雪の歌 上

(……………ん)


その日の朝、グレイスはいつもより早く目を覚ました。

性格の通り几帳面に、起床時間の十分前に起きるのが彼女の常であったが…どういう訳か今日は一時間以上前にはたりと意識が覚めてしまったのである。


起き上がって、辺りを見回した。

当たり前だが友人たちはまだ夢の中である。心地良さそうな寝息が室内には漂っていた。


(…………あ)


小さな窓に目を留めて、グレイスは気持ちが僅かに高揚する。

ベッドから起き上がって狭く外の景色が切り取られた場所へと小走りで近寄った。


(雪………。)


恐らく、この季節で最後の雪である。初春の粉雪はさらさらとして、何故だか温かそうにも見えた。

眺めている内に、ちょっとだけ…という考えが浮かんでグレイスは着替えてはコートを羽織る。

今はまだ、誰も外へは踏み出していない。降ったばかりの雪を独り占めできるまたとない機会である。







薄く積もった雪の上を歩むと、さっくりとした心地がした。

乾いた降雪である。さらさらとして、厚いコートや髪の上へと降りてくる。


グレイスは、季節の境目が好きだった。

一年が巡って成長していけることに喜びを感じる。……そうして、自分が一番に想った人間の傍で過ごせる年月を思えばそれは尚更だった。


自然と小さな声で歌った。歌うのも好きな行為である。恥ずかしいから人には決して聞かせないけれど。



だれも知らない野のはてで 青い小鳥が死にました さむいさむいくれがたに

そのなきがらをうめよとて お空は雪をまきました ふかくふかく音もなく




背の高い針葉樹が茂る森へとやってきて、空を見上げる。

灰色の天からは休みなく細かい氷が降って来ていた。息を吐けば白くなる。「寒い」と思わず声を漏らした。


「そりゃーこんな時間に外歩けば寒いだろうよ」

「へっ」


…………独り言への予期せぬ返事。しかもすぐ背後からである。

この聞き慣れた声の持ち主がこんなにも近くにいたのに何故気が付かなかったのか……いや、それ以前になんでここに


グレイスが固まってぐるぐると思考を巡らせているうちに、後ろから首に何かを巻き付けられる。

割と強い力で締め上げられるので、思わず呻いてしまった。


「なっ何するんですか…殺すつもりですかあっ?」

「ちっげえよ逆だ逆、風邪こじらせて死なれたら困る」

「だからそれくらいじゃ死にませんから…貴方ちょっと心配性が過ぎますよ」


グレイスは乱暴に巻かれたマフラーを整えながら後ろを振り向く。

やはりそこには予想した通りの人物がいた。「もう……」と呟いて再び息を吐く。


「ジャンこそそんな薄着で外に出たら駄目ですよ。返しますからこれくらい巻いていて下さいな。」

「良いからやっとけよ。人の好意は素直に受け取るもんだ」

「その言葉そのままお返ししますよ」


二人はしばし見つめ合った後にどちらともなく笑った。

笑うなよ、とジャンはグレイスの頬を軽く抓る。貴方が先に笑ったんですよ、と彼女は離されても笑い続けた。


「ああ……そんなら二人一緒に巻くか」

「はあ、どうやってですか。マフラーひとつしかありませんよ。」

「ほらよくあるじゃねえか……」


そこでようやくグレイスはジャンが思い浮かべるイメージを理解して、「勘弁してください」とにべもなく断る。


「誰も見てねえし良いじゃねえか」

「そういう問題じゃありません。」

「照れてる」

「照れてません」

「赤いぞ顔」

「………寒いから冷えて赤くなってるだけですよ」


かわいげねー奴な、と言ってジャンはグレイスの頭をぽんぽんと叩いた。

かわいげなくて結構です、と彼女はツンとして返答する。


「………………。お前、少し背伸びたな。」

「そりゃあ成長期ですから。いつまでもチビとは言わせませんよ」

「まあ……そうだな。」

「それともなんです、小さい女性のほうがお好みですか」

「いや、そういうんじゃねえよ……。
小さくてもデカくてもオレはお前を好きだけど…なんか、グレイスが大きくなるのは嬉しい感じがする。」

「…………………。なんですか、それ」


グレイスは与えられたマフラーを口元まで持って来る。ふんわりと彼の匂いがした。優しくて好きな香りである。


「お、今度こそ照れたか」

「照れてません……ったら。」

「正直になれよ、意地張っても良いことはなんもねーぞ」


…………折角顔の半分を隠すようにマフラーを巻いたというのに、身体に滲んだ熱はすっかり色々な場所に現れてしまっているらしい。

きっと、耳の先まで赤くなっている。自身の気持ちはすっかり見通されていると思うと堪らなく恥ずかしかった。


「まあ………。とても嬉しいですよ、……はい。」

「そりゃ良かった」


ジャンはくしゃりと笑って嬉しそうにする。グレイスは彼のこの表情を見ると、いつも胸中がぎゅうとした心地になった。今日は一際である。苦しくて仕様がなかった。


「そういえば……なんでここにいるんですか」

その気持ちを誤摩化すように話題を変える。ジャンは「……ああ」と短く相槌を打った。


「そりゃグレイスの姿が見えたからに決まってんだろ。」


聞かなきゃ良かったとグレイスは真剣に思う。よくもここまで恥ずかしいことを何のためらいもなく言えたものだ。


「ジャンは……ちょっと素直過ぎます」

「だってこうでもしねえとお前不安になるだろ」

「不安になんかなりませんよ」

「そうか?」


………そうか。とジャンはもう一度繰り返した。そうして……不安なのはオレの方なのかもな、と本当に小さな声で付け加える。


グレイスはゆっくりと手を伸ばしてジャンの掌を握った。

想像していたよりも冷たい。人の心配ばかりして自分の管理は出来ていないのだろうか、と彼女は少々呆れた気持ちになった。

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