十三・雨の夜、傘の下
太陽の輝きは徐々に失せて来て、生温い雨の粒は大きさを増す。
ここからの帰り方がよく分からなかったので、適当に歩いては見たがそれはあまり成果を成す事は無く、歩く道にはどんどん草木が深く茂って来た。
(くそ……)
何だってオレがこんな目に。
空腹と相まって苛立ちは最高潮に達していた。………そして、その矛先は当然例の幼馴染に向かう訳で………
「………大馬鹿野郎。」
呟いてはみたが勿論、グレイスが何か悪い事をした訳でも、迷惑をかけられた訳でもない。
それなのに何故こうも彼女の事を思うと胸の内から汚濁した感情が漏れ出るのか。
(だって…………。あいつのあんな顔…………)
脳裏に浮かぶのは、マルコの傍で穏やかに目を細める姿。
…………ああ、マルコの事を信用して、大事に思ってるんだな、ってすぐに分かる表情。
何年一緒にいたと思っているんだ。それ位俺にだって分かる。
(オレ………何ムキになってんだ。)
さっきも思ったが、グレイスがマルコの事を好いたろうが惚れたろうが勝手じゃねえか。
むしろあの性格のキツさから男には敬遠されがちだったあいつにようやく異性の友人ができたんだ。
良い事じゃねえか…………
それでも………なんなのだろう。………昔は、オレにだってああいう風に笑いかけて来てくれたのに。
いつからグレイスは眉間に皺を寄せた怖い顔しかオレに対して向けなくなったのだろう。
目を閉じて、もう一度あの顔を思い浮かべた。屈託なく、何の邪もなく笑う姿を。
(………………かわいい。)
瞬間、薄闇に飲まれた森の中に鈍い音が響き渡る。
あまりの事に、オレは湿った木の幹を思いっきり殴りつけてしまった。
……………呼吸が荒い。目眩がする。それでもって、耳の裏が燃え上がる様に熱かった。
そして、また………あの感覚が。
(いやだ……………)
「グレイス…」
呼んだ名前は暗闇の中に消えて行く。そうだ、言葉なんてひどく不確かな物だ。絆もまた然り。
幼い頃、あれだけ仲睦まじく交わし合った約束も、互いを確かに大事にしていた気持ちも。
どこで無くしたのか思い出せない位、残酷に時が掻き毟っていく。
(……………勝手な話だ。)
毎回毎回、好きな奴ができる度にオレはグレイスに助けを求めて………上手くいかなかったら全部あいつの所為にして…………ろくに礼も言わず。
それなのに………幼馴染であるあいつがオレ以外の男と仲良くなろうとしている時、同じ様に応援してやるどころか喜んでやる事も出来ねえ。
………………許せなかった。
裏切られた様な気分だった。
そして、そんな自分がひどく汚らわしくて浅ましい人間に思えて………、軽蔑した。
*
「…………いつまでそこにいんだよ」
慣れ親しんだ気配を背中に感じて、オレは声をかけた。想像以上に低く不機嫌そうなその声に、我ながら嫌になる。
…………一拍して、湿った土が踏まれる音がした。
暗がりから出て月明かりに照らされたその顔は、やはり。一番会いたくて、それでいて二度と見たくも無い、そんな人物だった。
「…………こっちの森へと遠ざかる貴方の後ろ姿が見えたので。雨が……降って来て、だから……それで、来ました。」
グレイスには珍しく散漫な物言いだった。白い月光が元より白い彼女の肌の色を更に薄く見せていて、まるで幽霊の様な不気味さを感じさせる。
「ジャン、風邪を引いてしまいます。帰りましょう。」
そう言ってグレイスはオレの方に傘を1本差し出した。
…………自分は、もう既に山梔子色の傘を頭上に掲げている。…………奇しくもそれは、彼女の瞳と同じくすんだ色だった。
オレは…………差し出された傘をしばらく眺めた後、首を振って受け取る事を拒否する。
それを見て、困った様な呆れた様な表情をしながら口を開こうとするグレイスを遮って、オレは彼女がさしている傘を指差しては「それ」と零した。
「…………それだけで充分だろ。」
続けて呟いた後、グレイスの掌から傘の柄を奪う。
ひどく驚いているのか目を見張る奴に対して、「ちゃっちゃと歩かねえと濡れるぞ」と言って歩き出す。
グレイスは未だに状況がよく掴めてないらしく少々戸惑っていたが、足だけはきちんとオレの隣に並んでついてきた。
細く垂れた月明かりの中、傘からは透き通った生温い雫がぽたぽたと滑り落ちてくる。
この天気にも関わらず、その日は見事な満月の夜だった。雲の輪郭も鈍く銀色に光っている。
オレは………グレイスが傘を二本、どういう気持ちで持って来たのかよく理解していた。…………最近のオレの態度を鑑みれば当たり前だ。
傘二本分。
それがオレ達の間に横たわる距離だ。
オレはこの時………どうにかしてそれを縮めたかったのかも知れない。
今更かよ………って感じだよなあ。
でも、オレは確かに思ったんだ……………
昔みたいに、お前と何の分け隔てなく笑い合いたい………って。
「…………ジャン。」
自分の顔よりも少し下の位置で、オレを呼ぶ声がした。………返事はしない。けれど、一字一句逃さぬ様にしようと耳を傾ける。
「…………私たち、今までずっと喧嘩ばかりしてきました。」
グレイスの声は青闇の中でよく通った。
…………お互いの肩と肩が軽く触れ合うのがひどく懐かしく感じられた。且つては………この距離が当たり前だったのだ。
「でも……、これからは少しだけ、昔みたいに仲良くしてみませんか?」
グレイスの声の中に微かな怯えが混ざり込む。
それが分かると………すぐにでもそうしよう、今まで冷たくあたったりして悪かった、そうだよ、オレもお前と昔みたいに話してみたい事が沢山あったんだ、とか…………言いたい事が山の様に溢れてくるのが分かった。
けれど………。それが口から出てくれる事は無かった。
あと一歩、あと一歩の所でつまらない意地とかが邪魔して優しくなる事ができない。
そして脳裏に浮かぶのはグレイスの柔らかな笑顔だ。………その笑顔の先にいるのは、オレ以外の人間の…あの。
……………随分と長い間、オレ達は無言で森の中を歩いていた。
やがて森を抜けて、見慣れた訓練場が目に入るだたっ広い草原へと帰ってくる。
月光に照らされた雨粒がちかちかと光っていた。それを眺めるグレイスの瞳も微かな光を帯びている。
濡れた様な、しっとりとした光だった。
やがてグレイスは目を軽く伏せてみせる。………彼女の睫毛もまた濡れて光っていた。
「…………そうですか。」
吐息の様な声が唇から漏れる。今一度オレの事を捕えた瞳を微かに細めて、グレイスは柔らかく笑った。
「分かりました。」
それだけ言って、グレイスは再び前を見据える。
…………やはり、オレは何も言う事が出来なかった。
隣にいるグレイスが泣いていても、励ましてやったり、温かい言葉をかけてやる事すらできない。
変わったのはきっとオレだ。…………いつからオレは、こんなにも自分の感情に素直になれなくなったのだろう……………。
ぽっかりと浮かぶ月を眺めては、オレ自身も目頭に熱が集まって行くのを感じていた。
この空の向こうに、痛い程晴れきった青い空があるなんて嘘みたいだ。
そう思う位に、今夜の月は確然として存在していた。
*
……………………思えば、これが最後のチャンスだったのかもしれない。
オレがこの時に、たった一言でも良いからグレイスに自分の気持ちを伝えていれば。
ひとつの仕草だけでも良いから、大事にしてやろうとすれば……………
そうしていれば。
そうしてさえいれば。
――――――――
「…………グレイス。」
薄暗い部屋に声が反響する。
…………次に、何度目になるだろう。激しい嗚咽が喉からせり上がって来た。
途切れ途切れになりながら、何度も名前を呼んだ。
当たり前の様に返事の無い事実で、自分を虐める様に何回でも名前を呼んだ。
『…………ジャン。』ふと、鼓膜を震わせる懐かしい声を聞いた気持ちがして顔を上げる。色んな体液がごちゃ混ぜになって顔を伝い、顎から床へと垂れ落ちた。
………………勿論、そんな声は気の所為だ。
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