十七・青い夜
…………ジャンは、この数年で随分と背が伸びた。
顔つきも、大人らしくなったと思う。
何だか知らない人を見ているみたいでちょっとだけ……グレイスは緊張していた。
でも、話してみると相変わらず不器用だけれど優しくて、やはりこの人は自分がずっと好きで好きで仕様が無い彼なんだなあ、と改めて実感してしまう。
けれど……ジャンは、昔に比べてあまり笑わなくなった。それから、一人でいる時はぼんやりとしていることが多い。
グレイスがすぐ近くにいるのに関わらず、気付かないこともざらである。
それが少しだけ、心配だった。
この数年、何があったのかはグレイスに与り知ることはできなかったけれど……少しだけでも、痛みを忘れさせてあげることができたなら。
そう思っては、グレイスはいつも歯痒い思いをしながら、ぼんやりと虚空を見つめるジャンの隣にいた。
*
「ジャン、お茶でも如何ですか。」
寝やすいようにハーブティーにしましたよ、と言いながらグレイスは窓の桟に寄りかかって夜空を見上げていたジャンへと声をかける。
ハーブティーだなんて、男性の部屋にしてはちょっとだけ洒落ているような…言い方を変えれば鼻につくようなものがあるのは、ジャンならではだなあ、と思いながら。
「ん……、ああ。」
一拍置いた後、ジャンは何だか気の抜けた返事をしてグレイスの手から白いカップを受け取った。
その際に、少しだけ指先が触れる。相も変わらず冷たい彼女の掌に反して、ジャンの皮膚は熱い。
………自分もかつては、こんなに強い熱を持って生活していたのだろうか。
もう、体の内側から湧き上がる温度を思い出すことを、グレイスはできなかった。
けれど、ジャンの傍にいる時だけは少しだけ……その感覚に近いものを感じることができるのかも、と思う。
ジャンの隣に立って、グレイスも同じように空を見上げた。
よく晴れた夜である。輝く星の光はまるで刃物のように鋭い。
「……………グレイス。」
ふいにジャンが、隣に寄り添う幼馴染の名前を呼んだ。
白いカップの中の液体が声に合わせて僅かにゆらりと揺れる。それは夜空の暗い色に反して金色に光っていた。
グレイスは、何も応えずにただジャンの方へと視線を向ける。
ジャンと形は違えど、中々に気が強そうな形をした目だ。……そして、瞳の色は優しい。
「なあ……死ぬって、どんな感じなんだ。」
彼の声は静かだった。けれど、沈黙の間を縫ってよく響く。
…………グレイスは何も言葉を返さなかった。
ただ、彼のことを眺める。二人の間でカップの中から立ち上る白い湯気がぼんやりと滲んだ。
「死んだら………楽になるのかな。……苦しみからは……解放されんのかな……。」
ジャンが目を伏せて再び声を発すれば、細かい波紋がまた同じようにカップの中に広がる。
その言葉は恐らくグレイスに向けられているのではないのだろう。
「………確かに、死んでしまえば…生きる上での苦しみからは解放されるかもしれません。私はそれで、随分楽になった気持ちもします。」
グレイスは、交わらなくなった視線を再び遠く夜の景色へと移した。
隣からは、ジャンが小さな声で「そうか……。」と言うのが聞こえた。
「ただ……死んだ後というのは、とても孤独です。誰にも気付かれず、愛されず……忘れられていくのを待つだけ。私はいつも寂しくて、何だか泣きたくなります。」
ジャンは、夜風に晒されて少し温くなったハーブティーを一気に飲み干した。
………自分で淹れるものより、濃い。苦みが口の中にしばらく留まった。
「生きていることは力強いことです……。それだけで多くのものを生み出していける、かけがえのない喜びがあります。」
グレイスの視線の先、向かいの棟にある執務室はすっかり灯が落ちて、ひっそりと星空に聳えている。
それを眺めていると、彼女には今のジャンが何を考えているのか、よく分かる気がした。自分も同じ感慨をかつて抱いたからだ。
けれど、彼は自分とは違う。
あんなにちっぽけで幼い理由ではなく、もっと大きくて辛い…沢山の痛みを伴う理由から、それを思っているのだろう。
「ジャン………。苦しいけれど、駄目です。後悔しか残りませんよ。私やマルコにも、本当の意味で会えなくなってしまいます。」
だから、必死で彼の塞ぎ行く気持ちを留めようとした。
……一度でも彼の命を奪おうとしてしまった自分の罪を償うように。
ジャンはただ、黙ってグレイスの言葉を聞いていた。
白い羽虫が一匹、ランプの灯りに誘われて部屋の中へとよろめいてやってくる。
「沢山……辛いことがあるでしょう。私は話を聞くことしかできませんが……。
けれど、貴方には人を引き寄せる力があります。必ず味方になって、分かってくれる人がいる筈です。」
言いながら、グレイスの胸の内には急に悲しさと後悔がこみあげてくる。
―――――――本当は。できることならば……共に生きていたかった。
一緒にならなくても良い。同じ場所にいることさえできればそれで良かったのに……何故あの時、我が儘な気持ちを抑えきれなかったのだろうか。
口では散々彼の幸せだけを願っておきながら……結局、自分のことしか考えることが出来なかったに違いない。
その結果がこれだ。
自分はもう万が一にも彼と結ばれることはないし、いつかは忘れられて認識すらされなくなる。
それを思って佇んだまま乏しい虫の音に聞き入っていると、自然と涙がグレイスの頬へ冷やかに流れ始めた。「ジャン。」彼女はほとんど呻くように、愛しい名前を呼んだ。
「……私も、いつでも見守っています。永遠に貴方の味方です。貴方が望む限りは、この曖昧な季節の間、目一杯傍にいますから………」
涙を悟られないようにしながら、心からの想いを訴えた。
もう心臓はずっと昔に止まってしまっているのに、胸が脈打つように痛い。
……そうか、自分は地獄に落ちたのだ。この痛みも苦しみも、罪に対する罰なのだろう。きっとどんな罰よりも辛い。望んだものはすぐ隣にいるのに、もう永遠に手に入れることはできないのだ。
息を吸って、吐いた。それから無理に笑ってみせる。
ジャンは今、とても苦しんでいる。……それを少しでも軽くしてやるのが、自分の役目だ。
もう落ち込むのも悩むのも自分を責めるのも……それは生きている人間のもので、自分のものではないのだから……。
「ジャン。私はずっと貴方のことが好きですが……貴方が私のことを好きになる必要は、ないのですよ。」
次にグレイスの口から出た声は、明るく軽快なものだった。
ジャンは顔を上げて、相変わらず遠景を見つめ続けているグレイスの横顔を眺める。
「死んだ人間は忘れられて、生きている人間は新しい幸せを見つける。そうすることで、世界はまわっています。
………幸せになるのは私とでなくて良い。貴方が愛した……素敵な女性と寄り添い合って生きていてくれれば……私の望みは生前からずっと変わっていません。」
グレイスの言葉は、今度こそ心からのものだった。
ジャンにだけは生きて、幸せになって欲しい。今の彼女の存在は、その想いだけが拠り所だった。
「考えてみて下さい……。貴方が父親になったときのこと。お嫁さんと自分に似た子供ですよ。
きっと貴方のお母様やお父様も喜びます……。仕事だって、もっと頑張ろうという気持ちになるでしょう。
未来には楽しいことがいっぱいあるんです。生きてさえいれば、それだけで…………。」
グレイスの声は少しだけ掠れていた。
ジャンは……グレイスの横顔をじっと見つめたまま……、「ああ……。そうだな。」とゆっくりと噛み締めるように、一言だけ零す。
「そうだな……。それは、すごく、幸せなんだろうな……。」
ジャンの声には深い響きがあった。グレイスはそれに応えるようにゆっくりと頷く。
「ええ…勿論です。今の貴方ならきっと、私の助けなんかなくても…意中の方と好き合う仲になれますよ。私が、保証します。」
「…………そうだな。ありがとう。」
「いいえ、本当のことですから………。」
グレイスは目を閉じて、ジャンが自らの子供を抱いている姿を瞼の裏に描いてみせた。
優しい表情をしている。今まで、見たことのないような安らかな顔だ。
それを思ったときに、グレイスは……自分がこれから過ごす永遠の孤独な時間も、何だか耐えられる気持ちがした。
そうだ……ジャンは、生きているのだ。それだけで、本当に充分なのだ。
気付くと、グレイスの冷たい手はジャンの掌にしっかりと繋がれていた。
…………大きな掌だ。…それで、熱い。すごく熱かった。
グレイスは何だか耐えきれなくなって、また泣きそうになるのを懸命にこらえた。
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