十五・孤独な光と初めての思い
「ねえ、グレイス」
温い空気が漂う夜道を歩きながら、僕は先を行くグレイスへと声をかける。
「‥‥‥‥グレイス。」
反応が無いのでもう一度言葉をかければ、グレイスはようやく歩く速度を緩めて僕の隣に並んだ。
そして呼びかけに応える様にこちらを横目で見上げてくる。
涼しい形をした目だ。僕は、彼女の目が割と好きなのだが…今は、その事は脇に置いておくとしよう。
「‥‥‥‥‥‥お前は。ジャンが好きなんだよな?」
「はい。」
即答だった。
ゆっくりと、確かめる様に尋ねた僕の問いかけとは実に対照的である。
「…………じゃあ。なんで。」
僕は端的に質問を重ねた。そこから先は、言わなくても分かるだろう。
淡い溜め息が隣から聞こえる。グレイスはいつの間にか…視線を真っ直ぐ先の方、黒々とした森へと向けていた。
「自分に振り向いて欲しいとは……思わないのか。」
自分の声が変によく通る。その背景には小さく虫が鳴いていた。気持ちよくきりりと羽を鳴らしているのか、とても澄んだ音をしている。
グレイスは………少しの間、黙ってただ前を見据えていた。
そんな彼女の横顔をじっと眺める。とても静かな横顔だ。虫の音はその間も、遠く近くの草の間から響き続けている。
「…私は。好きだからこそ、ジャンには幸せでいて欲しいのです。」
そっと。……そっと目を伏せて、グレイスは囁く様に言葉を零す。
「そして……ジャンの幸せに、きっと私は必要無い。」
彼女の顔は、悲しんでいるのか、笑っているのか、何とも判別のつかない表情をしていた。
………いや、悲しんでいるに違い無い。その位は充分理解できた。
グレイスは自分を正直者と称する癖に、こういう時だけはひどい嘘つきになるのを、僕はよく知っていたから。
「私がジャンを好きだからといって…一緒になる必要は何処にも無いのですよ。」
グレイスはその不気味な表情のまま言葉を続ける。
「彼が愛した、素晴らしい女性と共に…想いを遂げて、幸せになってくれれば。……それで、良いのです。」
それが私の幸せでもありますから……とグレイスは吐息の様に儚い口調を一旦区切った。
相も変わらず真っ直ぐに前方を見据え続ける彼女の瞳は痛い程澄んだ光で溢れている。
その光が…グレイスが十年以上に渡り、どんな気持ちでジャンの事を想い続けて来たのかを鮮明に伝える様で…胸が、痛んだ。
僕は深い溜め息を吐いてグレイスの頭髪にゆっくりと触れる。無意識の行為だった。
それから、出来るだけ優しく撫でてやる。彼女は先程の光を宿したままの目で僕の事をじっと見上げる。………少し、不思議そうに。
…………………………………。
慰め方が、よく分からなかったのだ。
生まれてこの方恋愛経験の無い僕には、苦しみの渦中にいるこの友人に上手な言葉をかけてやる事もできない。
でも。………ただ。このままでは、あまりにもやるせないと思った。他でもない、僕自身が。
だからせめて、優しくしてあげたかった。
その気持ちが伝わる様に、本当に…本当に大切に、彼女の頭を、僕は撫でた。
…………しばらくそうしてから掌を離すと、グレイスは今まで僕が撫でていた部分にそっと触れる。それから、少しだけ目を伏せた。
その仕草から、彼女に僕の思いが少しは伝わったのだろうと理解できて、嬉しかった。
「グレイス。……お前とジャンは、本当に似た者同士で……不器用だな。」
そう言うと、グレイスはこちらを見上げながら目を細めて笑う。
「心外ですね。私とジャンでは星と土塊位の違いがありますよ。」
そう言ってグレイスは空を見上げた。………どちらが星で、どちらが土塊なのかは、言う事は無く。
彼女の瞳は、やはり変わらずに美しい光で満たされていた。まるで子供みたいに汚れが無い。
「………違わないさ。クローバーとシロツメクサ程度しか違わないよ。…気付かないだけさ。」
僕が静かに応えると、グレイスの瞳は更に更に美しく、透き通って行くかの様な色になった。
だが、やがてその光を瞼で覆い隠す様にグレイスは瞳を閉じる。……少しして、再び開いた時には…もう、いつものくすんだ眼の色に戻っていた。
「………ありがとう、ございます………。」
微かな彼女の声は震えている。
「でも……だめなんです………。」
自分の服の胸元を無意識に掴んだその指先も同じ様に震えていた。
………絞り出す様な声だった。グレイスの体中から痛切な叫び声が聞こえてくる、そんな錯覚に陥る程。
「ジャンは…どんなに頑張っても、私の事を女の子として見てくれる事は無いでしょう。」
彼女の声の震えは収まっていた。けれど、相変わらず…その響きは痛々しい。
「これは自業自得です。……私の責任です。お世辞にもジャンに優しくしてはきませんでした。
彼の為という建前上………。結局、私は自分が傷付くのが怖くて、わざと厳しい態度を取っていただけかもしれません。」
グレイスがゆっくりと手を離した胸元の服には、深い皺が刻まれてしまっている。それを整える事もせずに、彼女は言葉を続けた。
「きっと私はジャンに恨まれています。それは……最近の、彼の態度を見ても明らかな事で……」
そこで、グレイスはまた言葉を切った。正確には、もうこれ以上は口にできなかったのだろう。
「………つらいね。」
僕は、だらりと力無く垂れるグレイスの掌をそっと握ってやりながら一声、言う。
「僕は…何もできないけれど。……でも、これだけは言わせて欲しい。
ジャンは、グレイスの事を嫌いでは無いよ。………絶対に。」
僕の掌もまた、ゆっくりと握り返された。…豆だらけの、細い指だった。けれど、掌は温かい。
「僕はさ…グレイスの事も、ジャンの事も好きだから……大好きな二人が、一緒になってくれたらすごく嬉しいな……。」
…………グレイスは、僕の言葉を聞いて何か言いたそうにこちらを見た。
だが………、すぐにそれを飲み込んで、俯いてしまう。
「……………そうですか。」
しばらくして、ようやくグレイスは口を開く。先程とは違い、はっきりとした口調だった。
「うん………。」
そう応えると、グレイスは僕の肩にそっと頭を預けてくる。
「貴方は優しい………。優しすぎます。」
「…………うん。」
「私も、貴方が大好きですよ。……マルコ。」
「うん……。ありがとう。」
…………ゆっくりと、僕はグレイスの事を抱き締めた。
腕の中に収まった彼女の体は、その指と同じく細く頼りなかった。そして、やはり温かい。
彼女の事をしっかりと抱き締め直して、僕は…………どうして、こうも上手くいかないのか…とひどく悲しい気持ちになった。
ジャン。グレイス。
二人共、凄く優しくて素晴らしい人間なのに関わらず、顔を突き合わせば互いを傷付けてばかり。
分かり合おうと、歩み寄ろうとすればする程、二人の距離は広がるばかりで………本当に。
「大丈夫。…………絶対に大丈夫だから………」
そう、自分にも言い聞かせる様に呟けば、グレイスも僕の体に腕を回して来た。
…………縋る様な、少し幼いその仕草を眺めては…そう言えば、普段あまりに大人びているから分からなくなるけれど、この子は僕と同じ年なんだっけ…という事実に思い当たる。
(ああ………やはり。僕は、彼女に幸せになって欲しい。…………どうか。)
そして、それにはジャンが隣にいないと駄目なんだ。
(ジャン…………。…………………。)
何かを祈る様な気持ちで、僕はグレイスの事を胸に抱き続けた。
グレイスもきっと、何かを祈っていたに違いない。それは、僕の背中に回された掌が、きゅっと服を掴む気配から感じ取ることができた。
…………星明かりが黒い森の上に銀色に拡がって、露の草原には相変わらず虫が鳴いている。
僕らはそのままで、時が止まったかと思う程の長い時間を過ごしていた。
*
ジャンは…………その光景を、木の影から、ただじっと見つめていた。
信じられない気持ちで、見つめていた。
吐き気がする。頭がぐらぐらした。けれど、どういう訳か眼前の光景から目を逸らす事ができない。
さっき…………確かに。聞こえた。
グレイスが、マルコの事を………好きと、言って。そうしたら………マルコが、グレイスを抱き締めた。
それで……尚も、あいつらは、互いを抱き締めて………そのままっ…………
胸の内が真っ黒なペンキで塗りたくられていく気分だった。
………落ち着け。今までだって、そういう事を疑いたくなる程あの二人の仲は良かった………!!
だが。けれど、今回は、今回は違う。これは、決定的だ。決定的な事実だ。
あの二人は。………………。
吐き気は遂に実感を伴って喉元までせり上がってくる。思わずジャンは口元を抑えて、よろめく様に一歩後ずさった。
……………そして次に、胸の内で解散式の時に燃え上がった感覚と、似て否なるものが強く焦げ付くのを感じた。
それは、マルコの腕の中に収まるグレイスの事を見れば見る程激しさを増して行く。
初めての…………感覚だった。
オレは、今まで…………グレイスに対して、苦手に思ったり、果てには嫌ったり……お世辞にも良い感情は抱いて来なかった。
だが………今回の感情は、本当に初めての…………そう。これは…………
憎悪。
………それは先程感じた嫉妬と相まって、更に深く深くオレの中へと根付いて行く。
自覚すると、もう止める事ができなかった。………憎い。憎い憎い。
こんなにも強くそれを感じた理由も、心の中では分かっていたのかも知れない。ずっと昔から。
けれど、その時はそんな事はどうでも良かった。ただ、眼前の女が憎くて仕方が無かった。
‥‥‥ようやく動く様になった足をそろりと動かし……オレは、変に落ち着いた、ゆったりとした足取りで元来た道を戻り始める……………
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