十五・逃げ水 下

……………まさか、ありえない。



これが繰り返し、頭の中を巡る言葉だった。



だって、オレは見たんだ。



腕がひしゃげ、脚がもがれ、胸が潰される様を。



まるで子供に解体される昆虫の様に容易く、少しずつ取り返しのつかない姿になっていく様を。



だから違う。…………違うんだ。



オレはまた、幻を見ているに違いない。



期待なんてするだけ無駄なんだと、何度自分に言い聞かせれば。



それでも……確かにオレの瞳は、人と人の汗ばむ肉の壁の隙間に、懐かしい面影を捕えていた。



―――――――くすんだ色の髪が、暑苦しく濁った空気の中、揺れる。



脚が縺れた。額から汗が滑り落ちてくる。渇いた喉が焦げ付いた。



……………これは、夏の昼下がりが見せる一時の幻だろうに、何故俺はこうまで必死に奴の面影を追いかけているのだろうか。



蝉が、悶え狂う様に鳴いている。



追いかけて、走って……進んでいるのか、戻っているのか、それすらも分からなくなってきた。



ただ、視線の先には……オレの辿り着くであろう場所には、あいつがいる。間違いなく、いる。



それだけで、充分だと思った。



―――――――景色が、変わった。



見覚えの無い建物。そうか、ここには新しく家ができたのか。



街も、気付かない内にどんどん変わって行く。



人は去り、また別のものがやってくる。



そうやって世界は滞り無く回って行くのに、自分だけが取り残された様な焦燥感。



………そもそも。何故あいつがこんな所にいるのか。



生きているのなら、何故オレの元へ帰って来ないのか。何故俺に、一目でも良いから会いに来てくれなかったのか。



様々な事が脳内を埋めて行くが……とにかく今は、そんな事はもう。………どうでも良いんだ。




辺りから、音は消えていた。



あれだけやかましかった蝉の音も、今や息絶えた様に静まり返っている。まるでこの世の終わりに足を踏み入れた気分だ。



色もまた、消えている。世界は灼熱の太陽が作り出す白と黒色しか見当たらない。



……それでも、目の前をゆらめく、そのくすんだ髪色だけは鮮明に焼き付いて消えてくれなかった。



道ゆく人すら、誰も、いない。



身体の軸が抜けた様に、ふわりふわりと漂って行くあいつと、汗にまみれて息を切らすオレ以外。



……………暑い。そろそろまずいな。頭がぼんやりしてきた。



そう思った矢先……昔から変わらず姿勢の良い背中は、良く手入れされた植え込みの角を曲がって行く。



木槿の花だ。白い花弁、芯の周りだけ毒を飲んだ様に紅い。



オレもまた、そこを曲がった。日差しが強い。最早暴力の域だ。



二人の距離は、あと僅か数歩。



風が凪いだ。まるで時が止まった様だ。



夢とうつつが歪んで溶け合って、もう、何処に立っているのかさえも分からない。



――――――――腕を、掴んだ。



そして、握った瞬間、絶望した。




これは、違う。








「……………あんた、誰?」



聞き覚えの無い訝しげな声と共に、一気に辺りに音が戻ってくるのが分かった。

先程と同じ、悲鳴の様な蝉の鳴き声が、周りを次々と取り巻いて行く。



オレの事を振り向いてはじっと眺めてくる女の瞳は…鮮やかな青色をしていた。


奴とは、似ても似つかない色だ。左目の下の黒子も見当たらない。顔立ちだって、輪郭だって…少し見れば、全く違うと分かるのに。



オレは…握った腕を離す事も忘れて、ただ…信じられない気持ちで、その青い瞳を呆然と見つめた。



「…。用が無いなら、離してよね。」



何も応えないオレに対して、眼前の女は汚らしいとばかりに腕を振りほどく。



…………オレの頭は、未だ混乱していた。



そんな。…………だって。いや。間違いなく、ここにいた。



ここにいた筈なんだ………。



グレイスは、ここに、オレの手が届く場所に、確かにいてくれた筈なのに…………!!



体中から汗となって絞り出されてしまった筈の水分が、じわりと瞳から滲み出すのを感じる。



………それは、流れ出る事はしなかった。いつまでも眼球の裏にわだかまり、麻痺した様な苦痛を脳髄に与え続ける。



「おいアンナ、どうしたんだ。」



―――――遠くから、声が聞こえる。



オレに対して蔑む様な視線を送っていた女が、その声に反応して振り返る。



「ううん、なんでもない。ちょっと変なのに絡まれてただけ。…さ、行こう。」


そしてこちらに一瞥もくれずに、連れらしい男の手を引いては足早に立ち去る。



その背中は…みるみる内に遠ざかって行ってしまった。



オレのグレイスの面影を乗せたまま、一体。何処へ行くのか。



………なあグレイス。お前は何処に行っちまったんだ?



トロスト区の、あの血と肉溜まりの中に未だ沈んだままなのか。



それとも、夜風にさらわれていった一掴みの灰の中か。



何処を探せば、お前は出て来てくれるんだろう。



グレイス。…………グレイス。呼べば呼ぶ程、その輪郭はぼやけていく。



気付けば、脳裏に溜まり続けていた嫌らしい熱さの液体は、滑り落ちる様に頬から顎へと垂れていた。



「そうだよなあ…………。」



それを拭う事もせずに、呟く。



「いる訳、ねえもんなあ。」



風が、頬を過って行く。

時刻は着実に黄昏に向かっているのに関わらず、それは未だ太陽の名残を抱いて焼け付く様に熱かった。



「だってお前……死んでんだから………!」



呟いた瞬間………認めてしまった瞬間に、踏みしめるべき地面が無くなってしまった様な凄まじい虚無感に見舞われた。



頭が、痛い。気持ちが悪い。内臓が捻転した様に激しく軋んだ。



――――――――そして。それからの事は、よく、思い出せない。



どういう風に歩き、どんな道を辿ったのか。



兎にも角にもオレは、気付いた時には再び、薄暗い…黴臭く散らかった自室へと戻っていた。



倒れる様にベッドへと、身を投げる。



目を固く閉じ、自らを抱き込む様に両腕を身体に回した。



…………もう。何も考えたく無かった。



忘れかけていた希望なんかを抱き、一時でも夢を見てしまった自分を心底呪った。



何故。無駄と分かっていながら…無意味と分かっていながら。オレは望みを捨てきれなかったのか。



何度だって馬鹿のひとつ覚えみたいに、幸せな妄想を抱き続けてしまうのだろうか。



もう……沢山だ。何もかもにうんざりする。



グレイスのいない景色にも、グレイスに全く似ていない女にも、グレイスの事を忘れられないオレにも。



全てひどく醜く思えて、吐き気がした。



――――――瞳を、更にきつく閉じる。



眠ろう。



寝て、起きて。



そして二度とオレは、グレイスの事を思い出さない。



失って戻らないものはそうやって、忘れていかなければいけないんだ。



だから。もうこれで終わりだ、グレイス。



お前に謝る事も出来ないまま、一方的に別れを告げるオレを、



…………………許さなくて、良い。



ごめん。



グレイス、ごめんな。



本当に、ごめん。



それから、さようならだ。



…………もう、二度と。

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