十五・逃げ水 上

ある休日…オレの部屋に、控えめにノックする音が響いた。


…もう、日は高かったがカーテンを閉めきり、ベッドの中で指先ひとつ動かせずにいたオレは…しつこいその音に、ノロノロとではあるがベッドと毛布の間から這い出しては、鳴り止まない扉へと向かう。



「……………なんだ。」


ドアを開け、低い声で外へと呼びかける。


…………そこには、意外な人物が…不機嫌をむき出しにしたオレの態度に少々怯えた様にしていた。



「お…おはようかな、ジャン。もう昼過ぎだけれど…。」


アルミンは、鋭い形を描いているであろうオレの瞳を見つめては、おどおどとしながら挨拶をする。



「寝てたみたいだね…疲れている所を、その…ごめん。」


申し訳無さそうにしつつ、何か言いたそうにこちらを見上げ続けるアルミン。



「……………………。」


「……………………。」



オレ達はしばし口を噤んでは、互いを繁々と眺め合った。



「あ…あのさ。」


そこで沈黙に堪えかねたらしい奴がおずおずと口を開く。



「あの…ジャン。最近随分と参ってるみたいだから…少し。気分転換に、外に出掛けたりしてみたら、って思ったんだけど…。どうかな。」



オレは、ただ黙って…奴の言葉に耳を傾けていた。



また、少しの静寂。



オレ達の会話は、息苦しいままで、ただただぎこちなさを増して行く。



「も、勿論僕も一緒に行くよ!今日は天気も良いから、少し暑いかもしれないけど…きっとここにいるよりはマシだから………」


オレは、アルミンの事を見下ろしながら一度溜め息を吐き…「いや。悪いけど今日は…」と言いかけた。


だが、それは奴が「ジャン。」とオレの名を呼ぶ声で遮られる。



「ジャン。………駄目だよ。行こう。」



……何が駄目なのかはさっぱりだったが、オレは有無を言わせない奴の真っ青な瞳をぼんやりと見ては…抵抗する気も最早起きず、ゆっくりと首を縦に振った。







外は……ゆだる様な天気だった。蒸し暑くぼやけた空気が足下には漂い、一歩進む毎に現実感が薄れて行く。



オレの隣でアルミンは「暑いね…」と言いながら額から零れ落ちる汗を拭っていた。



……………こんなにも身体に応える日和なのに。外にいても、ただ辛いだけなのに。



街はオレが調査兵団に入団する前から相も変わらず、人々が楽しげに行き交い会話を交わしている。


それは何処か遠い異郷の風景の様で、まるで実感が伴わない。



オレとアルミンは…ただ。唖の様に黙って。足だけを動かし、街の中を……あてもなく、歩いた。



……………思えば、グレイスとは…一度もこうやって共に街に繰り出すという事はしなかった。



オレは、出掛ける時と言えばいつも男連中と連れ立ってか…同伴を頼むのは大抵マルコだった。


偶に奴から、グレイスも誘ったらどうかと持ちかけられる事もあったが…オレはそれを、曖昧な返事で濁し続けていた。



その理由は、『なんとなく』。



それ以上でも、以下でもない。



ただ…オレのその…『なんとなく』が、グレイスの事を如何に傷付けていたかは…今なら、よく理解できた。



アルミンが、少し休もう、と近くの喫茶店を指し示す。


オレは首を縦にも横にも振らず…促されるまま、歩を進めた。



―――――そうなんだ。こんな事になるのなら、もう少し、一緒にいてやれば良かった。


二人で出掛けては遊んだり、今の年だからこそできる事を楽しんだりするのも…本当は、やってみたかったんだ。


笑っている顔を……もっと、見ておきたかった。


そうすれば、グレイスだってもう少し素直に、オレに優しくできた筈なんだ。



………オレ達は、お互いにひどく不器用で……気付かない内に取り返しのつかない程の、小さな間違えを繰り返していたに違いない……。



すれ違う人ごみの中……オレは仲睦ましげに並んで会話を交わす一組の男女を眺めては。その輪郭に、自分とグレイスの面影を重ねて…深く深くに沈んで行く気持ちになった。







「いや……暑いね。」



先程から、何回目になるんだろう。アルミンは同じ言葉を繰り返しては、水を飲む。


………オレが全く喋らない所為で、二人の会話はまるで成立していなかった。



こいつが………。オレの事をいたく気にかけて、元気付けようとしてくれているのは分かっているし、感謝する気持ちも確かにある。


だが今のオレには、それに応えてやるだけの気力は最早無かった。



沈黙が周囲に重たく下りてくる中………オレは、ふと。傍に据えられた窓から、外を眺める。



人の往来は、多かった。



………本当。この暑い中、面白い事なんてあったもんじゃないのに…一体、何にそんなにもせき立てられて、何処へ向かって歩んで行くのか。


オレはその…蜃気楼の様に形が崩れて溶け合って行きそうな群像を、ぼんやりと、何の感慨も抱かず…眺めていた。



「……………ジャン?」



アルミンの声で、ふと我に返る。



「あ……えっと。悪い………。」



そして、やっとの思いで、言った。



気付けば、オレは…腰掛けた椅子から立ち上がって、食い入る様に真剣に窓硝子越しの外を眺めていた。



「ジャン?外に何かあるの…?」


アルミンの問い掛けに、今度は何も応える事はしなかった。



ただ窓の外…人が揺らめいては行き交う隙間に見え隠れする影を、食い入る様に見つめる。



そんな。



まさか。



いや、でも。



ありえないと分かっていても、見覚えのある…慣れ親しんだその姿を前に、期待してしまう自分がいる。心の中で、忘れかけていた希望が微かに流れを刻んでいくのが分かった。



「アルミン……。勘定はこれで済ませといてくれ、釣りはいらねえから……」


そう言って、適当な額の金をテーブルに置いて、ふらふらと喫茶店の出入口へと向かう。



後ろからはアルミンが何かを呼びかけてくる声が聞こえたが…何を言っていたのか。


それは、オレの耳に届く事はなかった。

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