十五・歌 下

「ジャン、おはようございます。」


ゆさゆさと肩を揺さぶられて、オレは目を覚ました。



「………ん。」



ぼんやりとした頭を振って上半身を起こすと、朝の白い光に包まれた部屋の中でグレイスがこちらを見下ろしては笑っていた。



「お寝坊さんですね。………まだ時間には余裕がありますから、顔を洗ってらっしゃい。」


そして穏やかに目を細めた後、白いタオルを手渡そうとしてくる。



…………非常に曖昧な感情ではあるが、その時ふと…ほんの少し。幸せな気持ちが、胸を締め付けた。



思わずグレイスの瞳から視線を逸らして、自分の掌を見つめる。


そして、この手でもっと救える者が…救われる者があったんじゃないか…と漠然とした後悔に、…今更ながら駆られた。



「…………なあお前。何でそんなに幸せそうなんだ。」


視線はそのままで尋ねれば、グレイスは「貴方にとって都合の良い解釈をしてくれて構いませんよ。」と相変わらず楽しそうに笑った。



「オレの傍にいるからなのか。」


「おや自惚れの激しい事。」



グレイスは含んだ笑いを一度すると、オレの腕を引いてベッドの中から立たせる。


傍に、立って。改めて思う。………こいつ、こんなに小さかったっけ。



…………若草色の袖が、またずり落ちて来てしまっていたので、捲ってやりながら…「……服。」と、ぽつりと呟く。



「服………?」


不思議そうに、グレイスはそれを鸚鵡返した。



「服。………買いに行こうぜ。」


捲り終えて、彼女の瞳を見つめながら言う。

………グレイスの反応はいまいち鈍く、捲られた袖を弄りながら「いえ…これで間に合ってますが。お金ありませんし。」と応えてきた。



「馬鹿…。オレだってもう訓練兵じゃねえんだ。金なら……………。そこまで、高いもんじゃなければ、服の一着や二着、どうにでもなる。」


そこで、ふと。女物の服の値段の相場なんて自分は知らない事実に思い当たる。

……もしかして、男物の数倍はする代物だったらどうしよう…という不安に駆られるが…少々格好付けて言ってしまった手前、引くに引けなくなる。


「いえ………。でも。本当にいらないのですが。」


「お前がいらなくてもオレがいる。いつまでも中途半端な格好でいられてもこっちが落ちつかねーんだよ。」



グレイスの手の内からタオルを奪い去って、愛想無く告げる。


…………また。意地を張って裏腹なことを言ってしまったが………本当は、何かしてやりたくなったのだ。

こいつがオレのところに戻って来てくれた信じられない事実の、確かな…証拠が欲しかったのかも、しれない。



「……次の休みにでも街に行くぞ。あ……。でも待てよ。お前、知り合いに万が一姿が見つかったりすると面倒な事になりそうだな……。」


腕を軽く組んでグレイスを見下ろす。……彼女は未だに、きょとりとした表情でオレのシャツの袖口を弄っていた。



………少しして、グレイスは軽く息を吐く。それから、「その心配はありませんよ。」と視線をあげ、オレの瞳を見据えながら言った。



「だって私、貴方にしか姿は見えませんし。」


「………は?なんだそれ。」



予想外な奴の返答に、オレは思わず聞き返す。……しかしグレイスは至極当たり前の様に言葉を続けた。



「だって。………そういうものじゃないですか。私たちみたいな存在って。」



彼女は何故だか嬉しそうにしながら、オレの頬へと触れた。…ひやりとした感触に、皮膚が軽く粟立つ。



「触れられるのも、見えるのも…貴方だけなんですよ。」



そう言っては、グレイスはオレの頬からゆっくりと指を離す。



「だから、沢山触れてくれると嬉しいです。」



彼女はオレの手を取って、自らの頬へと触れさせた。……そして、殊更愛しそうに表情を和らげる。


安心し切ったその表情に、オレも少しだけ。ほんの少しだけ嬉しくなり…積極的にその青白い頬に、触れてやった。



嬉しいです、もっとして下さい、とグレイスが言うので…言われた通りに皮膚の円みに沿って、撫でる。


………体温は石の様に低いのにも関わらず、そこは柔らかかった。



しばらくしてから手を離すと、彼女の白い皮膚にほんの微かにではあるが、色味が戻った様にも思えた。



「次のお休みがすごく楽しみです。………ジャン、どうもありがとう。」


グレイスは満面の笑みで言う。その表情は、いつもより少し幼くて、可愛らしかった。



「………おう。」



微笑ましくなってしまったオレは…目尻を細めては、今度は頭を撫でてやる。


………グレイスが、くすぐったそうにした。それをもっと見たくて、もう一度撫でた。それから、二人で顔を見合わせて笑った。







「それじゃあ……今日も、頑張って来て下さいね。」


グレイスがオレにジャケットを手渡しながら、告げる。



「………ああ。」


受け取って、着る。………このまま部屋を出るのが、何だか名残惜しく感じた。



「今夜もまた、一緒にゲームをして下さいね。…他の皆がどうなったのかの話も、聞きたいです。」


「おう、いいぜ。きっと同期の奴らの所属先を聞いたらお前…腰抜かすぞ。」


「え…?どういう事です。エレンとミカサとアルミンの所属先は貴方と同じと予測できますが、それ以外は…」


「おっともう時間だ。行ってくるぜ。」


「ちょ、ちょっと…!待って下さいよ……!!一体どういう事です!?」


「夜のお楽しみだ。じゃあな。」



引き止めるグレイスの声を無視して、オレは笑いを殺しながら部屋を後にした。



………青空が澄み渡る今日の天気と同じ様に、その時の気分は至極爽やかだった。



そして今夜…訓練が終わり、またグレイスと会える事を思っては、どうしようもなく満ち足りた気分になるのである。







「………………もう。」


ぴしゃりと閉められた木の扉を内側から睨みつけながら、グレイスは実に不満そうな声を漏らした。



(………予想外の結果……?どういう事でしょう。皆、憲兵団か駐屯兵団へ所属する筈では…?)



その時のグレイスは、彼女にしては珍しい程に勘が鈍っていた。

故に、知り合いのほとんどが調査兵団への所属を選んだとはついぞ予想し得なかったのである。



(まあ……それは今夜ジャンからきっちり聞き出すとして………)



グレイスはジャンの寝相によって乱れたベッドシーツに視線を落としては、昨晩自分を隣に寝かせてくれた彼の優しさを思い出し、自然と顔を綻ばせた。


そして鼻歌混じりにシーツを外し、糊が入った新しいものを取り出してベッドの上に敷き直す。


………夏故に、少々汗を吸ってしまっている使用済みのシーツは籠へ収めた。……もう大分溜まっているので、今度一度にジャンに洗濯室にまで持って行ってもらおう。

全く……自分が来るまで、如何に彼がだらしない生活を送っていたのかは一目瞭然である。



(………ここまでズボラでは無かったと思うのですが……。)



ひとつ溜め息を吐いては、グレイスは今度は窓を大きく開け放つ。地上より少しだけ高い場所に据えられたこの部屋からは、訓練場を遠くに望む事ができた。


………もう少ししたら、あそこにジャンが現れるのだろうか。もしそうならば、じっと見つめて探し出さないと。


グレイスはくすりと笑みを零して、今度は窓下の日陰に梅雨の名残を感じさせている紫陽花へと視線を落とした。


ひと月程前の頃は、闇黒に月の影が差した程あっちこっちに目に着いたこの花も、ここ数年で少しだけ減ってしまった様に思える。



(今の季節……私たちの地元には、まだ、紫陽花は咲いていた筈……。)



少しだけノスタルジーな気持ちに浸るグレイスだったが、やがて部屋の中へと戻り、ハタキを手にしては棚の上であるとか、いつから…恐らく前の部屋の持ち主の時代から掛かっているのだろう…小さな絵画の額縁だとかの埃を落とした。


雑巾を固く絞り、昨晩ジャンと共に囲んだ机を湛然に磨く。今夜はここでどんなお喋りができるのかと予想しては幸せな気分になりながら。


床の塵を掃き清め、これもまた濡らした雑巾で磨き上げる。自分の顔がぼんやりと映る様な…そんな気分になるまで、しっかりと。


そして敷かれたマットの汚れを窓から叩いて落とし、綺麗に整えて元の場所に戻す。



段々と楽しくなって来たグレイスの口からは、自然と楽しげな歌声が漏れていた。



徐々に清められて行く部屋の中、それはよく響いていく。

幼い頃から、大きな声で…人前で歌を歌う事は下品だと…そう言った事に一際厳しく育てられたグレイスにとって、これは随分と久しぶりで、気持ちの良い行為だった。



(次のお休みは……ジャンと、お出かけ。)



朝にジャンが脱いで行った服をきちんと畳みながらそれを思うと、グレイスの冷えきった身体の内側からも穏やかな温もりが湧き出る気持ちがした。



………グレイスの歌声は、一際大きくなっていく。



恐らくこの声も、ジャンにしか聞こえない筈だ。……ならもっともっと大きな声で、その耳に届く様に歌わなければ。



数日前とは見違える程に磨き上げられた部屋の中で、グレイスはいつまでも楽しそうに懐かしい歌を歌い続けた。

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