたように目を瞬かせた。
「おや………。おかしいでね。貴方、私ほどじゃないにしてもそこそこ好きだったじゃないですか。」
グレイスの腕を掴んでいたジャンの力は徐々に弱まる。それに合わせてグレイスも右手を下ろして、椅子から半分浮かせていた腰を元に戻した。
「…………少し、あってな。」
ジャンは、数年前に同じケーキをここで食べた辛く苦い経験を思い出す。
…………あれ以来、甘いものが一切食べられないのだ。正直、匂いすらも得意ではない。
グレイスは、「そうですか……。」とあまり深くを聞こうとはしなかった。
手にしていたフォークを、かちゃりと音を立てて皿の上に置いては小さく溜め息を吐く。
「それじゃあ、貴方のお母様は残念がったでしょう。あれだけお菓子作りが好きだった方です。一人息子の貴方が食べられないとなると作る喜びも半減してしまうでしょうから……」
………。今、このタイミングで母親の話題が出るとは思わなかったジャンは少々面食らう。
彼の表情をグレイスは不思議そうに見つめていたが、やがて眉根を寄せては「その反応は……貴方、さてはここ最近お母様のところに帰っていないでしょう。」と尋ねてくる。
「い、いや……別に………。」
なんとも歯切れの悪い彼の返答に、グレイスは眉間の皺を更に深くしながら「ジャン…。」と低く名前を呼んだ。
「貴方が忙しいことは百も承知していますが、実家には定期的に顔を見せなさいと訓練兵時代から口を酸っぱくしているでしょう!?察するに数年は帰っていないでしょう、親不孝にもほどがあります!貴方のお母様が貴方のことをどれだけ愛情深く大切に思っているのか分からないほどに貴方は愚鈍な男なのですか!?」
「お………お、おう。」
久々に見るグレイスの説教モードに若干うろたえてしまうジャン。
グレイスは深く深く息を吐き、「ほんと……呆れた人ですよ。あんなに素敵なお母様は滅多にいないんですから……もう少し、大切にしてあげなさい。」と目を微かに伏せて零した。
だが、ジャンも負けじと「‥‥‥そういうお前だって訓練兵時代、一回も実家に帰らなかったじゃねえか。トロスト区で実習があった時もよ。」と不満げに言い返す。
「…………………。」
図星をさされてしまったグレイスは、少し黙る。
だが、コホンと咳払いすると「…………別に良いんですよ、私は。お母様は私の顔を見たってきっと、喜びませんから。」とやや固い口調で告げた。
「そんなことはねえだろ。」
思わずジャンはその言葉を否定するが、ふと……言われてみれば、グレイスとグレイスの母親が親子らしい会話をしている場面をひとつも思い出せないことに気が付いた。隣の家に住んでいたのに関わらず、である。
…………彼女たちは顔を合わせてもいつも黙っていて、最低限のことしか話さなかった。
あの時はそれが日常だったからなんとも思わなかったが、今思えば少々違和感を覚える親子関係である。
そして……グレイスが且つて時々何でもないような、冗談のような口ぶりで言っていた『貴方の家の子になりたいです。』という言葉が何故か…今になって耳の裏に、響いた。
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