八・約束 下

「それで…用事はなんですか?大きいカミキリムシを捕まえたとかいう下らない報告なら今回はいりませんよ。」

「下らなくなんかねえよ!!だってこーんなに大きかったんだぜ、かっけーじゃねえか!!」

「かっけくなんかありません。私、虫嫌いです。」

「これだから女は嫌なんだ、浪漫を分かってねえな」

「虫の大小程度の浪漫なら分からなくても結構です。」


オレは取りつく島の無いグレイスをじっとりと睨んでは、少々気を取り直す様に咳払いをした。

奴は先程の赤面ぶりは何処へやら、もう涼しい表情をしている。


「……まあ。今回は虫の件じゃねえよ。きっとお前も…喜ぶんじゃねえかな。」


何だか照れ臭くなって来て…それを誤摩化す様に笑いながら、オレは言う。

グレイスは少しだけ首を傾げて何かを考え込む様にしていたが…やがて、ぽん、と手を打ち合わせた。



「貴方のお母様がまた何かお菓子を作られたのですか…!?成る程、それを私に分けて頂けると。素敵です。でかしましたよ、ジャン…!」

「ちっげーよ!!この糖尿病予備軍が!!砂糖粒でも嘗めてろ!!」


…………何かを期待しつつキラキラと瞳を輝かせてオレに向かって掌を差し出してくるグレイスの手を振り払ってオレは怒鳴りつける。


本当…こいつ、顔に似合わず異常な程の甘党だ。病気待った無しな気がして、オレは正直気が気では無い。



「…………今日は、お前に渡したいものがあるんだ…。………おい、期待の眼差しでこっちを見るな。食い物じゃねえよ。」


ようやく糖分の事が頭から離れたらしい。グレイスは何処かがっかりとした様子で木の根元に身体を預け直す。


「そう気を落とすなって…。菓子の事なら言付けといてやるし、これからオレが渡すものは絶対にお前、喜んでくれるから………。」


………少し、緊張して来た。気を落ち着かせる為に、深呼吸を数回する。グレイスは…そんなオレの事を少し不思議そうに眺めていた。



「良いか、目、瞑れよ。」


「…………?何故です。」


「良いから!閉じろ、瞼!!」


「……………気になるからちょっと薄目してて良いですか?」


「それじゃ意味ねえだろ!!大人しく閉じろ、でねえとお前の道具入れに蝉の抜け殻詰め込むぞ!!」


「気色悪い嫌がらせはおやめなさい!?」


グレイスは何かぞっとする様な想像をしたらしい。ようやく…渋々ではあるが目を閉じる。



オレはそれを注意深く観察して…瞼が完全に下りている事を確認すると、ポケットから用意していたものを取り出し、グレイスの白い掌を取った。



そして……それを彼女の掌に握らせては、………ああ。そうだ、確かに言ったんだ。



いつからかは分からず、でもずっと胸に抱いていた事を、はっきりと、オレは言ったんだ。



やがてグレイスは目を開き、自分の掌に収まったものをしばらく眺めた後。ゆっくりと、瞬きをした。



それから、彼女はオレの瞳をじっと覗き込む。何だか居たたまれなくなって…思わず、目を逸らした。



「……………。ジャン。」



グレイスが、静かに名を呼んでくる。



オレは……目を逸らしたまま、何だよ、とぶっきらぼうに応えた。



「本当ですか…………?」


囁く様に、グレイスは尋ねる。



「………何度も言わすなよ。」


オレはそれに対して応えながら、いよいよ顔に熱が集まるのが分かって…瞼を伏せた。


隣では、グレイスが溜め息を吐くのが聞こえる。



そして……オレの耳元に、こそばゆい感触…恐らく、グレイスの髪だ……が触った後、同じ言葉が繰り返された。


年頃にしては、少し低く落ち着いた声だ。



オレから身体を離したグレイスは……やはり、オレと同じ様に頬を赤く染めていた。



お互いに何だか照れ臭くなって…遠くを眺めれば、金色の光を投げ掛ける太陽が遠くの山から…そっと顔を出してくる所だった。



「ジャン……。私、凄く嬉しいです。」


少ししてから、グレイスがゆっくりと言葉を紡ぐ。


そっと掌が重ねられたので、彼女の方を見ると……グレイスもまたオレの事を優しく目を細めて、見つめていた。



「私はきっと、今日貴方が言ってくれた事…。ずっと、忘れません。」


グレイスは一度、強くオレの掌を握る。


それからスカートについた土を軽く払って立ち上がると、オレを見下ろして…本当に嬉しそうに、笑った。



「将来……貴方が、今日の事を忘れても。私はずっと覚えています。ずっと……。」



そう言いながら、グレイスはそろりと朝露で湿った草を踏んで、歩き出す。



「おい…!まだ時間じゃねえだろ、」



引き止める様にそう言えば、グレイスは笑った表情のまま振り向いた。

流し目の下の黒子が何だか艶っぽくて…オレの知らない、大人の女性の様で…少し、どきりとする。



「いいえ、もう、時間ですよ。」



グレイスの静かな言葉に、オレはひどい焦燥に駆られて立ち上がった。



「待てよ…!第一、オレは今日の事を絶対に忘れたりなんかしねえ、絶対にだ。」



必死に…叫ぶ様に訴えれば、グレイスの笑顔に少しだけ寂しそうな表情が混ざる。

………どうしてだろう。距離にして数メートルしか離れていないのに、今はひどくグレイスが遠くに思えた。



「いいえ。貴方はきっと忘れてしまいますよ。………でも、良いのです。仕様が無い事です。思い出というのは、そういうものですから。」



グレイスの輪郭がぼやけていく。そして……そこには、初めて見る女性が立っていた。


いや、違う。オレは彼女を知っている。背が伸びて、顔が幾分面長になっても、充分過ぎる程その人物が誰だか理解できた。



「でも……私は。覚えていますから。いくつになっても…どんなに悲しい事があっても…今日と言う日だけを思い出して、生きていけますから…。」



幸せそうに、辛そうに。それだけ言うと、グレイスの輪郭は揺らめき始める。


朝日が強まって行くに連れて…彼女の影はどんどん弱々しく、まるで飲み込まれてしまう様に。



「待て……、グレイス。おい……待てったら…!!」


今まで頑なに…地面に張り付いて動かなかった足を一歩踏み出し、光の中に消えて行くグレイスの腕を掴もうとした。


だが、もう………グレイスの輪郭は人の貌すらも保てない程、弱々しいものになっている。



掌は、空を切った。



グレイスは最後に………同じ、言葉を繰り返しては………何度も、何度も………



そうだ………。そうだよ。オレも、ずっと同じ気持ちだったんだ。



あの時のオレ達は、確かに同じもので、いつまでだって一緒だと信じていた。



今だってそう信じている。………もう、不可能だと思っても、信じてしまう。



結局オレは……オレの願いは、ずっと昔から変わらないで………………



『           』




あれ。



あれ…………?



オレはあの時、何て言ったんだっけ。



待て、グレイス。思い出すから。……忘れる筈は無い、思い出すから………!



だから、頼む、



「行かないでくれ…………!!」







…………………。自分の掠れた声で、目が覚めた。



身体には汗がべっとりと染み付き、とても不快だ。



…………まだ、辺りは暗い。例によって…あまり深くは眠れなかったのだろう。



薄暗い部屋に、時計の音が転がる。規則的に、何度も何度も。それでも未だ夜明けは訪れない。



………瞼の裏には、いつかの黄金色の朝日が染み付いている。



そうだ。………そんな色をしていた時代もあったんだ。



………………昏い部屋の中、天井の、漆喰のひび割れを視線でなぞる。



さっきから何回それを繰り返しているのだろう。そうしていたって、何も変わる事は無いと分かり切っているのに。



胸を覆うのは凄まじい後悔、慚愧、焦げ付く様な痛み。



それの原因は多々あるが―――今、この瞬間だけは、たったひとつに絞られていた。



目を閉じれば、薄汚れた漆喰の天井は消えて、人間の輪郭が強く浮かび上がる。



それに耐えられなくて目を、開けた。



…………なんだ、オレ、泣いてんのか。

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