八・約束 上

ぱちり、という音がしそうな程の勢いで……その日のオレは目を覚ました。


………家の物置だった部屋を片付けて、与えられたばかりの自分の部屋には、まだ薄い色をした早朝の光が差し込んでいる。


少しだけぼんやりする頭で、オレは辺りを見回しては…壁にかかった時計を確認して、ベッドの中から飛び起きた。



(やべえ……!もう六時近いじゃねえか!!)



………待ち合わせは六時だ。これで遅刻してしまったら、あいつの小言は何十分に及ぶ事か…!



(時間にだらしないのが一番嫌いだからな…あいつは。)



オレは急いで着替えを済ますと、朝食の準備をしている母親のいる一階へと階段を駆け抜け、行き先も告げずに…家から飛び出した。







「遅いです。」


…………いつも待ち合わせをしている楠の根元で、グレイスは不機嫌そうに持っていた本を音を立てて閉じた。



「遅いってお前…まだ六時五分を回ってねえ筈だぞ」

根元に座っていた奴の隣に腰掛けながらそう零すと、グレイスはオレの事を横目でじとりと眺める。


「そういう問題ではないのです…。人を呼び出しておきながら待たせる、この行為がまずよくありません。
待ち合わせの十分前には必ず身だしなみをきちんと整え準備して待つのが紳士的な男性としていやむしろ人間としての「あーっ!!!分かった分かった、もう良いもう!!オレが悪かった、スミマセン!!」


幕を開けようとしていたグレイスの説教劇場を遮る様にオレは声を大きく張り上げ…とりあえず、謝った。


グレイスは、オレの適当な謝罪をあまり快く思わなかったらしく、盛大に眉をしかめるが…やがて溜め息を吐いて、「ま、良いでしょう。次はもう待ちませんからね。」と零した。



それを聞いて…オレは思わず可笑しくなって笑ってしまう。


だって……もう、この台詞は何回目かすら分からない。

オレがどれだけ遅れたって…きちんとお前は待っていてくれる筈だと知っているからこそ、何だか…嬉しくて仕様がなかった。



「………そもそもお前が会えるのがしばらく朝だけってのが悪い。ちょっと前までは教室が終ってからも遊べたじゃねえか。」



朝の光を充分に吸った茶色い幹に身体をもたれさせながら零すと、グレイスは目を少し伏せて持っていた本の表紙をなぞった。


………以前は、グレイスが読む本と言ったら…年頃らしく、お伽噺やちょっとした恋愛もの、または詩集が主だったのに、最近はタイトルを見ただけで頭が痛くなる様なお固い教本ばかりだ。


グレイスは少しだけ溜め息を吐いては…「仕方無いじゃないですか…。私だって貴方と遊びたいですけど…でも。」と小さな声で零す。


「………お前は机に向かってる方がオレといるより好きなのかよ。」


不満げに漏らせば、グレイスは「私だって好きでやってる訳じゃありません…。」と応える。



その素直な反応に、思わずオレは吹き出してしまった。



「……何ですか。何笑ってるんですか…!失敬な人ですね…!」


グレイスは恥ずかしくなってしまったのか頬を少しだけ染めてはオレの事を軽く睨みつける。

それが全然怖く無くてオレは更に大きく声を上げて笑ってしまう。


「だってよ……、意外と正直な奴だよな、お前って奴は。」


笑い続けるオレに遂に愛想を尽かしたのか、グレイスが溜め息を吐いてはオレの頭を軽く本で叩いた。


「私は正直が好きなんです…。本当は勉強だってそこまで好きじゃありませんし、物凄く真面目という事もありません。……至って普通の人間なんですよ。」

不機嫌そうに漏らしたグレイスの横顔は、いつもより何だか幼い感じがして…堪らなくなったオレは乱雑にそのくすんだ色の頭髪を撫でてやった。


グレイスは最初目を見開いてオレの行為にひどく戸惑っていた様に見えたが、やがてそれをほんの少し嬉しそうに甘受する。



「良いじゃねえか、正直。」

一通り満足して手を離しながら、言ってやる。


グレイスは未だに頬を染めたままこちらを見つめてくる。いつもきちんと、真っ直ぐに地面へ向かって伸びている髪が柔らかく解れているのが、新鮮な光景だった。



「オレはお前のそういう所が好きだぜ、割とな。」


心から思う事を満面の笑みに乗せて言えば、グレイスは数回目を瞬かせて頬の朱色を更に濃くする。

この表情が可愛いから、わざと大袈裟に褒めては照れさせてしまう事もあるのは内緒だ。



「そうですか………。」


グレイスは、何かを反芻する様に、ゆっくりと相槌を打つ。


「………嬉しい、です。ありがとうございます……。」


喜んでいいのかはちょっと分かりませんがね、と少しだけ肩をすくめてみせながら、グレイスも穏やかに笑った。


笑う事が人より少ないグレイスがオレにだけ見せてくれるこの笑顔が…すごく、好きだった。



オレはまたしても嬉しさが胸の内に広がり、グレイスと同じ様に優しく笑う。



しばらくオレ達は…くすくすと笑い合っては幸せな時間を過ごしていた。



………夏の朝の日差しは徐々に明るく強くなり、二人の横顔を照らして行く。


もう少し時間が経てば、互いに朝食の時間だ。それまでには家に戻らなくてはならない。


その時が訪れるのが、とても憂鬱に思える程…グレイスと一緒にいる時間はオレにとっては特別なものだった。


きっとグレイスもそう思ってくれているに違いない。………その時のオレには、確かにそれが分かった。

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