十五・夕刻、蝉時雨 下

「………何だか……少し、意外です。」


長い沈黙の後、オレの身体にも恐る恐ると言った体で腕が回って来た。

グレイスはゆっくりオレの身体へと体重を預けてくる。冷たい奴の体温も、長い間オレに触れる事によって…幾分、温くなっていた。



「まさか、貴方が自分から謝ってくれるなんて……。本当に、意外です。」


グレイスはそろりとした動作で顔を上げた。………お互い、瞳と瞳の距離が近い。


いつでも触れ合える場所にいたのに、こんなにも近くで…視線を実感として覚える事ができる程に近付いたのは、もう何年ぶりなのだろうか。



「………成長したんですね、ジャン。」

私は嬉しいですよ、と言ってグレイスはオレの事を抱き締める力を強める。



「…………うるせえよ。お前、一年しか年が変わらない癖して、いつも偉そうなんだよ…。」

口ではそんな事を言いつつも、オレもまたグレイスを抱き締める力を強めていた、と思う。



「おや。一年もあれば種子だってそこそこの樹木になりますよ。」

…………グレイスは、心から幸せそうだった。そうか…たった、これだけの触れ合いでこんなにも嬉しそうにしてくれるのか。……それなら、もっとしてやれば良かった。


今更…遅いのだろうか。


…………遅いん、だろうな。



少しして、「痛いですよ、ジャン。力が強過ぎます。」と、これもまたこそばゆそうな声が胸の内でする。



オレは奴の言葉に…ようやく自分が今何をしているかに思い当たり、慌てて腕を引っ込める様に離した。


「わ、悪い…。」と謝れば、グレイスは尚も明るい表情で、「いいえ、すごく嬉しかったです。…もっとしても良いんですよ?」と両腕を広げて見せる。



……………無言で見つめ合った後、オレは満面の笑みを浮かべる奴の頭を軽く叩く。…理由も無く苛ついたのである。



「………うるせえよ…。」


そう言いながら、涙やら鼻水やら汗やら…もう、何なのかよく分からない液体を袖でごしごしと拭う。


ああ…格好悪いったら無い。こんなにも号泣するつもりは微塵も無かったのに。



「おや、しないんですか?ここには私しかいないんです。今のうちに甘えておかないと損ですよ?」


グレイスはくすくすと口元に軽く手をあてながら、何処からかタオルを持って来ては渡してくる。

……もう、この部屋は彼女にとっては勝手知ったるとなっているのだろう…。



「誰がするか…。お前なんかに。……気持ち悪りい……」

それを引ったくる様にして、ごしごしと顔を擦る。……涙の跡で、頬がひりひりとした。


「おやおや、さっきまで私の事、力一杯抱き締めてくれていたのは誰ですか?」


「だからうるせえよ…!そんなもん、少しの気の迷いだ、馬鹿野郎……」



グレイスは小さく溜め息を吐いては、また緩やかに唇に弧を描いた。……本当に、何故ここまで余裕なのだろうか。達観している………?いや、少し違うな…………



「全く貴方は……歯に衣着せない人のふりして、肝心な所でいつだって素直じゃ無いんですから…。」


溜め息混じりに…水を飲みますか、と尋ねられたので無言で首を上下に振る。



……………埃が溜まっていた水差しも、丁寧に清められては水で満たされていた。


グレイスが、そこからグラスへと透明な液体を注いでいく。……何でも無い光景なのに、ひどく安らかなものに思えた。



「…………そんな事じゃあ…好きな女の子に気持ちを伝える時に、どうすると言うんです?」

グラスをこちらに差し出しながら、奴は小さく首を傾げては尋ねてくる。



「どうするってお前……」

………水で満たされたグラスから、グレイスの顔へと視線を移した。

…。まるで、同じ位に透き通っていきそうな色をしていて、ぞっとする。



「貴方、いつもそれで失敗するじゃないですか。もしも次があるのなら…今度は自分の気持ちを見誤っちゃ駄目ですよ。
………もう、私がジャンの恋路を応援したり助けたりする事はできないんですから。」


オレは奴の掌の中から、ようやくグラスを受け取った。………中身を喉に流し込む。よく、冷えていた。


どこからかひぐらしの鳴く声が聞こえた。高く、低く…重なり合って、部屋の中へともつれ込む様に音は侵入してくる。



「何でだ。………焼きもちか?」



斜陽の部屋の中…空になったグラスに視線を落としながら、聞いた。



「それは大いにありますね。…けど、少し違います。言ったでしょう、私の恋はもう終っているって。」



グレイスの顔の陰影は濃かった。…けれど、彼女がやはり笑っている事だけは見なくても、よく分かる。



「ジャン、私、死んだんです。」



窓の一際近くで、日暮しが朗らに鋭どい声を立てた。


しばらく、それに耳を傾けた。静かながらひどく焦燥を煽る鳴き声だ。



「…………………知ってる。」



グレイスに背を向けて、グラスを脇のテーブルへと置いた。…結露がその周りに丸い染みを作っていく。



「………。お前、何でここにいるんだ。」


そのまま、一番に疑問に思っていた事を問う。グレイスがオレのすぐ後ろへと寄る気配がした。



「私にもそれは分かりません…。それでも…シーナ、ローゼ、マリア。果たしてどの女神様の気まぐれかは分かりませんが、確かに私はここにいるんです。」



「………それは迷惑な話だ。……いつになったら成仏するんだよ……。」



背中に、ひやりとした感触。どうやらグレイスがオレの背中へと寄り添ったらしい。

………本当、嘘みたいに積極的で自分の気持ちに素直だ。


今なら、その理由が何となく、分かった。



「きっと………未練が無くなったらだと思います。物語の中とかでは、私みたいな存在がいなくなる要因は…そう言ったものでしょう?」


「未練………?」


「はい。…………私にとっての未練は、ジャンと、もっと仲良くしたかった事です。」



腕が、後ろからオレの身体へとそっと回る。


…………その行為の真意に気付き始めてしまったからこそ、もう…抵抗はしなかった。



「いずれ、触れ合えなくなります。その時が訪れるまで…この一夏だけでも、どうか私と…少しだけでも良いんです。仲良くして下さい。
…………ちょっとでも良いから、笑いかけて欲しいんです。それだけで…充分です。」



グレイスの声はしっとりとしていて、ひぐらしの声を背景によく、響いた。



…………そうだ。諦めだ。


グレイスは、諦めているんだ。諦めざるを得なかったんだ。



………生きて幸せになる事を。



だからこそ、最後。…ようやく、素直になって…オレの前に。



「仕方ねえ……。少しだけ、お前に…付き合って、やる。」



だが、生きているオレは未だにこれだ。


……馬鹿は死ななきゃ治らねえ、ってのは…本当なのかもな。


オレも……お前も。



「ありがとうございます………!とっても嬉しいですよ、ジャン。………大好きです。」


青白い腕が、オレを愛しそうに、強く、抱き締める。



……………死んでも尚、グレイスはオレに片恋をしているのか。適わないと分かり切っていながらも、尚。



「お前………。本当、馬鹿。」


オレが呟いた声は、グレイスには届かなかったらしい。



彼女はただ嬉しそうに、「大好き」と、十何年募らせ続けた想いを…優しい声で繰り返し繰り返し紡いで行く。

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