十五・黒いケーキ 下
「おいグレイス、帰ったぞ。」
意気揚々と、オレは古びては馴染みの扉を開けた。………非情に上機嫌だった為、今日だけはいつも避けている奴からの抱擁を受け止めてやっても良い…なんて考えながら。
………だが、覚悟して構えたはいいが、一向にグレイスが部屋の中から飛び出してくる気配が無い。
いつもなら…やかましいほどに騒ぎながら、オレの帰りを喜んで駆けつけてくれるのだが。
「………………?」
不思議に思いながら、部屋の中に足を踏み入れる。
しん………としていた。そして、暗い。
これは、陽が沈みかけて夜の訪れが始まっていることばかりが原因では無いのだろう。
そして冷たいグレイスの気配が無いからか。異様に空気がこもって、蒸し暑かった。
オレは、ケーキの入っている白い箱をテーブルの上に置き、換気の為窓を開けた。不気味な藤色の雲が空には渦巻いている。
そして今一度部屋の中を振り返り、辺りを見回した。…………グレイスの、姿は見当たらない。
「……………………。」
無言で、几帳面に整えられたベッドの上、毛布をめくる。まっさらなシーツが視界に飛び込むばかりだった。
……………掃除道具入れの中。あれは人が入れるくらい大きかった。もしかしたら自分を驚かそうとして隠れているのかも知れない。
時計の音が変に部屋の中に響く。道具入れの中をあらためた。黴くさい匂いが鼻につくだけである。
衣服の収まった、引き出し。あり得ないと思いながらも、床に引かれたマットの下。更には壁にかかった名も知れぬ画家の描いた絵画の裏まで確かめた。
…………影も、形も無い。
いよいよ部屋の中は静寂が押し寄せ、時計の秒針が一際大きく響いて時を刻む。
陽は落ち、室内の闇は刻一刻と鮮やかに色濃くなっていく。
そこへ忽然と、壁時計が低く鳴り始めた。はっと思った。目眩がひどくて息を呑む。時計が二つ目の音を刻んだ。
「…………おい!!グレイス、どこ行った!!!!」
裏返りつつも、大きな声を張り上げて、名前を呼ぶ。………時計の低い音が残響するばかりで、何も返してくれるものはない。
(どこ……行ったんだ。)
どうしようもない不安が身体の中からせり上がり、下唇を噛む。
そうしているうちに一寸先が見渡せないほどの暗さが辺りを蝕むので……オレは、テーブルの上のランプに火を灯す。
………だが、どういう訳だか部屋はまったく明るくなった気配がしない。
(まあ……その内帰ってくるだろう。あいつが帰る場所なんて、ここしかねえし……。)
考えては、ベッドに腰掛けて天井を眺めた。……相変わらず、そこにはひどいひび割れが走っていた。
(早く、帰って来い。)
いつもみたいに、馬鹿みたいにオレのことを好きって言いながら、笑いかけて来て欲しい。
…今夜だけは、近くで寄り添って寝てやっても良いからさ。
……それに今日は、お前の好きそうなものだって、買ってきてやったんだ。
もし気に入ってくれたなら明日店に連れて行ってやるから、……あの女店員にまた会わなくちゃいけないのは若干抵抗があるが…
服だってそこそこ良いもん買ってやろうと思っているんだ。……だから、どうか、
奴への思いを滔々と脳内に垂れ零しながら、オレはベッドに身体を沈ませた。
部屋の中に這い寄る闇は、ランプの光を物ともせずに、更に濃く、重く漂って行く。
*
(……………っけね。)
しばらくして、オレは身を起こす。
どうやら寝てしまったらしい。外の陽は完全に落ちて、すっかり真っ暗になっていた。星も月もない。真実に暗闇の夜だった。
開け放した窓からは緩やかに風が吹き込んでくる。
…涼しい。
陽が出ているうちはまだ夏だと感覚できるのに、夜になるとそこはもう秋の気配が満ち満ちていた。
(……………………。)
オレは、雨戸を閉める為に立ち上がる。
………ここ数週間、こういった雑用は全てグレイスが行ってくれていた為に、ひどく…懐かしい行為をしているように思われた。
夜の中…日の光は消えたものの、闇の向うに煙っているまだ花盛りの夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気にざわめく薄明かりを投げ掛けていた。
それを眺めた後…ふと、テーブルの上、真っ白い箱の隣に何かが置かれているのが目に入る。
…………無言で、摘まみ上げた。きっちりと畳まれていたそれは解けて、ぺらりと風に揺らされてはオレの掌に馴染みのある感触を齎した。
いつも、奴がそでをまくって着用していたのにも関わらず、若草色のシャツには皺ひとつ寄っていない。畳まれた際の折り目が微かに確認できるだけである。
ただ、それを眺めて、立ち尽くす。
そして………何となくではあるが、全てを悟った。
「………………………。」
雨戸を閉める気力を失い、オレはそのままくずおれる様に椅子に腰掛けた。
頬杖をついてぼんやりとすれば、目に入ってくるのは真っ白い紙でできた箱。
手を伸ばしてその縁に指をかける。中々うまいこと開いてくれず、手こずる。
開かれた中では、店の中で見たものと寸分違わぬ姿をしたケーキの上で、黒い猫がこちらに向かってはやや釣り目がちで微笑んでいた。
……………ココアのスポンジに白いクリームがコーティングされたそれを箱の中から手づかみで取り出して、見つめる。
薄闇に浸る部屋の中で、ケーキは晒された真っ黒い生地の断面から溶け込んで消えてしまいそうだった。
そして、上に飾られたシロップ漬けのさくらんぼがひとつぶ、深い赤を辺りに鮮烈に放っている。まるで燃えているようだ。
オレは…皿もフォークも用意することなく、それにかじりついた。
……………異様な甘ったるさが、口の中に広がる。あいつは、こんなものをいつもありがたがって食っているのか。
べたついた感覚が臓器いっぱいに満ちていき、喉が、焼けた。
それでもオレはただ無心でそれらをのみこんでいく。
…………まるで、拷問だ。
ものを食べるという行為で、ここまで苦しい思いをしたことは、恐らくこれまでもこれからも、この一回きりだろう。
ついに食べ切るが、体が拒否反応を示して涙とともに吐き気がせり上がり、ひどく、咳き込む。
震える手で水をグラスに注いで一気に呷る。
悪夢のような感覚は遠のいたが、それでも最悪の気分だった。
椅子の背もたれに力なく体を預けて壁を眺めると、ランプの光がすみの方に不気味な影をこさえていた。
それを見ていると、ひどいやるせなさがこみあげてくるので、固く目を閉じた。
……………あいつが、いなくなったということは。何かが満たされたということなのだろう。
心残りが、なくなったっということだと、受け取って構わないのだろう。
…………………本当に?
本当に、そうなのか。
オレがあいつにしてやったことといえば、話すこと、ゲームに興じること、笑い合うこと。
本当に数えるほどの些細なことだ。
それだけで、本当にグレイスは満たされたのだろうか。
グレイスは…………幸せだったのだろうか。
瞳の奥がじんと熱くなり、火傷しそうにも感じた。そして胸の中も同じ様にちりちりと嫌らしい熱を孕みはじめる。
(ああ………。まただ。)
この感覚には…………、覚えがある。
ガキの頃には嫌と言う程隣り合わせな感情で、今だって気付かないだけで、ずっと傍に……………
……………口の中に残る甘ったるさと一緒にその感覚を嚥下するため、再び水を飲む。
一向に、気分はよくならない。
(……………さびしい。)
心の中、はっきりとそう呟いた。
ある意味、グレイスが死んだ時と同じくらい……種類は違えど、凄まじい喪失感が胸の中に下りてくる。
開け放した窓からは、まだ少しの湿り気を伴った風が流れて、頬を撫でる。
その感覚から…オレは漠然と夏の終わりを感じ取った。
(…………それに。オレはまだ、何かを伝え切れていない気がするんだ。)
それが何かは、自分の中で整理が付いていない為にうまく形にすることはできないが。
しかし確かに心の中にこの数週間根付き、いや、本当はずっとずっと昔から。
―――――――一際鋭く、虫の音が響いた。
ちりちりと透きとおった、ガラス玉を転がすような声をしている。
何の変哲も無い、夏と秋の間の、物憂げな一日の終わり。
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