十五・歌 上

「結局私には勝てませんでしたねえ」


グレイスは可笑しそうにしながら顔を覆って項垂れるオレの肩をぽん、と叩く。



「うるせえ…こんなの偶々だ、偶々。」

「その偶々がこうも続けば大したものですよ。………さあ。もう良い時間ですから寝ないといけませんね。」



グレイスは机の上に散らばったカードやら飲み物やら…そういうものを手早く片付け始める。



その表情は満ち足りて、とても幸せそうだった。……このまま、まさしく天に召されてしまいそうなほど。



「ジャン。そのままでいると机で寝ちゃいますよ。早いところベッドへいきなさい。」


腕をぐいと引っ張っては未だにショックから立ち直れないオレを立たせるグレイス。

……その掌は冷たく、ゲームの駆け引きで興奮しきった身体を冷やしてくれるようだった。



「分かったって………ああ、疲れた………」



弱々しく言うと、奴はくすりと笑ってはオレの腕から手を離す。



「おやすみなさい。ランプ、ちょっと点けてて良いですか?」

そして火を小さくしながら尋ねてきた。



「………良いけど…。お前、真っ暗だと寝れない様な可愛いタイプだったか?」


歯を磨こうと流し場へ向かわせようとした足を止めて、尋ね返す。


グレイスは黒が濃くなる部屋の中、優しく目を細めた。



「………だって。夜中、私一人真っ暗な部屋で起きててもつまらないじゃないですか。せめてジャンの寝顔でも観察しようと思って…」


「気色悪い事はやめろ」



オレはどこかげんなりとして、「お前も寝れば良いだろ」と当たり前の事を言う。


…………言った後で、そういえばこいつに睡眠や食事は必要あるのだろうか、という考えに思い当たる。そういえば、今夜も。水しか飲んでいない。



考えをそのまま声に出して聞くと、グレイスは小さく息を吐いて「お察しの通り、私は眠りませんし…恐らく、眠れませんよ。」と返答してきた。


「いや…でもお前、今朝はオレの隣で寝てたよな?」


更に質問を重ねると、グレイスの笑みは何故か色濃くなる。

………オレは嫌な予感を覚えて二、三歩後後ずさりした。



「それはもう……ジャンが私の隣で寝ていてくれたから、安心して気持ちよくなって奇跡的に眠れた…に決まってるじゃないですか。」


ね、と言いながらいつの間にか距離を詰めたのか…オレの傍に身体を寄せて楽しそうに頬を軽くつついてくるグレイス。


背筋に凄まじい寒気を覚えて、衝動的に奴の身体を突き飛ばそうとしたが…勿論それはひらりと躱されて、掌が空を切る。



「今夜も一緒に寝てくれるなら、よく眠れるかもしれません。」


どうでしょう?と今度はオレの背後に回って耳元で囁かれる。思わず「っっはああああ!!??」という頓狂な声がオレの口から漏れた。



………何なんだ。触れてくるグレイスは相変わらず冷たいのに、体内にはじわりとした火が灯った様に熱くなっていく。

それを悟られない様に、強引に奴の身体を自身から引き剥がした。



「こら、ジャン。夜に大きな声を出しては隣の部屋の方に迷惑ですよ。」


………くそ。こんな時だけ真面目な面に戻りやがって。……というか。キャラ変わり過ぎだろ。



「うるせえ誰の所為だと思ってやがる…!とっとと成仏しろ、塩撒くぞ!!」


「掃除が大変だから止めて下さいまし。それに撒くなら砂糖の方が嬉しいです。」


「この期に及んでまだ砂糖かよ!?」


「だから大きな声出しちゃ駄目ですよ。ほら、歯を磨いてらっしゃい。
………それとも、磨いて欲しいんですか?まったく、いつまでたっても甘えたですねえ。」


「んなわけあるか!!しね!!!」


「しんでますったら。」



…………先程のゲームの疲れと、今の口論で……二倍に疲れたオレは、とにもかくにも流し場に向かう事にした。


その背後から、グレイスの「早く帰って来て下さいね、」という楽しそうな声がする。


振り向かずに片手をあげてそれに応えては…オレは、盛大に一度、溜め息を吐いた。







「……………だから。当たり前の様にベッドに入ってくるなよ。」


にこりとした顔を崩さずに、するりとオレの隣に収まろうとするグレイスの肩をぐいぐいと外へ押し出す様にするが…奴はとくに気にした様子なく、「良いじゃないですか。昔もよく一緒に寝たでしょう?」と言って更に強い力で押し返してくる。



「まあ。………起きてても良いですが、それなら朝までずーっとあなたの顔をつぶさに観察したり撫でたり色々したりしますが…それでも構いませんか?」


「言い訳ねえだろこのへんた…」


怒鳴ろうとしたオレの唇に、グレイスのひやりとした人差し指の先があてがわれる。


しー、と小さな声で言われ…、また。グレイスは微笑んだ。



「静かに。もう寝ましょう?」


艶っぽいその表情に…理由は分からないが何も言い返さなくなる。


本日何度目かの溜め息を吐き…身体がひとつ分収まる様に、脇にずれてやった。……グレイスは表情に喜びを浮かべながら、「ありがとうございます。」と礼を述べる。……本当に心から嬉しそうに。



「………つめてえからあんまり傍寄るなよ。」


愛想無くそう言えば、グレイスは「……………。分かりました。」と非常に残念そうな声色で告げる。

どうやらくっついてくる気は満々だったらしい。…先手を打っておいて良かった。



…………ランプの光を完全に落とした室内は、しんとしていた。


グレイスは本当に死んだ様に…物音ひとつ立てず、言われた通り触れる事も傍に寄ってくる事もしないでただ、隣にいる。



もう、寝ているのだろうか。



横目でちら…とその方を見るが、グレイスは向こうを向いているのでそれを与り知る事はできなかった。



す…と手を伸ばして、シーツの上に緩やかに広がっている彼女の髪に触れる。…無意識の行動だった。



(………………。)



何も考えずに、しっとりとした髪に指を通す。…部屋の闇はいよいよ濃い為によく分からないが、馴染んだあの色をしているのだろう。



「どうしました。」



ふいに声がして、オレの手の動きはぴくりと止まる。


………起きていたらしい。


小さく笑う気配がしたと思うと、グレイスはゆっくりと体の向きをこちらに変えてくる。


てっきり寝ていると思っての行動だったので、気恥ずかしさに急いで掌を引っ込めた。


しかし…何をしていたのかはどうやらバレバレの様らしく…暗闇の中でも、優しい色をしたふたつの瞳がオレに視線を注いでくるのが分かった。



「眠れませんか?」



穏やかな声色である。……淡くではあるが、吐息も感じる事ができた。



「いや…別に………。」



焦りから、少しだけ言葉が裏返る。しかし、一方のグレイスはオレの挙動不審な様子はまるで気にしていないらしい。

更には「………眠れないなら、子守唄でも歌ってあげましょうか」と穏やかにのたまってみせたりする。


何だか。……奴がここに来てから、オレばかりが翻弄されている様で少しだけ腹が立った。



(これじゃあ……まるで、)



「遠慮しなくて良いですよ。私、歌には結構自信あるんです。」


昼と変わりなくふざけた口調をしているが…オレに言われた通りに、傍に寄ったり、触れてくる事はしない。

性格は少し変わった様に思えるが、こういう律儀さは相変わらずなのだろう。



(私の恋は終りました………か。)


ふと、グレイスの声が頭を過った。何かが堪らなくなり、下唇をぎゅっと噛む。



「ほらジャン…。目を閉じて。ゆっくり落ち着いて………、そうすれば、自然と眠気はやってきますよ。」



何も言わないオレに、グレイスは静かに囁きかけてくる。


………言われた通りに目を瞑ると、確かに僅かではあるが眠たい気持ちになってきた。



少しして………本当小さくではあるが、耳元で微かな歌が呟かれるのを聞いた。



………掠れて色褪せて、まるで古い写真の様な声だと思った。


鮮やかな色も飾り気も見当たらないが、優しくて懐かしい。



(…………音痴。)



心の中で呟いては、オレは寝返りを打って奴に背を向けた。


その間も、小さな歌はほそぼそと闇の中で続いていく。夜と一緒に身体に染み入る様な。そんな、しっとりとした声だった。



少しだけ微睡み始めた頃、「おやすみなさい、ジャン」と囁かれて、歌は止んだ。


………それからの事はよく覚えていない。どうやら自然と寝てしまったらしい。



開け放してあった窓からは、沙椰とした風が吹き込んでくる。


隣に体温の低いグレイスがいるからだろうか。嫌になる程の蒸し暑さもその晩は全く気にする事もなく、眠れた。

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