十五・兆し
……………涼しくて心地良い。
おかしいな。この季節は高い湿度と気温によっていつも満足に眠れもしないのに。
そして。懐かしい匂いがした。
……………声もする。……これは、誰の声だったか。
それに呼ばれる様に、オレの意識は現実へとゆっくり浮上していく…。
目を開くと、そこにはいつも通りの……変わり映えの無い古びた漆喰の天井が広がっていた。
しばらくぼんやりとそれを見つめていたオレだったが、思考がはっきりとしてくると同時にマズい、寝過ぎた…という感覚を覚え、一気に体を起こす。
壁にかけられた時計を見れば、予想通りそこには起床すべき時刻を大幅に過ぎた時間が刻まれていた。
ベッドから床へと足をつけ…大急ぎで服を着ようとそこに散らばっている……昨晩、寝苦しさから寝ぼけつつも脱ぎ捨てたのだろう……服の中からシャツを発掘するが、その際に。………後ろで、何かが動く気配がする。
(え……………?)
……………間違えでは無い。確かに…背後。今まで自分がいたベッドの中で、何かが動いた。
良い知れぬ不気味な予感を抱いて…ゆっくりと後ろを振り返ろうとする。
それと同時に、先程、夢の中で聞いた様な…そして随分と聞き慣れた声が、した。
「いくら夏だからといって何て言う格好で寝ているのです。……恥を知りなさい。恥を。」
「………………は。」
そして振り返った際、目に入ったもの。…………何者なのか、一瞬理解できなかった。
しかし。確かに見覚えが。…………見飽きる程知っていて、忘れようとしても忘れられなかった輪郭が、確かに、今。
「………ジャン!起床時間はとっくに過ぎているでしょうか!!一緒に寝てしまって起こせなかった私も私ですが、ひとりで起きる事ができないなんて貴方それでも一人前の兵士ですか!?それとも貴方のお母様をここに呼んだ方が良いでしょうか?ジャンにはまだ優しく起こしてくれる方が必要ですって「だああああああ!!!!うるせええええええええ!!!!!」
…………一瞬、溢れ出そうになった涙は見る間に引っ込んだ。
何だ。何なんだこの非常識。
だって、一度お前は死んで……でも目の前にいて……そして何故か、説教されるオレ。
こ、こんな理不尽が許されるのだろうか?
「……ってか。お前だって今気付いたけどなんつう格好してんだよ!!そっちのが恥を知れよこの痴女!!」
でも。その瞳の色はよく馴染んだ色をしていたし、左目の下には、黒子がある。
いや…例えそんな表面上のしるしが異なっていようとも、オレには分かった。これはどういう訳だか…確かにグレイスだ。
………未だに夢を見ている様な気分になる。
いや、………やっぱり。グレイスが死んだなんて…オレの悪夢だったのだろうか。それともこれが夢なのか。……最早、どちらが本当かすら分からない。
「仕方ないじゃないですか!!制服のまま寝ちゃったら皺になるでしょう!?貴方と同じに半裸じゃないだけ感謝して欲しい位です!!!」
「いや……寝間着着ろよ。」
「………着れるなら着たいものですよ、私だって。でも無いんです。仕様が無いじゃないですか。」
「………無い?」
「だって、貴方が全部処分したんじゃないですか。私たち二人のものを全て。」
(あ……………。)
グレイスはそろりと毛布の中からその身を起こし、オレの目の前に立つ。
…………頭ひとつ分、背が低いので。オレの事を見上げる様にしている。
相変わらずその眼光は鋭い。……しかし、今は少しだけ物悲しい色を宿していた。
「………辛い事を、させてしまいましたね。」
グレイスはそっと手を伸ばしてはオレの頬に触れた。………ぞっとする程冷たい。人間の体温では、無かった。
その時にオレは……こいつが死んだのは、確かに夢では無かったのだなあ、という事を今更ながら思い知る。
では。今の状況は何なのか。死んだ人間が、何故オレの目の前にいるのか。
また……幸せな夢を見ているだけなのなら、今すぐにでも覚めて欲しかった。
これ以上に残酷な仕打ちは、もう沢山だ。
「…………ジャン。」
俯いてしまったオレの両頬に氷の様に冷たい掌が触れて、ゆっくりと彼女の方へと向かされる。
………下履きから覗く腕や胸は…ふっくらと柔らかそうなのに、病的に青白い所為で艶かしさは全くと言って良い程感じない。
それがまた、痛々しかった。
「ジャン。……私は今、色んな偶然と幸運が重なってここにいます。貴方とは決して相容れない存在ではありますが、それでも。ここにいるんです。」
グレイスはオレの頬からゆっくりと手を離しては、いつの間に畳んだのか…きちんと整えられた制服をオレへと差し出す。
「…………私は嬉しいです。貴方にもう一度会えたのが。……大好きな、他でもない貴方の傍にいられるのが、何よりも嬉しいです。」
柔らかな表情だった。
もう、いつぶりに彼女のこんなに穏やかな笑顔を見たのだろう。……まるで昔に戻った様な気分だった。
「大好きって……お前………。」
奴の口からはまるで聞き慣れない言葉に、遂々顔に熱が集まっていくのが分かる。
グレイスはにっこりと笑いながら、「照れてくれるんですか、嬉しいです。」と上機嫌に言いながら何でも無い様にオレの体にシャツを着せてくる。
「おい、ちょっと……やめろよ、自分でできるから……!!」
「何が自分でできるですか。もう時刻は相当良い時間を差してますよ。手伝ってあげますから早くに準備をしなくては。」
「いや…大丈夫だから、っておい!やめろってば!!朝食抜けばまだ時間に余裕が「何てことを言うんですか!!!」
グレイスが憤りの声を上げながらオレのシャツを第一ボタンまでしっかりとしめる。息苦しいしダサいのでやめて欲しかった。
「……何てこと言うんですか。朝食を抜くだなんて…普段からそういう不健康な事をするから…、ああ、貴方また痩せましたね!?これ以上痩せたらみますます細面になって馬に似た顔に「だからうるせえええええよおおお!!??」
第二ボタンくらいまで一気に開けながらオレは奴へと噛み付く様に怒鳴る。
グレイスは眉間に皺を寄せつつ、「ご飯をきちんと食べない貴方が悪いです。食らえるタダ飯ならしっかり食べておかなければ…将来元気な子供を作れませんよ。」と再びボタンを一番上までしめ直してくる。……もう駄目だ。ボタンは後で緩めよう。
「子供ってお前……。随分と気が早い事言うな。」
呆れながらズボンを履きかえる。………何恥ずかしそうにしてるんだこいつ。半裸は良くて着替えは駄目なのか。基準が分からん。
「そりゃあ言いますよ。早いところ素敵なお嫁さんを見つけて、子供を作り…貴方のお母様を安心させてあげなさい。」
グレイスは、オレがきちんと服を着替え終えた事を横目で確認すると…今度は立体起動のベルトの装着を手伝ってくる。
………いちいち抵抗するのに疲れて来たオレは、もう…グレイスの成すがままにさせていた。
「きつくないですか?」と尋ねてくる奴に生返事で相槌を打ちながら…そう言えば。こいつはオレの事が好きだったんだ…という事実に思い当たる。
でも………嫁を見つけて、子供を作る…?まさか、こいつと、という意味では無いよな。
だって……もう。
「ジャン。」
床に膝をつき、腿のベルトの締め具合を確認しながらグレイスがオレの名を呼ぶ。見下ろすと、ぴたりと目が合った。………やはり、笑っている。
「………私、貴方が好きです。……大好きですよ。」
オレの胸の内を見透かした様に、いつかと同じ言葉を繰り返す。
「でも、それが貴方の事を苦しめる結果に繋がるのなら、もう良いんです。………どのみち私の恋はもう、終っていますから。」
そう言いながらグレイスは立ち上がり…自身の首元を、指でなぞる。
石灰みたいに白い首筋だった。けれど、薄く…ではあるが、赤い痕が横に真っ直ぐ、走っていた。
「…………忘れて下さい。言うつもりは、無かったんです。」
グレイスは、ほんの少しだけ目を伏せた。………しかし、相変わらず穏やかな表情だった。まるで全てに納得しきっている様な。
「ごめんなさい。……それだけが言いたかったんです。ずっと……心残りでした。」
もう一度、オレの瞳の中をしっかりと覗き込みながら、グレイスは言った。
(あ……………。)
…………オレは、言うべき事があったのを、その時。ようやく思い出す。
それと同時に……頭の中には、且つてこいつに言い放ってしまった言葉の数々が波の様に押し寄せてきて、ひどい目眩がした。
「さあジャン。良い加減にしないと本当に遅刻してしまいますよ!!朝ご飯はちょっとでも良いから食べる事。良いですか?」
しかし…言葉を探すうちに、グレイスはもういつもの調子を取り戻しては人差し指をぴしりと立ててオレに言い聞かす様にする。
「さあ、行ってらっしゃいジャン。今日も頑張って下さいね。」
口を開きかけては閉じてしまうオレの不自然な動作に気付かないのか、グレイスは構わずにオレを部屋の出入口までぐいぐいと押して行く。
…………その掌は、相変わらず冷たかった。
「あ、あのグレイス…!!」
ようやく声を絞り出しては振り返るが、間髪入れずに奴がオレのジャケットを鼻先に突き出してくるので続きの言葉は引っ込んでしまった。
「ほら、これも着て。急いで下さい、もう時間です!」
「い。いや………あの。」
「つべこべ言うんじゃありません!!駆け足!!!」
掌をパァン…と打ち鳴らしてにべもなく急かされるオレ。………これ以上は、どうやら何も聞き届けられない様だ。
仕方無く、オレはグレイスを一瞥しては部屋の扉を開ける。
…………その後ろから、「体には気をつけて下さいね。」という穏やかな声が、した。
「…………グレイス………?」
もう一度、振り返る。
そこには、ただ。見覚えのある…散らかった部屋が広がるばかりで…人の面影など、どこにもなかった。
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