十五・朝の風景
「おい、起きろ」
…………一緒に過ごす様になって、数週間が経過しようとしたある日の朝。
ベッドから上半身を起き上げたジャンは、隣で未だ丸まっているグレイスの肩を揺さぶっては起こそうとしていた。
「…………………。」
グレイスは軽く眉をしかめては身じろぎ…ようやく、その身を起こした。
しかしまだぼんやりとしているのか、瞳は焦点が定まっていない。
「…………しっかりしろ。」
ジャンは彼女の額を軽くはたいてまた声をかけた。
………別にこのまま寝かせていてもなんら問題はないのだが、自分だけ朝早い時間に…訓練の為に起きなくてはならないことを思うと、このままぬくぬくと奴だけを寝かせておくのはどうにも不公平な気がしたのである。
「…………おはよう…ございます。」
グレイスは、舌足らずの声で挨拶をしては気怠げに口元に掌を持って行くと、くあ、と小さく欠伸をした。恐らく意識は半分眠っているのだろう。
「………お前。眠れないし、眠らないんじゃなかったのか?」
呆れた様にジャンがベッドから抜け出しながら尋ねると、グレイスは……「そんなこと言いましたっけ…」とぼんやりしながら返答した。
「……………って、ジャン…!着替えるなら一言いってくださいよ……!!」
しかし、ふと顔を上げては眼前に広がっていた光景に、彼女の意識は一気に覚醒へと持って行かれたようだった。大きく目を見張ってあたふたとうろたえた後、急いでひび割れた漆喰の壁へと視線を送る。
どうやら。相変わらず、着替えを見てしまう事にはどうにも抵抗があるらしい。
「……別に良いじゃねえか…。減るもんじゃねえし…。」
ジャンはその慌てようを一瞥した後、何でもないように着替えを続行させる。
「貴方が減らなくても私が減るんです……!色んなものが……。
言ってくれれば見ないようにしますから、急に脱ぐのはやめて下さい…心臓に悪いです……。」
よく見るとグレイスの青白かった頬には微かに朱がさしていた。
……ジャンには、正直彼女の取り乱す理由がよく理解できず、とりあえずは「へいへい、スミマセンでした。気をつけますよ。」とのたまってみせる。
それに対してグレイスは何かを反論しようと振り返って口を開きかけるが、晒されたジャンの肌を前にどうやら言葉は行き場を無くしたらしい。大人しくベッドの上に座り直して壁の方を向く。そのくすんだ色をした髪からのぞく耳もまた異様に赤かった。
………ジャンは、なんとなくおかしくなって笑いをかみ殺す。
(やたらと積極的なくせしてこういうところは妙に潔癖なんだよな……。)
「お前…、最近たるんでるんじゃないのか。昔はオレより遅く起きるなんてあり得なかったじゃねえか。」
………ふと思い付いて、着替えながらこちらに背を向けているグレイスに声をかける。
「……確かにそうですね。まあ…でも良いじゃないですか。別に誰かに迷惑をかけるわけじゃありませんし。」
彼女は自分の髪先を指でもてあそびながら気の無い返事をした。
「オレが嫌なんだよ。一人だけいつも気持ちよさそうに寝やがってコノヤロー。」
脱いだ衣服をグレイスに向かってバサリと投げるが、それはこともなく受け止められてしまった。
………まるで背中に目でもついてるんじゃないかと思うほど鮮やかな所作である。ジャンは面白くない、と小さく舌打ちをした。
「…………明日はそこそこ早くにここ出るんだぞ。起きれんのか。」
ベルトを装着しながら少々苛立って尋ねれば、受け止めた衣服をきちんと畳んでいたグレイスの手の動きが止まる。
「そ……それは勿論です!!私が明日をどれだけ楽しみにしているか、貴方知らないんですか!?」
そして思わずジャンの方を見上げては必死な様子で訴えてきた。
………何だか、妙に切迫したその主張がいじらしく感じ、ジャンはとくに理由もなく頭を撫でてやる。
もう、この行為をすっかりお馴染みになっていた。
グレイスは以前は年上ぶっては落ち着いた素振りを見せていたが、その本性は実のところ非情に子供らしい面が多いことを、ジャンはもう充分過ぎるほど理解していたのだ。
「……分かってるって。だから、落ち着け。」
苦笑して言ってやればグレイスは、もう…、と小さく息を吐いてから眉根を軽くよせて睨んでくる。
おっと。怒らせてしまったか、と思ったが……相も変わらず彼女の頬にはじわりとした朱がさしたままだったので、どうやら本気では怒っていない……むしろ、本心は明日への期待で大いに満たされているに違いない…という結論に落ち着く。
…………どういう訳か、グレイスが戻って来てくれてから、ジャンの心には随分と余裕があった。
彼女がはっきりと自分の事を好きだと言ってくれたからだろうか。その理由を与り知ることはできないが、前は気に触って仕方が無かったグレイスの一挙一動がどれも微笑ましく思えた。そして出来るだけ離れていたかったのに、今はずっと傍にいたかった。
………そう思うからこそ、いつかは訪れる二度目の別れのことを思うと、胸が、痛んだ。
「グレイス、機嫌直せよ。」
その痛みが浮かび上がってこないように丁重に重しをつけて胸の内、底の方に沈めると、ジャンはベッドに腰かけるグレイスの隣に座った。古いベッドはそれに合わせてぎしりと鳴る。
「…………今日は、市街地で実習があるんだ。」
そして、仕切り直すように明るい声で話しかけた。
「確か、明日行く街の近くまで出るから……。何か、見て来てほしいものとかさ…好みの服の種類とかあったら、言えよ。探しといてやるから。」
そう言って再び髪にそっと触れる。……真っ直ぐな髪だ。曲がらず歪まず、重力に素直に従って床へと伸びていた。
しかしグレイスは…自分の髪をなぞって毛先までやってきたジャンの指を眺めた後に顔を上げ、実に訝しげな表情をして眺めてくる。
「……………なんだよ。」
それにお返しとばかりに眉を寄せてみせれば、グレイスは増々意味が分からないといった顔をして「あなた、本当にジャンですか?」と反応に困る質問をしてきた。
「………オレがジャンじゃなかったらなんだって言うんだよ。ジョンか?」
しっかりしろ、と言いながら応えてやると、グレイスはいえ…そういうことではなくて…と口ごもる。
「何だか…すごく優しくて、別の人みたいです。」
グレイスは不思議そうな表情をおさめて、ゆっくりと瞬きをした。
…………透きとおった、ガラス玉みたいな瞳だ。綺麗な色をしているな、とジャンは純粋に感心してしまい…しばらくそれを眺めた。
「…………なんだよ。優しくしちゃ悪いか?」
あんまりに真っ直ぐ見つめられることに照れてきたジャンは、視線を逸らしながら呟く。
…………グレイスが、小さく笑う気配がした。
「いえ……全然悪く無いです。…ただ、嬉し過ぎて…すごく幸せで、現実感ないんです。」
「存在自体が現実感ない癖によく言うぜ……。」
小さく息を吐いてからもう一度指通りの良い髪を梳き、ジャンは立ち上がった。
…………名残惜しいが、そろそろこの部屋を出なくてはいけない。時計も良い時間を指し示していた。
「…で、何見て来て欲しいんだ。」
グレイスがジャケットを着せてくるので、それに袖を通しながらジャンはもう一度尋ねた。
…………彼女は少し黙って、ジャケットに寄ったほんの少しの皺を丁寧に伸ばす。それからゆっくりと、口を開いた。
「ジャンが………良いと思うものを。」
そしてぽつりと呟く。
「ジャンが、私に似合うと思うものを見て来て下さい。………なんでも良いです。」
振り向くと、彼女は柔らかく笑っていた。
すっかり、この穏やかな表情も板について来たと思う。かつては彼女の笑った顔なんて本当に稀にしか見れなかったのに。むしろ最近では、例のしかめられた顔の方が珍しくなって来たかの様に思える。
「そういうのが一番困るんだよな……。」
腕を組んで、少し不機嫌な声色でジャンは応えた。
しかし、そう言いながらも、彼もまた笑っていた。グレイスが共に街へと行くのを楽しみにしている様に、ジャンもまた満更でもない気持ちで明日の訪れを待っているのだろう。
「………ごめんなさい。でも、本当にそれで良いんです。…だって、そうしたらジャンは今日一日、ずっと私のこと考えてくれるでしょう?」
グレイスはジャンの手を取って指を絡ますと、より笑みを濃くして彼の瞳を見上げた。
「………今日一日。私がどんな服が似合うのか、どんなものを喜ぶのか…そういうことを想像して貴方は過ごすんです。……想像しただけでも素敵だと思いませんか?」
ジャンの掌を握る力が僅かに強くなった。………相変わらず、冷たい。けれど、今はそれと同時に皮膚の柔らかさも感じることができた。
「………なにが素敵だ。そんな一日…考えただけでも悪寒がする。」
ジャンはうんざりとしつつもその掌を握り返してやる。…グレイスは目を細めては嬉しさを表現した。
「おや、それは残念です。」
そして空いてる方の掌でそっとジャンの頬を撫でた後、「…………そろそろ時間ですね。今日も頑張って来て下さい。」との言葉とともに、真っ白い指を名残惜しそうに離していく。
「ああ、いってくる。」
ジャンは、彼女にゆっくりと応えた。
その時、ふいに……本当に唐突に、かつて家にいた時によく目にした……朝、自分の父親が仕事に向かう際に母親と交わしていた愛情深い光景がジャンの頭を過った。
「………………………。」
そして、それと同じことを今目の前の人間にしてみたらどうなるか、とほんの少しだけ考える。
だが……勿論考えるだけで行為にうつすことはなく、一度微笑みかけるだけに留めた。
グレイスはジャンの曖昧な表情に少しだけ不思議そうにするが、やがて「いってらっしゃい。」と小さく零す。
………朝の別れの時、グレイスはいつも僅かに悲しそうな表情をする。
本人は隠そうとしているらしいが、長い付き合いのジャンにはそれがよく分かった。
だから出来るだけ安心させるように、「今日は少し早くに帰って来てやるよ。」と声をかければ、グレイスは「ありがとうございます。…でも、無理はしないようにして下さいね。」と穏やかに言葉を紡いだ。
そして、ジャンは自室の扉を開けて、いつものように訓練に赴く。
……………一方、部屋の中のグレイスは、ぴったりと閉ざされてしまった木の扉を眺めて、しばらくそこに佇んでいた。
やがてゆっくりと目を閉じて、「好き………。」とありのままを呟く。
再び震える瞼を開いた彼女の目の前には、相も変わらずびくともせずに閉まった扉がささくれた姿を晒していた。
そこから目を離し、グレイスは切り替える様に部屋を見渡して今日の掃除はどこから手を付けたものかと考え始める。
…………しかし、口からはひとつ、間抜けな欠伸が。
(本当……。ここ最近、眠いですね。)
もう一度欠伸をしながら窓の外をぼんやりと眺めると、百舌鳥が数羽ゆったりと羽を広げて青い空を横切って行くところだった。甲高い鳴き声が尾を引く様に辺りに残響していく。
(最近涼しくなって過ごしやすくなったからでしょうか………。)
グレイスは、自分の怠惰を叱る様に両頬を軽く叩くと、今度こそ掃除に取り組むやる気を奮わせるためにいつもの歌を、小さく口ずさんだ。
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